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2020年8月27日 (木)

大井浩明ピアノリサイタル――エチュードを囘って Recital Fortepianowy Hiroaki OOI - O Etiudach

大井浩明ピアノリサイタル――エチュードを囘って
Recital Fortepianowy Hiroaki OOI - O Etiudach

https://ooipiano.exblog.jp/31555401/

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
後援  一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)

2020年9月12日(土)/13日(日)15時開演(14時45分開場)
□F.F.ショパン(1810-1849)
●3つの新しい練習曲 B.130 (1839)  7分
 I. Andantino - II. Allegretto - III. Allegretto
●12の練習曲Op.10 (1829/32)  30分
  I. - II. - III.「別れの曲」 - IV. - V.「黒鍵」 - VI. - VII. - VIII. - IX. - X. - XI. - XII.「革命」
●12の練習曲Op.25 (1832/36)  30分
  I.「エオリアンハープ」 - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.「蝶々」 - X. - XI.「木枯らし」 - XII.「大洋」
---
●ピアノソナタ第2番Op.35《葬送》(1837/39)  24分
 I. Grave /agitato - II. Scherzo - III. Marche, Lento - IV. Finale, Presto
●ピアノソナタ第3番Op.58 (1844)  25分
 I. Allegro maestoso - II. Scherzo, Molto vivace - III. Largo - IV. Finale, Presto non tanto

上記の演奏会に寄せた拙文を掲げる。

えてうどは かなしきかな────山村雅治

1

えてうどは かなしきかな
いとをはじく ゆびのちからの
ひといろにあらず なないろの
ひかりのいろを つむぎだす
わざは どこまで きわめれば

わざのわかれは てふてふの
はばたきのごと うたになる
ひととの わかれは せつなくも
こがらしのふく くろい いと
ひとのよをかえる ちからとは

うみにひろがる みなものしずけさ
くろも しろも 
くろだけさえも うたいだす
にじがかかれば やまいはとおのき
しょぱんも りすとも あるかんも

ピアノの演奏を習得するには技巧の練習が必要だ。ピアノだけでなく楽器はすべて固有の音の出しかたがあり、直接楽器に触れる体の部位が楽器と一体になることが求められる。演奏者の音楽が楽器を通して十全に鳴り響かなければならない。ピアノの場合は指で鍵を打つ。単音だけでは音楽にならないから10本の指を使って和音を鳴らしたり、歌うように奏でたり、指を速く回したりする。ピアノ演奏の技術は多様にして多彩をきわめる。
 練習曲は演奏技巧を習得するための楽曲だ。一般には「技巧修得のための練習曲」は教育用の練習曲とされる。ハノンなどはそうだろう。またそれらとはちがい「演奏会用練習曲」があるとされる。ショパンやリストの練習曲は演奏会場で弾かれて聴衆の息を呑ませ感動させる。
 バッハはどうか。バルトークはどうか。純然たる技巧の練習曲とおぼしき楽曲が人を感動させる場合があり「教育用」と「演奏会用」の決然たる区別はできないだろう。リストが師事したカール・ツェルニーは偉大な音楽家だった。日本で初めて西洋音楽の列伝を書いた大田黒元雄は『バッハよりシェーンベルヒ』(音楽と文学社 1915/大正4年)でツェルニーに2頁を割いている。ベートーヴェン、ヴェーバー、ツェルニーと続く。次はシューベルト。

<チェルニー Czerny

 世には多くの洋琴練習曲がある。けれどもチェルニー程此の方面に優れた作品を書いた人は居ない。同時に彼ぐらひ其の後進の洋琴家を悩ました人も居ない。
 此のカール、チェルニー(Karl Czerny)は千七百九十一年ウィンナに生れた。彼は先づ其の父から洋琴を習ひ、次いで千八百年から三年間ベートーヴェンに師事する幸福を得た。かうして練習につとめた彼はやがて、ウィンナで一流の洋琴教授として知られる様に成つた。
 彼は多くの練習曲の外に、多くの歌劇や聖楽を洋琴用にアレンジした。彼の作品の数は千にも及ぶが、其の中最も有名なものに、Die Schule der Gelaeufigkeit. Die Schule das Legato und Staccato 等がある。
 彼の練習曲は彼以後の殆どすべての名洋琴家に用ゐられ、リストやタルべャグ等の大家も皆喜んで此れを試みた。嘗てレシェティツキイがリストに会った時、既に年老いた此の大家が猶驚くべき技巧を保って居たのに驚いて、其の理由を尋ねたところが、リストは毎日半時間以上づつチェルニーを弾いて居る為めだと答へたといふ話がある。
 チェルニーは其の一生をウィンナに過し、千八百五十七年其地に逝った。
 彼の偉業は華々しいものではなかつたが、最も有意義な充実したものであつたと云ふ事が出来るであらう。> (引用者注釈。洋琴はピアノ。タルべャグはジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812-1871)。ツェルニーを一流の作曲家と認めた日本人がいて、この文を書いた)。

 ツェルニーはベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストおよびレシェティツキの師。ベートーヴェンは「ピアノ演奏法という著作をどうしても編みたいが、時間の余裕がない」と語っていた。その願望は練習曲集や理論書の著者であるツェルニーやクレメンティやクラーマーに受け継がれていくことになった。大田黒元雄の記述によればリストはもっとも忠実なツェルニーのピアノ奏法の継承者だった。


2

 リストは、ショパンが亡くなってから誰よりも早く彼の伝記を書いた。2年後の1851年のことだ。
<ショパン! 霊妙にして調和に満ちた天才! 優れた人々を追憶するだけで我々の心は深く感動する。彼を知っていたことは、何という幸福であろう!>という熱烈な讃辞にはじまる。リストとショパンは陽と陰、水と油ほどの芸術の個性をもっていた。惹かれあい、反発しあいの若い時代を共有した。リストのショパンへの讃辞は続く。

<ショパンはピアノ音楽の世界に閉じこもって一歩も出なかった。
一見不毛のピアノ音楽の原野に、かくも豊穣な花を咲かせたショパンは、何と熱烈な創造的天才であろう!>。

<彼の音楽が持つこの陰鬱な側面は、彼の優美に彩られた詩的半面ほどよく理解されず、人の注意も惹かなかった。彼は彼を苦しめる隠れた心の顫動を人に窺い知られることを、許そうとはしなかったのである>。

<ショパンは次のように語った。「私は演奏会には向いていない。大衆が恐ろしいのです。好奇心以外に何物もあらわしていない彼らの顔を見ると神経が麻痺してきます」。彼は公衆の賞讃を自ら拒否することによって、心の傷手に触れられないですむと考えていた。彼を理解する人はほとんどいなかったのである。ショパンは、楽壇の第一線に立っていながら、当時の音楽家の中で、一番演奏会を開かなかった人であった>。

 おそらくは同時代の音楽家のなかでリストひとりがショパンの音楽を理解していた。とくにマズルカやポロネーズについて。

<マズルカを踊っている時とか、また騎士が踊り終わっても婦人のそばを離れずにいる休憩時間とかに人々の心に生ずる、数々の変化にみちた情緒の織物に、ショパンは陰影や光にとんだ和音を織り込んだのである。マズルカのすべての節奏は、ポーランドの貴婦人の耳には失った恋情の木霊のように、また愛の告白の優しい囁きのように響くのである。群に交じって差し向かいに長い間踊っている間に、どんな思いがけぬ愛の絆が二人の間に結ばれたことだろうか>。

 リストはここではショパンの和声や音楽の心について書いた。ピアノ奏法の技法については一言も触れてはいない。批評は印象批評だけではもの足りない。和声についても「陰影や光にとんだ」だけではものたりない。構造にまで踏みこんだ作曲技法やショパン生前のピアノ奏法の技術批評をしてほしかった。リストはやがて社交界をむなしく思い、孤独な音楽家として生きることになる。技術が社交界を喜ばせていたのだとしたら、技術はむなしいと感じていたのだろうか。リストはやがて無調の音楽を生みだすのだが。


 ショパンはしかし、リストに出会ったとき、リストと同じようにピアノ奏法をより熟達させる技術のことも、音楽を深めていくことと同じく深く考えていた。天才の二人は強烈な親近感を覚えただろうし、個性がちがうのだから「ここは反発」ということもあっただろう。あたりまえのことであって、ひとりが大好きな音楽が、もうひとりが大嫌いということもある。彼らはまず社会に生きる人間としての性格がちがっていた。リストは、稀代のヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパじゅうをかけまわり、名声をほしいままにした。ショパンはあれほどの才能をもちながら、大衆を避け、小さなコミュニティの中だけで繊細な音楽を追求し続けた。

 ショパンにピアノ演奏を習った弟子のひとりはエチュード作品10-1についてこう言っている。「この曲を朝のうちに非常にゆっくりと練習するよう、ショパンは私に勧めてくれました。『このエチュードは役に立ちますよ。私の言う通りに勉強したら、手も広がるし、音階や和音を弾くときもヴァイオリンの弓で弾くような効果が得られるでしょう。ただ残念なことに、たいがいの人はそういうことを学びもせず、逆に忘れてしまうのです』と彼は言うのです。このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合は、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすれば良かったのです」。(『弟子から見たショパン』ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米谷治郎/中島弘二訳 音楽之友社刊)。

 エチュードのみならず全作品にピアノ奏法の習熟への課題があった。ショパンは機会を通じて「技法の練習の種類」「楽器に要求される性能」「練習の仕方と時間」「姿勢と手の位置」「手首と手の柔軟性、指の自在な動き」「タッチの習熟、耳の訓練、アタックの多様性、レガート奏法の重要性」「指の個性と独立性」、そして「運指法の原理としての、音の均等性と手の静止」などについての技術をつねに考えていた。

 ショパンは生まれてからの20年をすごしたワルシャワから、もっと大きな音楽の世界を知ろうとした。ウィーンへ行ってみたがそこは彼が生きる場所ではなかった。パリこそが彼の音楽が大きく花開く都会だった。1830年11月2日にワルシャワを旅立ち、11月23日にウィーンに到着。11月29日にはワルシャワでロシアへの「11月蜂起」が起こる。前年の好評はポーランド人のショパンに掌をかえした。しかしウィーンでショパンは「ワルツ」を書きはじめた。1831年7月20日にショパンはパリへ向かった。途上のシュトゥットガルトで「ワルシャワ蜂起敗北」を知る。この慟哭がエチュード作品10-12「革命」を生みだす力にもなった。

  1830年はヨーロッパ文化の歴史において「ロマン主義」が大きく羽ばたいた年だった。とくにパリにおいて。ユゴーの演劇「エルナーニ」上演は守旧の古典派とあたらしい時代をこじあけようとするロマン派の戦いの一夜だった。2月25日のことだ。ユゴーは芸術の自由を主張した。そしてフランスに7月革命が起こる。7月27日から29日にかけてフランスで起こった市民革命である。これにより1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。栄光の三日間が芸術家たちに惹きおこした力は測り知れない。演劇、文学、音楽、美術などすべての分野に力は及び、古典の旧秩序をのりこえて「芸術の自由」はそれまで信じられていた「世界の秩序」からではなく「個人の心の自由」から創造された。


4

 リストの「ショパン伝」には、次のような美しい思いでも記されている。

<私たち3人だけだった。ショパンは長いあいだピアノを弾いた。そしてパリでもっとも卓越した女性のひとりだったサンドも、ますます敬虔な瞑想が忍び込んでくるのを感じていた・・・・・・。
 彼女は知らずしらずのうちに心を集中させる敬虔な感情が、どこからくるのかを彼にたずねた・・・・・・。そして、未知の灰を手の込んだ細工の雪花石膏アラバスタのすばらしい壷の中に閉じ込めるように、彼がその作品のなかに閉じ込めている常ならぬ感情を、なんと名づけたらよいのかをたずねた・・・・・・。

 麗しい瞼を濡らしているその美しい涙に負けたのか、ふだんは内心の遺骨はすべて作品という輝かしい遺骨箱に納めるだけにして、それについては語ることをせぬショパンだったが、この時ばかりは珍しく真剣な面持ちで、自分の心の憂愁の色濃い悲しみが、彼女にそのまま伝わったのだと答えた。

  と言うのは、たとえかりそめに明るさを装うことはあっても、彼は精神の土壌を形作っていると言ってよいある感情からけっして抜け出ることはなく、そしてその感情は、彼自身の母国語によってしか表現できず、他のどんな言葉も、耳がその音に渇いているとでもいうように彼がしばしば繰り返す 『ザル』というポーランド語と同じものを表すことはできない、この『ザル』という語はあらゆる感情の尺度を含んでいるのであり、あの厳しい根から実った、あるいは祝福されさるいは毒された果実ともいうべき、悔恨から憎しみにいたるまでの、強烈な感情を含むのである――と言った、 実際、『ザル』は、あるいは銀色に、あるいは熱っぽく、ショパンの作品の束全体を、つねに一つの反射光で彩っているのだ。>

『ザル』(ZAL/ジャル)は、運命を受けいれた諦めを含んだ悔恨、望郷の心をあらわすポーランド語。

  「永遠に家を忘れるためにこの国を離れ、死ぬために出発するような気がする」―。
外国へ旅立とうとするショパンの不安は、侵略を受けつづける祖国ポーランドの苦悩とともにあった。花束のような華麗な音楽のかげに、祖国独立への情熱と亡命者の悲しみを忍ばせ、やり場のない怒りを大砲のように炸裂させた。死ぬために出発するような気がすると書いた手紙は、彼が祖国ポーランドを離れる直前の悩みを、親友にあてて書き綴ったものだ。

 僕は表面的にはあかるくしている。とくに僕の「仲間内」ではね(仲間というのは、ポーランド人のことだ)。でも、内面では、いつもなにかに苦しめられている。予感、不安、夢――あるいは不眠――、憂鬱、無関心――生への欲望、そしてつぎの瞬間には死への欲望。心地よい平和のような、麻痺してぼんやりするような、でもときどき、はっきりした思い出がよみがえって、不安になる。すっぱいような、苦いような、塩辛いような、気持ちが恐ろしくごちゃまぜになって、ひどく混乱する。 (1831年12月25日)

 ショパンは「エチュード ホ長調 作品10-3」を弾く弟子、グートマンに「私の一生で、これほど美しい歌を作ったことはありません」と語った。そしてある日、グートマンがこのエチュードを弾いていると、先生は両手を組んで上げ、「ああ、わが祖国よ!」と叫んだのである。

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