太田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』その5
第2章 太田黒元雄とは、そも如何なる人物なりしか(1)
『日本洋楽外史』(ラジオ技術社 1978年〈昭和53年〉初版)は「日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史」という副題がつけられた本です。野村光一(1895-1988)と中島健蔵(1903-1979)の「長老」両氏の話を、当時NHK洋楽チーフ・ディレクターだった三善清達氏が引き出していく「座談会」をそのまま活字化しています。(以下、敬称は略します)。
その中で野村光一は、明治から大正へ移るころの青年たちの様子をこのように語っています。田山花袋や島崎藤村の自然主義が「当時の若いわれわれに非常に強い影響を与えた」(前掲書から引用。以下も)に続けられて、
「われわれの生活態度は少しずつ変わりつつあった。だからそれ以前の明治時代には考えられなかった、小説家になりたい人、音楽家や画家志望の人がぞくぞく出てきて、そういう人たちが芸術運動をやり、新しいものを求めよう、先へ進もうという気風を作ったんですね」。
「それまでの音楽運動の中心であった東京音楽学校のコンサーヴァティヴなやり方や、ドイツ文化的なガチガチのやり方ではあきたらない、もっと新しいものがなくてはならないということになって、殻を破るような方向へ運動をもっていこうという気持が、われわれ若い世代の中に定着していった」。
そしてその文脈で太田黒の名前が出されます。
「例えば、私自身のことになるんだけど、第一次大戦の直前に偶然の機会で太田黒元雄さんと知り合ったわけですよ。彼はヨーロッパへ行って、しかもイギリスにいたんだ。その頃のイギリスの楽壇にはドイツ音楽もあったけれど、ロシアやフランスの新しい音楽も非常に盛んだったので、それを見たり聴いたりしてきて、われわれに植えつけたんですよ。
ロシアのムソルグスキーとかスクリアビン、バレエのストラヴィンスキー、それからフランスの印象派。それらの知識をまず持って帰ったのが太田黒でしょう。
こういった音楽は当時の音楽学校ではまったくかえりみられなかったものなんだ。むしろ異端でさえあったわけですね。
それで彼は『バッハよりシェーンベルヒ』という本を書いたりして、一生懸命広めようとしたんだな。これが日本の音楽畑に新しい運動を作る基礎をなしたということは、絶対に否定できない。私はその点で、太田黒元雄という人が思想的というより知識的なんだけど、こういうことを率先してやった功績は実に大きいと思って、今更ながら感心してますけどね」。
野村が太田黒に出会った「偶然の機会」については、青柳いづみこ氏のブログ『青柳いづみこのMERDE!日記』に詳しい。http://ondine-i.net/merde/071105.html
2007年11月5日/大田黒元雄のピアノ という項目から引用させていただく。
1915年に『バッハよりシェーンベルヒ』が刊行されて、
「 さて、この書が刊行されたときのショックを野村光一はこんな風に語っている。
『表題のバッハは誰でも知っているが、シェーンベルヒなる者は嘗て耳にしたことがない。バッハと同時代の音楽家なのだろうか?(シェーンベルクは1874年生れです)。ちっともわからない。もしこれが後者に属するのなら、この著者は最近の西洋楽壇の事情に余程精通している芸術家かあるいは学者に相違ない』
ところで、それからすぐに野村光一はその「大田黒氏」にでくわすのである。
銀座の山野楽器(当時の松本楽器)にピアノを買いに行った野村光一(当時20歳)の前に、中折れ帽を斜めにかぶり、釣り鐘マントを着て象牙のステッキをついたハイカラな青年紳士が姿をあらわす。
その紳士は店頭に飾ってあった唯一のスタンウェイのグランドに歩み寄るや、次から次と暗譜でショパンはじめさまざまな楽曲を弾きはじめたので、野村は度肝を抜かれてしまう。お店の人の紹介で、その紳士が『大田黒氏』だったことを知り、やがて大森の邸宅に遊びに行くことになる」。
太田黒元雄は「1893年、実業家の一人息子として東京に生まれた。父は東芝を業界トップの企業に育成したり、九州電力の創設にかかわったり、実業家として一代を築いた人物である。元雄は身体の弱かった母の転地療養先で育てられた。
中学を卒業後、高等学校には進まず東京音楽学校の教師ペッツォルトについてピアノを習う。1912年から14年までロンドン大学で経済を学び、数多くの音楽会やオペラに通い、見識を深めるが、夏休みで一時帰国している間に第1次世界大戦が勃発してそのまま大森(現在の大田区山王)に滞在。銀座の松本楽器(のちの山野楽器)から作曲家の評伝を依頼され、ロンドンで買い求めた楽書や楽譜をもとに『バッハからシェーンベルヒ』という本を執筆する。このとき大田黒はまだ22歳だった」。(前掲ブログから引用しました)。
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