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文化・芸術

2011年4月 5日 (火)

太田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』その5

第2章 太田黒元雄とは、そも如何なる人物なりしか(1)

『日本洋楽外史』(ラジオ技術社 1978年〈昭和53年〉初版)は「日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史」という副題がつけられた本です。野村光一(1895-1988)と中島健蔵(1903-1979)の「長老」両氏の話を、当時NHK洋楽チーフ・ディレクターだった三善清達氏が引き出していく「座談会」をそのまま活字化しています。(以下、敬称は略します)。

その中で野村光一は、明治から大正へ移るころの青年たちの様子をこのように語っています。田山花袋や島崎藤村の自然主義が「当時の若いわれわれに非常に強い影響を与えた」(前掲書から引用。以下も)に続けられて、

「われわれの生活態度は少しずつ変わりつつあった。だからそれ以前の明治時代には考えられなかった、小説家になりたい人、音楽家や画家志望の人がぞくぞく出てきて、そういう人たちが芸術運動をやり、新しいものを求めよう、先へ進もうという気風を作ったんですね」。

「それまでの音楽運動の中心であった東京音楽学校のコンサーヴァティヴなやり方や、ドイツ文化的なガチガチのやり方ではあきたらない、もっと新しいものがなくてはならないということになって、殻を破るような方向へ運動をもっていこうという気持が、われわれ若い世代の中に定着していった」。

そしてその文脈で太田黒の名前が出されます。

「例えば、私自身のことになるんだけど、第一次大戦の直前に偶然の機会で太田黒元雄さんと知り合ったわけですよ。彼はヨーロッパへ行って、しかもイギリスにいたんだ。その頃のイギリスの楽壇にはドイツ音楽もあったけれど、ロシアやフランスの新しい音楽も非常に盛んだったので、それを見たり聴いたりしてきて、われわれに植えつけたんですよ。

ロシアのムソルグスキーとかスクリアビン、バレエのストラヴィンスキー、それからフランスの印象派。それらの知識をまず持って帰ったのが太田黒でしょう。

こういった音楽は当時の音楽学校ではまったくかえりみられなかったものなんだ。むしろ異端でさえあったわけですね。

それで彼は『バッハよりシェーンベルヒ』という本を書いたりして、一生懸命広めようとしたんだな。これが日本の音楽畑に新しい運動を作る基礎をなしたということは、絶対に否定できない。私はその点で、太田黒元雄という人が思想的というより知識的なんだけど、こういうことを率先してやった功績は実に大きいと思って、今更ながら感心してますけどね」。


野村が太田黒に出会った「偶然の機会」については、青柳いづみこ氏のブログ『青柳いづみこのMERDE!日記』に詳しい。http://ondine-i.net/merde/071105.html

2007年11月5日/大田黒元雄のピアノ という項目から引用させていただく。
1915年に『バッハよりシェーンベルヒ』が刊行されて、

「 さて、この書が刊行されたときのショックを野村光一はこんな風に語っている。
  『表題のバッハは誰でも知っているが、シェーンベルヒなる者は嘗て耳にしたことがない。バッハと同時代の音楽家なのだろうか?(シェーンベルクは1874年生れです)。ちっともわからない。もしこれが後者に属するのなら、この著者は最近の西洋楽壇の事情に余程精通している芸術家かあるいは学者に相違ない』

  ところで、それからすぐに野村光一はその「大田黒氏」にでくわすのである。

  銀座の山野楽器(当時の松本楽器)にピアノを買いに行った野村光一(当時20歳)の前に、中折れ帽を斜めにかぶり、釣り鐘マントを着て象牙のステッキをついたハイカラな青年紳士が姿をあらわす。

その紳士は店頭に飾ってあった唯一のスタンウェイのグランドに歩み寄るや、次から次と暗譜でショパンはじめさまざまな楽曲を弾きはじめたので、野村は度肝を抜かれてしまう。お店の人の紹介で、その紳士が『大田黒氏』だったことを知り、やがて大森の邸宅に遊びに行くことになる」。

太田黒元雄は「1893年、実業家の一人息子として東京に生まれた。父は東芝を業界トップの企業に育成したり、九州電力の創設にかかわったり、実業家として一代を築いた人物である。元雄は身体の弱かった母の転地療養先で育てられた。

  中学を卒業後、高等学校には進まず東京音楽学校の教師ペッツォルトについてピアノを習う。1912年から14年までロンドン大学で経済を学び、数多くの音楽会やオペラに通い、見識を深めるが、夏休みで一時帰国している間に第1次世界大戦が勃発してそのまま大森(現在の大田区山王)に滞在。銀座の松本楽器(のちの山野楽器)から作曲家の評伝を依頼され、ロンドンで買い求めた楽書や楽譜をもとに『バッハからシェーンベルヒ』という本を執筆する。このとき大田黒はまだ22歳だった」。(前掲ブログから引用しました)。

2011年3月25日 (金)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その4

序章/澤田柳吉なる洋琴弾きがシェーンベルクの音楽を日本初演したること(3)


前項、澤田柳吉の残したSP目録の続きから。

眞白き富士の嶺 三角錫子作詞 ガードン作曲  ノジサン 379(A) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
ママも知る通り(Voilo Sapete) マスカーニ作曲  トウキョウ 8731  原信子 澤田柳吉(ピアノ) (歌劇「カ    ヴァレリア・ルスティカーナ」 1918(大正7).12) *東京蓄音器
夕空晴れて フジサン 362(B) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
同上     ヒコーキ 2126B  同上
夜の調べ  フジサン(トウキョウ) 1379(B) 原信子 澤田柳吉(ピアノ) 1918(大正7).12 東京蓄音器
夜の調べ(Serenade) グノー作曲  トウキョウ 8731  原信子 澤田柳吉(ピアノ)
ローマンス  フジサン(東京) 1378(A) 原信子 澤田柳吉(ピアノ) (カヴァレリア」中の一節 1918(大正7).12 *富士山印 *東京蓄音器

以上、「日本の作曲家・演奏家 SPレコード総合目録」(木村喬 著・編纂、アナログ・ルネッサンス・クラブ 制作・公刊)からの引用でした。

澤田柳吉についてはSPファンのブログに、おもしろいエピソードをみつけました。
「。「日本一の洋琴家」といふ看板を引っさげて浅草オペラの舞台に立ったまではよいが、洋琴音楽を理解できぬ見物客から罵声を浴びせられ辞めてしまった。1923年の関東大震災の後、関西方面に移り、貴志康一とデュエットをするなどした」。
以上、浪漫亭随想録「SPレコードの60年」から。http://blog.goo.ne.jp/tenten_family6/e/a661466b1c27b6ef8ead2df7c084abe9

貴志康一は芦屋市伊勢町にいました。澤田柳吉も、ことによると貴志康一とともに芦屋浜を散歩したかも。貴志康一はレオ・シロタと仲が良かった、との話をご遺族からお聞きしていますが、意外なところで意外なつながりがあったものです。

ところで、前項のクリストファ・N・野澤氏の文の一節に「1909年にリサイタルを開いており、日本人のピアニストでは最初といわれている」とあります。その前にはなかったのか。幸田延先生は? と調べるうちに、ある一冊の本に出会いました。

『日本洋楽外史』野村光一・中島健蔵・三善清達(ラジオ技術社)。副題は「日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史」。初版は昭和53年(1978年)7月15日。
「ステレオ芸術編集部」の提案をうけて、当時のNHK洋楽チーフ・ディレクターの三善清達氏が当時の長老お二人に話を引き出されました。野村光一氏は明治28年(1895年)生まれ。中島健蔵氏は明治36年(1903年)生まれ。野村氏は幸田延の演奏を聴いておられる。座談会形式で、この本は進められます。つぎのように。


当時は「例えばリサイタルといっても一人だけのものではなくて、どれもジョイント・リサイタルみたいだった。普通の音楽会というと一つ一つ演奏家がみんな違うんだよ。声楽もあればピアノもあり、ヴァイオリンもあればコーラスもあるといった具合にね(中島健蔵)」。

「幸田延さんが明治29年に帰朝された時の演奏会のプログラムを見ますと、まずメンデルスゾーンのヴァイオリンですよね。それから独唱としてブラームスの《五月の夜》を歌っているんですね。そうするとヴァイオリンから歌まで、どれもおやりになった……(三善清達)」。


明治廿九年五月「音楽学校同声会」プログラム(幸田延帰朝紹介)
1.洋琴聯弾 ボアエルデュー氏作《才女》 内田菊子、由比くめ子
2.唱歌 ウェッベ氏作曲 鳥居忱氏作歌 《那須与一》 会員
3.バイオリン独奏 メンデルスゾーン氏作 《コンサルト第一部》 幸田延子
4.三曲合奏 峰崎勾当作 《吾妻獅子》
5.風琴独奏 バハ氏作 《コンサルト》 島崎赤太郎
6.音楽四部合奏 ヘイデン氏作 《第一部》 第一バイオリン 幸田延子、ほか
7.クラリネット独奏 モザート氏作 《ラーゲトー》 吉本光蔵
8.洋琴独奏 ビートーベン氏作 《ムーンライトソナタ》 遠山甲子
9.独唱歌(ドイツ語) 甲 シューベルト氏作 《死と娘》 乙 ブラームス氏作 《五月の夜》 幸田延子
10.バイオリン独奏 バハ氏作 《フーゲ》 幸田幸子ほか6人
11.唱歌 甲 シューマン氏作 《夢》 乙 ヘイデン氏作 《春の夕景》 会員
12.三曲合奏 《岡安砧》 筝 今井慶松、ほか  


幸田延のウィーン留学を勧めたのは、有名なヴァイオリニスト ヘルメスベルガーの弟子のディードリッヒだった。ほかにも日本に西洋音楽を伝えたケーベル、ユンケル、ペツォルド夫人らの名が挙がり、話はやがて当時の聴衆のことに移ります。

「あの頃の聴衆の一つの特徴は社交界だったということだよ。何となく音楽会へ行くという習慣を外国生活して持っている連中のね(中島健蔵)」。
「鹿鳴館の名残りという感じもあったんですか?(三善清達)」。

「僕は鹿鳴館時代の聴衆を多少知っていたけど、その連中音楽なんてまるっきり判りゃしないんだよ、ひどいものだった。要するに社交ですよちっとも面白くないけど、これも文明開化だからって(中島健蔵)」。

「つまるところ、文明開化のアトモスフィアに一つの余興を添えるために西洋音楽があったということなんだな。鹿鳴館の場合はそれでいいと思う(野村光一)」。


そんな空気がまだ残る日本で、澤田柳吉はシェーンベルクを演奏したのです。彼に楽譜を提供した大田黒元雄について、いよいよ始めます。次回の更新のときに。


 

  
 

2011年2月17日 (木)

「青騎士」について その34 補遺3

シェーンベルクとカンディンスキーの往復書簡は、これまでにシェーンベルクの手紙の紹介は終わりましたが、カンディンスキーの手紙の最後のものは、まだだったからです。ひとまずは、それを読んでください。とても長いので、複数回になりました。今回はその第3回目。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)から引用します。


「あるいはまたここでは、やってもむだなほど、古いポスターの撤去が見られます―いつか雨が片づけてくれるでしょう―そこであなたは、一年前に行なわれた音楽会を知らせる、外見に新鮮な一枚のポスターを目にすることができます。

あなたはまた、バスの車掌に彼の受け持つ線の発着時間表を尋ねると、「それは変わりましてネ」という返事を受け取ります。しかしそれがどのように変わったのかについては、ほとんど誰からも聞けないでしょう。
人は腹を立て、笑い、そして満足します。そのような事態は、正真正銘のドイツ人にとっては命取りになるでしょう。


親愛なシェーンベルクさん、あなたはまだ、わたしたちが―あのシュタルンベルク湖畔で―知り合ったときの様子を思い出せますか。わたしは汽船に乗って、短い皮ズボンをはいて到着し、一種の白黒版画の光景に出会いました―あなたは白づくめの服を着ていて、ただ顔だけが深い黒に陰っていたのです。

そしてそのあとムルナウでの夏のこと。ずっと昔のこの時のことを思い出すと、わたしたちの当時の同時代人たちはみな大きなため息をついて、「うるわしい時代だった」といいます。

それは実際うるわしいものでした、うるわしいより以上のものでした。
あの時代はどんなにすばらしく生命が脈打ち、わたしたちは間近い精神の勝利をどんなものになるかと期待していました。今日もなお、確信に充ち溢れて、それを期待しています。ただ、それにはまだ長い、長い時間がかかることをわたしは心得ています。


あなたがわたしから聞きたいと願っておられたわたしのお知らせは、長くてこまごましたものになってしまいました。その「お返し」を待っています。その間、あなたの奥さんにもたくさんの心からの挨拶を申し上げます、わたしの妻も同様によろしくと申しています。

                              あなたのカンディンスキー

そうです!アメリカへ行けたら、すばらしいでしょう―ただ訪問の形ででも。数年来それを計画しています。少なからぬ費用のことはともかくとして、今までのところいつもいろいろと障害がおきてきました。こちらへ移住した最初の二、三年は、やっと訪れた自由を仕事のためにできるだけ無制限に享受し、思う存分に利用するため、パリをけっして離れないようにしようと思っていました。しかし一度アメリカを見たいという夢は、ずっとつづいて残っています」。


この後、シェーンベルクからの返書はなく、またカンディンスキーから出されたシェーンベルクへの手紙もなく、したがって、これをもって『シェーンベルク/カンディンスキー往復書簡』は終結します。初めて知りあったときの様子の、いかにも画家らしい描写。『青騎士』の時代への熱い追憶。日付は1936年7月1日でした。

1934年、ヒンデンブルク大統領死去後、ヒトラーは国家元首に就任。1935年、ニュールンベルク法、制定。「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」の総称で、この法律でナチス・ドイツはユダヤ人から公民権を奪い取ったのでした。

1936年はレニ・リーフェンシュタールが記録映画をつくった「ベルリン・オリンピック」開催。翌1937年、ヒトラーは戦争計画を固め、翌1938年、オーストリア併合。ウィーン・フィルの指揮者でもあったブルーノ・ワルターは同フィルとの録音をマーラーの「交響曲第9番」を最後に、パリへ逃げます。しかしやはり一時避難先にすぎず、結局はアメリカが安住の地になったことは、シェーンベルクと同じです。シェーンベルクは1933年に渡米。


カンディンスキーは、おさらいですが、1933年ナチの弾圧により「バウハウス」閉鎖。それにより失職。ただちにパリへ移動します。翌1934年から作品のタイトルをフランス語で記すようになります。1935年、コート・ダジュールに夏を過ごす。1936年、ピサ、フィレンツェに旅行。「コンポジシオンⅨ」を制作。カンディンスキーは「自由」でした。

1937年、パリ万博にピカソが「ゲルニカ」を出品した年ですが、ナチス・ドイツはカンディンスキーの作品を57点没収します。「退廃芸術」の烙印を押されて、ドイツ各地の美術館で巡回展示されました。のち、「処分」。

カンディンスキーは1939年にフランス市民権を得ます。翌1940年、ナチス・ドイツ軍侵入当時、ピレネー山中に2か月間引きこもりました。そして1944年、「穏やかな飛翔」を絶筆にして、12月13日に亡くなりました。8月の連合軍によるパリ解放のあとでしたが、1945年のヒトラーの死とナチス・ドイツの敗北は知らずに。また、アメリカへは行くことなく。


カンディンスキーの大きな展覧会が日本で初めて開かれたのは、1976年のことでした。西武タカツキでの図録がいま手元にありますが、当時お元気だったニーナ夫人の書いた「夫カンディンスキー」という文章が載っています。

「1922年の8月にワイマールに住んでいたカンディンスキーは、近代美術の講演をするために日本から招待を受けました」。
なんと、そんなことが! それについて詳しく書いてると長くなりすぎるので、続きは次回更新のときに。

2010年12月11日 (土)

「青騎士」について その15

難産の末に発刊された年刊誌「青騎士」に収録された音楽論は、まずシェーンベルクの『歌詞との関係』に始まります。日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)から引用します。


「音楽が言い表さなければならないものを、純粋に音楽的に理解できる人間は、比較的少ない。楽曲はなんらかの表象を呼び覚まさなければならなず、そうでなければ、その楽曲は理解されなかったか、なんの役にも立たないという考えが―まちがった凡庸なものだけが広まりがちであるように―きわめて広範に流布している」、という書き出し。


「音楽そのものには直接認識できる素材的なものが欠けているために、その効果の背後に純粋に形式的な美を探し求める人たちもいれば、なんらかの文学的事象を求める人たちもいる」。


ショーペンハウアーは、音楽を「理性では理解できない言語」とみなした。彼には音楽を「概念に翻訳してしまう、つまり抽象にして認識可能なものへの還元にほかならない人間の言語に翻訳してしまうと、本質的なものが失われ、理解しがたくとも感じられるはずの世界の言語が失われる事態は、はっきり分かっているにちがいない」。


しかし、「人びとは音楽のなかにいろいろな事象や感情を、まるでそれらがそこにあるのが当然であるかのように識別しようとする」。だから批評家は「純粋に音楽的な効果に立ち向かうと、かれは完全に途方に暮れてしまい、それゆえ、標題音楽や歌曲やオペラなど、なんらかの形で歌詞に関わる音楽について書く方が都合がよいのだ」。「ともに音楽について語れる音楽家は、実際もうほとんど存在しない!」。


シューベルトのよく知られた歌曲について、シェーンベルクはその歌詞について「まったく知らなかった」ことに気づきます。「ところが、のちにそれらの詩を読んでみて明らかになったのだが、詩を知ったからといって、これらの歌曲の理解にとって得られたものなど、まるでなかったのである。むしろ反対だった」。


「私に明らかになったところでは、詩を知らないときの方が、元々の言葉による思想の表面が脳裏に焼きついたときより、内容を、本当の内容を、もっと深く捉えていたとすらいえるかも知れないのだ」。


「この体験よりもさらに決定的であったのは、つぎの事実である。私は自分の歌曲の多くを、最初の歌詞の冒頭の響きに心奪われ、文学的事象がその先どうなるか少しも気にかけずに、それどころか、作曲に夢中になって事象を少しも理解せずに最後まで書いてしまい、その後幾日も経ってからようやく、そもそも自分の曲の文学的な内容はなんだったのか調べようと思い立った」。


「そこで明らかになったのは、実に驚いたことに、冒頭の響きと最初に直接触れて、それに導かれ、この冒頭の響きにどうやら必然的につづくと思われるものすべてを察知したときほど、私が詩人を完全に正しく理解したことは一度もなかったのである」。


以下は次回の更新のときに。


2010年11月19日 (金)

ザ・コレクション・ヴィンタートゥール その6

ザ・コレクション・ヴィンタートゥールを神戸の兵庫県立美術館へ見に行きました。
その6です。

ザ・コレクション・ヴィンタートゥールの最後の部屋は「20世紀Ⅲ 素朴派から新たなリアリズムへ」。
アンリ・ルソーを見ることができて、さらに進むとジャコメッティ[1901-1966)の彫刻があり、絵がありました。ブラヴォー!
2006年に兵庫県立美術館で「アルベルト・ジャコメッティ」展で彼の作品を見て以来だったので、これは嬉しかった。

展示されていた彫刻は「横たわる女」(1929)。これだけが初期の作品で丸みが表現されています。「林間地」(1950)、「ディエゴの胸像」(1955)。絵は「座って新聞を読むディエゴ」(1952-53)。

ジャコメッティはスイスのボルゴノーヴォに生まれ、この展覧会にも展示されていた父のもとで油絵などを学びました。1922年、パリへ出てキュビスムの影響を受けた彫刻を製作。1930年からシュルレアリスムの運動に参加。
大戦中の1941年から45年まではジュネーヴに留まるほかなく、1946年、パリへ戻ったころには独特の細長く突き詰められた人体の造型が確立されていましたv。

高校生のときから彼の彫刻の造型が好きでした。彼と親交が深く、絵と彫刻のモデルとして繰り返し表現されもした矢内原伊作の『ジャコメッティとともに』が1969年に筑摩書房から出て、それを高校の図書館でむさぼるように読みました。

のみならず矢内原伊作は、法政の文学部教授に1970年になっていて、72年からそこへ進んだ教養課程で彼の講義を受講しようと思えばできたのです。しかし、しなかった。すでに詩人の群れの中にいて美術は後回しになっていたのです。そして1973年、当時の兵庫県立近代美術館で「ジャコメッティ展」開催。

それまでは彫刻といえばロダン。家にあった美術の本でもロダン以外では女体が美しいマイヨール、ベートーヴェン像など男性的な造型がすばらしかったブールデルどまり。
彼らの彫刻は、いわば彫刻の具象であって、ジャコメッテイは彫刻という分野で抽象へ突き抜けたと理解しています。いや、一度突き抜けて、再びぎりぎりの具象へ戻ったというべきでしょう。

「どうしてそんなに細長くつくるのか」と人に問われたときに、ジャコメッティは「だって、そう見えるから」と答えました。彼は器官をそなえる人体をつくることよりも、一途に垂直に天と地を貫く人間の精神体を造型したのです
。飾りはいらない。飲食と排泄、睡眠さえ精神にとってはいらぬもの。そうとでも言いたげな細い棒のような「人間」の像。

絵は闊達です。いずれも早い線で仕上げられていて生きています。
これでザ・コレクション・ヴィンタートゥールは完結です。12月26日まで神戸の兵庫県立美術館で開催されています。

2010年10月 3日 (日)

文学の言語について その9

翻訳する、ということ。

関東大震災後の谷崎潤一郎は「芦屋」(実際は神戸市東灘区にも西宮にも。戦前の阪神間モダニズムの象徴として「芦屋」とします)に移り住んで『細雪』を書きました。彼の母国語は東京の下町ことばでしたが、洗練の極に達していた上方のおんなことばを真水のような透明さで映し出しています。関西弁が耳に飛び込んでくるたびに、それが分かる人に「そりゃ、なんて意味だい?」が連発されていたに違いありません。ということは、彼の頭の中では「翻訳」と語彙と語の組み立ての分析、そして自ら関西弁を書いてみる、という作業があったでしょう。

彼以後の関西弁圏出身以外の作家の書く関西弁はどこかおかしい。例外は中井英夫の『虚無への供物』に出る大阪弁ですが、これは精確。それについては後書きで記されているように歌人・塚本邦雄の指導を得た、ということです。(東京の作曲家・三善晃さんに合唱曲『小さな目』というものがありますが、その中の一曲に「そんなことあらへん」という歌詞がある。三善さんの曲は「あらへん」の「あ」にアクセントが付いてておかしいんですよ。)

阪神淡路大震災後、小田実さんと僕は震災被災者に公的援助を求める運動のために、国会議員や内閣法制局や地元から全国の市民に向けてのことばを無数に書きました。「神戸」(西宮の小田さん、芦屋の僕を含めての「神戸」です)の被災者の言葉を伝えるためのことばの創造には、やはり「翻訳」という作業が必要でした。被災が甚大だった神戸市長田区のことばは僕の通ってた灘区のことばともまた違います。彼らの言葉を国会へ伝えるために用いた語彙と、全国の市民に向けての文書に使った語彙とは少しまた違ったものになったかも知れません。

フランシスコ・サヴィエル(前項でザビエルと表記していました。Xavierはサヴィエルと書くことにします。1506-52)は日本人ヤジロウを伴って、1549年8月15日鹿児島に上陸しました。バスク王国城主の子として生まれ、パリ留学時にイグナティウス・デ・ロヨラと知り合いイエズス会創立7名中最年少の参加者になりました。1541年リスボンを出発してインドのゴアへ。そして1546年、マラッカで日本人ヤジロウに出会い日本伝道を決意することになったのです。

しかし、どうして日本人がそんな時代にそんな場所にいたの?
サヴィエルの書簡からまとめます。「わたし」はサヴィエル。
「ポルトガルの商人たちは日本が熱心にキリスト教を受け入れる見込みがあるという。なぜなら日本人は学ぶことの非常に好きな国民であるからだ。この商人たちに付き添われてアンヘロ(アンジェロ、ともヤジロウは呼ばれました。アンジロウとも)に会った。彼は鹿児島でわたしのことを聞きここまで、彼ら商人たちの船に乗って来ていた。アンヘロはわたしに告白したかった。青年時代に犯した重大な罪(殺人、との説あり。引用者注)に対して、神からの赦しを与えられる方法を求めたのだ。」

「アンヘロは我らの信仰のことを聞きたいという熱望をもって来た。彼はかなりのポルトガル語を話すので、わたし達は互いに了解することができた。彼はわたしの講義に来て信仰箇条のすべてを自分の国語で書きとめた。彼はわたしに無数の質問を浴びせた。何でも知り尽くさずにはおかないという強い欲望をもっている。わたしは彼が同じ船に乗ることをおおいに希望した。」

ヤジロウは1548年、パウロ・デ・サンタフェという洗礼名を授けられた日本人最初のキリスト教徒になりました。
彼は粉骨砕身の努力をもってサヴィエルの布教を助けます。すでにゴアに滞在中「マタイによる福音書」の注解和訳を終えていました。『サン-マテウスのエワンゼリヨ』。しかし現在はその片鱗さえ見ることができません。僕が学生の頃にその筋の人(どの筋や)のお話を聞いたところによれば、最初期の聖書の翻訳では「神の愛」の「愛」の訳語にさえ四苦八苦したそうな。なんせ日本語にあらへんさかいな。アガペーやで。エロスとちゃうのんやで。それで辿りついたんが「お大切」ちゅう言葉やん。「神のお大切」ゆうてんがな。

それがヤジロウのことだったかどうかは分かりません。ただ、ヤジロウが「デウス(神)」を「大日」と訳せば日本人には分かるから、とサヴィエルに進言したことが後になって師匠を困らせることになりました。「大日を拝みなさい」と呼びかけると僧侶たちは仏教の一派だと思いこんでしまって、歓迎しました。あれ?
他にもパアデレを「僧」。パライゾを「浄土」。「キリシタンの御法」(みのり)」。「仏法」。これらのテヘ!の失敗には後年の海老沢有道博士も「仏教語を媒介としてキリスト教教理を伝えなければならないことは、いわば宿命的な条件であったから、当時としては止むをえないと言わなければならないだろう」と温かい眼差しを注いで下さってます。万歳、ヤジロウ!

翻訳とは、かくのごときもの。
さて今。どんなに僻地、どんなに地の果てにいても、文芸はネットを通じて全世界に発信できる時代になりました。しかし、まだ過渡期。旧時代から続いてる文芸の中心は東京にあり、紙媒体で全国に発信しようと思えば日販、トーハンの取次口座をもつ出版社から本を出すか、それが容易にできなければ雑誌に投稿するほかありません。東京に通じることばで書かなければ編集者に理解できず、賞の審査をする人たちにも理解できないからです。
そこで「言文一致」の母体である日頃喋ってる母国語を翻訳する、という作業が求められます。関西弁を母国語とするならば谷崎の逆作業。

現在は見るところ標準語は絶滅。誰もよそいきのことばで書いてません。よそいきでなくみんなにわかるのは「共通語」です。その共通語がネットの言葉で形成されつつあり不断に進化しています。日本語がんばれ。まだ成熟が足りない。千数百年の年季を経た京・大阪のことばの上に東京のことばが乗っかって、まだ百年余りです。まだまだ、新しい「口語」の文体は生まれたばかりです。

2010年9月22日 (水)

大阪シンフォニー その3

小田実『大阪シンフォニー』にちなむバス・ツアー。
小田さんが少年時代によく遊んだ、歩いた、という四天王寺も猪飼野も、桃谷の瀟洒な洋館に住む日本人の少年にとっては「まるで別の世界」=「異界」の迷路をさまよい歩くかのごとくだったことでしょう。四天王寺は西方浄土への入り口がある場所。猪飼野 コリアタウンは隣国であれ別の言語や文化、風俗で生きている人たちが住む異国。

小田さんが高校を卒業するまで住んでいた桃谷の実家のあった区画は、現在マンションが建ち面影すらありませんが、僕はその家へ1995年の春から秋口までしばしば訪れていました。地震後の小田さんの家族の疎開先であり、その家が「市民救援基金」の基地になっていました。

2階に小田さんの少年時代に過ごした部屋があり、梁には白い塗料で書かれたVivre? les serviteurs feront cela pour nous(生活?そんなものは家来どもに任せておけ)というフランス語が記されていました。ヴィリエ・ド・リラダンの遺作『アクセル』の一節です。リラダンは大貴族の家系に生まれたにもかかわらず貧乏な詩人であり、ボヘミアンでした。僕がリラダンを好きになったのはスタイリッシュな齋藤磯雄訳でしたが、小田さんが読んでたのはもちろんそれより古い渡辺一夫訳だったでしょう。これ、リラダンですね、というと小田さんは相好を崩されて「そうや、リラダンや!」。

死を「見えないもの」と感じて「見たい」と望む芸術家は、ロマンティックになります。神秘主義へも赴きます。未来を見たいと望むあまたの種類の占いの信奉者も同じくです。人はいずれ死ぬ。それ以外の事実はなくて、人は誰も現在を正面突破して生きていくほかはないのに。

小説家 小田実はリアリストでした。12歳のときにアメリカの執拗な大阪空襲の仕上げの1トン爆弾が炸裂した8.14大阪大空襲に生き延び、直後のまだ煙が上がる焼け跡で燃やされた遺体を瓦礫の中から引きずり出し、無数の黒焦げの死体の山を前にして、噴き上げてくる怒りを覚えました。小田さんのすべてはここに根差しています。文学も、市民運動も。頭でっかちのイデオロギーなど、彼には初めからありませんでした。


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砲兵工廠跡。大阪城公園のなかにあります。事実上戦争は終わっていたのに、ポツダム宣言を受諾しなかったためにアメリカが非戦闘員 市民を大量虐殺するために行なった8.14大阪大空襲の爆心地。小説『大阪シンフォニー』では、父親をその空襲によって殺された少年が、日本とアメリカの二人の元首を「殺したい」と呻くように洩らします。下図は現在の砲兵工廠跡。京橋の高層ビル群のあたりまで、日本軍の兵器工場は広大な面積を持ち広がっていました。


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2010年9月10日 (金)

ギャラリー その3

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2005年から始まった画家 松井美保子さんの僕をモデルにした絵は、まず座像1枚と横たわる像1枚ができあがり、2006年春から100号の大画面に「座る」僕と「横たわる」僕を1枚に収めた絵に取り掛かります。上の画像が最初の作品。部分拡大すると下図。


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以後、この構図の作品は連作となります。それらの展示を急ぐ前に、どうして松井さんが画家として僕に興味を抱かれたのかをお尋ねしたときのことを書いておきましょう。
まずファッションだ、と。僕がまず、あの雨の秋の夜、芦屋市民会館の一室に松井さんの視線を釘付けにした時の上衣はゴス・ブランド アリス・アウアアの前にも後ろにも紐が巻き付いてる黒いカットソーでした。長髪、細身、世の中の「大人の男性」の姿かたちの「定番」は、そのころの僕にはもはやなく、ひたすらに自分自身へ戻ろうという心の動きのままの服装を心掛けていました。

震災被災者のための市民運動を小田実さんとやり、そのために数知れぬ回数を国会までの往復に費やしてた時には、僕は彼ら議員・役人とたたかう戦闘服として紺のスーツに身を包んでいました。2003年の9月に、サロンのスタッフの勧めもあって、もうそれはやめよう、ということにしたのです。服装自由。となれば僕の場合はどうなったかといえば、体が細くてレディース・サイズ余裕で対応。パンクやゴシック大好き。なもんで、心斎橋アリス・アウアアへ行き、いくつかのゴシック・スタイルを求めたのが皮切り。それがこの絵に描かれています。腰から巻いてるタータン・チェックのスカートは、前あてと後あてに分割されてるもので、ロンドン・パンクの奴ら発祥。宮下貴裕さんの旧「ナンバーナイン」の2006春夏アイテムです。

それにしても、モデルになることで美術の人との交流が始まるなんて! これは大いにエキサイティングな人間どうしの係わりの始まりでした。

小学校、中学校の美術の先生は僕の絵や立体を、ちゃんと見てくれてた。室田先生や海田先生、ありがとう。その後、高校3年の冬休みに神戸の画廊で見た書家 前田島之助さんに出会いました。画廊の帳面に感想と住所を書いてたら、後日「交流したし」との葉書が。会ってみたら、僕が18歳で前田さん62歳。彼は僕のそれまでに描いてた黒い線の絵を「なんて繊細な線!」と評価してくれた人でもありました。その1枚はお持ち帰りになって、「展覧会をいっしょにやろう!」とまで誘われたのですが、そのときの僕の尻込みで立ち消え。前田さんの書は、書家以外の芸術家からの反響が多い、とこぼされてたのが彼の芸術を現わしています。

サロンを始めてからは、まず石阪春生さん。彼はサロン外壁の大判ポスターのコラージュ作品に目をとめて「いい」と。平面デザインの仕事もある石阪さんにそういってもらって、一時期はコラージュに精を出したもの。
『G』を読んでおもしろかった、と現れたのが、画家 八木淳一さんです。僕は白と黒に徹した彼の絵が好き。そして、パリのサロン入選の片岡真太郎さんには地元のロータリークラブを通じて。

もっとも、芦屋には家の近所に伊藤継郎さんがいて、「具体」の吉原治良さんら、そうそうたる美術家が。写真でも中山岩太さんの未亡人 愛子さんはサロンを訪れてしばしば。ハナヤ勘兵衛さんの孫さんふたりは僕の親しいひとたちであり、小学校では小出楢重の孫 龍太郎くんと同じ学級でした。


2010年8月22日 (日)

夜と朝の間に その4

深夜、ものみな寝静まるとき。この「夜と朝の間」の時間の魅力を知ったのは、中学生のころでした。AMラジオの深夜放送を聴くのが、なんか禁忌を犯してるようで、なんかパーソナリティと共犯してるような快楽で。より能動的に深夜に本を読み、自分のことばを書きつけ始めたのは高校生になってからです。家の中で僕ひとりが目覚めていて、いろいろな束縛から解かれて、完全な自由を得てる。小学校高学年から学校が嫌いで、中学はなんとかやり過ごしてたものの、高校になれば学校嫌いは決定的なものになってました。

しかし、満15歳。高校生の少年に何ができる?
できることの高(タカ)は知れていました。学校の図書館で本を借りまくって、ジャンルを問わず本を読むこと。あるいは限られた小遣いのなかから、レコード(LP)と文庫本を渇望にしたがって安く求めること。僕は僕に似た魂に会いたかった。高1、高2とあらゆる小説、詩、哲学と読み進め、高3の7月、「そんなんじゃないよ!」とばかり、僕は猛然とことばを書きだしました。それも、幾夜の「夜と朝の間」の時間に。

アルチュール・ランボーの詩が、まず僕を突き刺しました。高校時代の未発表詩編には「酔いどれ船」を模したものがありました。彼の「錯乱」の思想。あらゆる価値が転倒し、無効になり、新しいものを見抜く「見者」になる、ということ。いま、それが僕の体のなかに甦っています。

人間と人間の間に横たわる、あらゆる壁を突き破りたい。
人間と人間は競い合ってたのしむことがあっても、殺しあう理由も根拠もどこにもない。
僕は誰。強いの?弱いの?そんなことはどうでもいいよ。
むしろ存在の理由と根拠を、属する集団に求めることを不潔と思う。
僕は、たったひとりで、天地の間に立つ。
およそそんなことが、17歳の僕の個人的な自分に言い聞かせた宣言でした。
ポール・ニザンだったと記憶しますが「17歳。美しい季節だとは誰にも言わせない」。

「夜と朝の間」の時間には、上京後に詩人やその周りにいた人たちの遊ぶ酒場で、いろいろなことを僕は学びました。昼も夜も、お酒の入った「きちがいお茶会」で、瞬時の価値の転倒、秩序の破壊など日常茶飯事。新宿は僕の故郷の重要なひとつです。またおずおずと、詩を書くんだろうな、と思われます。受身尊敬自発可能の助動詞の、これは自発。どんなことばになりますやら。

2010年8月19日 (木)

夜と朝の間に その2

シェイクスピアが戯曲を書き、それの付随音楽をメンデルスゾーンが書いた「真夏の夜の夢」の「真夏」“midsummer"は「夏至」のこと。いちばん暑い今が、僕らの実感する「真夏」です。

一日の時刻としては、最も気温が高くなるのは午後の2時ー3時。一年でいえば8月の中旬から下旬ですね。人生の時間でいえば、平均寿命80歳としていくつになるのかな。

という風に、昔の人は人生と、一年の時間と、一日の時間を照応させて「生きること」についての考えをめぐらせました。たとえば古い中国の知恵の結晶である「易経」。天沢火雷風水山地の八つの自然を構成する要素の陰陽の組み合わせ、8×8の六十四卦は自然と人間の移り変わりのさまを示し、日が昇る卦ならば吉運で、墜ちる卦ならば凶運、という次第。地天泰という安定の卦が易者の看板になっています。

一年には四季がある。春夏秋冬。青春、朱夏、白秋、玄冬。人生の初めの局面を「青春」といいますが、ほかの人生の時間については、あまりそれらの言葉が用いられていません。

夜と朝の間。それは、一日が切り替わる時間であり、死と再生が果たされる時間であるともいえて、一年が切り替わるカウントダウンの時間でもあります。季節でいえば、2月早春。ものみな静かに、やがて来るだろう春に力を備えている、その季節が好きです。

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