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2016年6月

2016年6月30日 (木)

奈良ゆみ ソプラノリサイタル 「月明かりの幻想」 2016.8.30 その2

8月30日の<奈良ゆみ ソプラノリサイタル>
冒頭に歌われる「朧月夜」に関する
当ブログの記事を紹介します。


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<日付なし>

(CDへの原稿など。セピアと銀。
 源氏物語についての原稿)
いづれにせよ、3 源氏物語は小説的な終末はない。
どこで終わってもよいと思うけれど、一応紫の死で終末としてある。
(編者注/『セピアと銀』はCD『松平頼則作品集Ⅱ/奈良ゆみ』(ALM RECORDS ALCD48 1999.5.30)の解説書に収められた松平頼則氏の文のタイトル。副題は「『南部民謡』と『古今集』について」。

音と色彩について面白いことを書いている。「増4度あるいは短7度はセピアを感じるし、長7度あるいは短9度は銀を感じるし、イ長調は春を、ト長調は水を、ホ長調は花の咲いた畠を感じる。従って、ドビュッシーの作品はセピアで、ラヴェルの作品は銀なのである」。このCDでは『曲目解説』も松平氏が書いていて、冒頭の『朧月夜』(1992-93)の3曲、「朧月夜に」「木枯らしの」「心から」についての解説文がある。

そこで紹介されている先行のCD『松平頼則作品集Ⅰ/奈良ゆみ』ALM RECORDS ALCD39 (1992.6.25)には『ソプラノ、笙、フルート、箏のための「源氏物語による3つのアリア」』(1990)と『ソプラノとピアノのための「二星」(朗詠)』(1967、改稿1989)が収められている。松平氏はこのCD解説書にも『楽曲解説』を書き、もう一文『奈良ゆみ讃』を寄せている。

『奈良ゆみ讃』
彼女が歌う時、作曲家が五線に書けなかった色彩や光や虹や香りや、そしてそれだけでなく遠い国々や千年以上も経った時までも喚起し、人びとを魅了する。
人びとはその体験や記憶や幻想の再現を希望する。
ここに今、彼女の傑れた演奏の録音されたCDが現れ、何度でもそして何時でも聴くことの出来る歓びがある。        
松平頼則

(編者注/日付なしの書簡だが、当該CD発行の1999年の6月以前のものだろう)。

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<1996年3月27日>

Chère Yumi
Faxありがとう。前回のFaxはあそこで紙が切れて、別の紙をつなぐのに手間どっている間に―休止―あんな形になったのでしょう。何も書いてありません。

(編者注/Chère Yumiは、かわいいゆみ。
松平頼則氏から送られる奈良ゆみ氏へのFax書簡は、1日に1枚を1回とは限らなかった。書きたいことが溢れてくれば、複数枚を複数回という日もあった。速筆なので判読に苦しむ字句もあり、今回も奈良ゆみ氏に複数箇所についてお手間取らせることになった。感謝申し上げる)。

ヒコーキ会社に今日改めてきき直したら、ヨーロッパ便は1st Classのお客さんが少ないので、会社によってしばしば1st Classのない便があるとのこと。ローカル線のヒコーキみたいのではなく、機体は1st Classのあるのと仝じだとのこと。私達のはオーストリア航空だそうです。
conférence準備のための資料漁りをしている度に、いろいろ私のスジョーがわかって来ました。

(編者注/ヒコーキは、飛行機。1st Classは、飛行機のファースト・クラス。仝じは、同じ。スジョーは、素性。Conférenceは、講議。
1996年5月6日から17日にかけて、松平頼則氏は、
Hochschule für Musik und darstellende Kunst „Mozarteum“  POETIK
(「モーツァルテウム」音楽と舞台芸術のための大学『ポエティーク〈詩学〉』)という音楽講座のため、オーストリアのザルツブルク、モーツァルテウムに招かれた。
奈良ゆみ氏も同行し『朧月夜』(1992)、『3つのオルドル』(1994)、『源氏物語による3つのアリア』(1992)を歌った。

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5月 6日 プレス・コンファレンス(記者会見)
5月 7日 公開練習
5月 8日 公開練習 松平頼則講演「私の作曲について」
     ゲネラル・プローベ コンサート
5月 9日 公開練習 ゲネラル・プローベ コンサート
5月10日 公開練習 コンサート
5月13日 松平頼則講演「雅楽と現代音楽」
5月14日 松平頼則講演「私の音楽 Ⅰ」
5月15日 松平頼則講演「私の音楽 Ⅱ」
5月17日 松平頼則講演「雅楽と私の音楽」。

演奏された曲は、奈良ゆみ氏が歌った3曲の他に器楽作品が3曲。
5月8日のコンサート・プログラム
松平頼則/『源氏物語による3つのアリア』(1992)
『朧月夜』(1992)、『3つのオルドル』(1994)
5月9日のコンサート・プログラム
L.Nussbichler作品
M.Feldman(フェルドマン)作品
松平頼則/『序』(1988)、『ソロ・ピアノのための雅楽による3つの即興曲』
     『雅楽の主題による10楽器のためのラプソディ』(1983)
5月10日のコンサート・プログラム
M.Trippolt(UA)作品  Nack-Pyo Jeon(UA)作品
M.Feldman(フェルドマン)作品
松平頼則/『雅楽の主題による10楽器のためのラプソディ』(1983)
 『序』(1988)  
これらの曲の中で『ソロ・ピアノのための雅楽による3つの即興曲』の作曲年代だけ特定できない。仏語による詳細な作品目録にも載せられていないからだ。推測すれば、1987年の「2台のピアノのための雅楽の旋法による6つの即興曲」の「1台のピアノのための」編曲版ではないか。記録されたCDに収められているのは『朧月夜』『3つのオルドル』、そして『ラプソディ』の3曲のみだ)。


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2016年6月26日 (日)

奈良ゆみ ソプラノリサイタル 「月明かりの幻想」 2016.8.30


8月末で閉館する芦屋の山村サロンで、奈良ゆみさんが歌います。
プログラムは松平頼則とシェーンベルク。
またとないプログラムです。

奈良ゆみ ソプラノリサイタル
「月明かりの幻想」
松平頼則 &  アルノルト・シェーンベルク 
 
奈良ゆみ(ソプラノ)  谷口敦子(ピアノ)

8月30日(火)
19:00開演(18:30開場)
全自由席 ¥5,000  (前売り券 ¥4,500)

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松平頼則 Yoritsuné Matsudaïra (1907-2001)
朧月夜に「源氏物語」 より、 紫式部 1992
(ソプラノ・ソロ)
 
アルノルト・シェーンベルク Arnold Schoenberg (1874-1951)
月に憑かれたピエロ  (1912)
詩:A・ジロー/O・E・ハルトレーベン
(エルヴィン・シュタインによるピアノ伴奏版 )
 
松平頼則 
いにしへの日は2001  (ソプラノ・ソロ)
     詩:三好達治
「古今集」より1939-45
     君ならで、秋風に、はつかりの、川の瀬に
ラ・グラース(七月の詩)1991
     詩:松平頼則
 
アルノルト・シェーンベルク Arnold Schoenberg
「ブレットル・リーダー(キャバレー・ソングス)」より( 1901)
     ガラテア、ギガーレット、控えめな愛人、警告、
     理想郷の鏡からのアリア


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お知らせまで。
次回は松平作品についての当ブログからの記事を掲載予定。

2016年6月 1日 (水)

不在の牧神のための頌歌

6月18日(土) 午後6時開演(午後5時半開場)

全自由席 前売り/¥2,500 当日/¥3,000
3回通しパスポート \7000
 
大井浩明 連続ピアノリサイタル in 芦屋 2016
LES PRÉDÉCESSEURS 先駆者たち


第一回公演
橋本晋哉(1971-):ピアノ独奏のための《ゆたにたゆたに》(2016、委嘱新作初演)
クロード・ドビュッシー(1862-1918):
2つのアラベスク、スティリー風タランテラ、ベルガマスク組曲
ピアノのために、版画、仮面、喜びの島、映像第1集、同第2集、
子供の領分、舞踊詩「遊戯」(作曲者による独奏版/日本初演)、
12のエチュード集

このコンサートのためにエッセイを書いた。連続ピアノリサイタルで採り上げられるのは、まずドビュッシーであり、7月16日(土)午後6時開演のラヴェル、8月20日(土)のストラヴィンスキーと続く。彼ら3人の作曲家たちはディアギレフとバレエ・リュスの時代を生きた。3人ともその舞台のための作品を書いているのだ。初回のエッセイには同バレエ団の無二のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーのことを書いた。

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ディアギレフと三人の作曲家たち
<ドビュッシーをめぐって> 不在の牧神のための頌歌


Je tiens la reine !         われは女神を抱く。
…O sûr châtiment...          おお 重き罪科……
(マラルメ『半獣神の午後』から 鈴木信太郎訳)  
 
1
ニジンスキーは悲しい。彼の手記を読みはじめると冒頭の「人々は、ニジンスキーが悪いことをして気狂いの真似をしているといっている」から鷲掴みにされ、「私はニーチェが好きだ。彼ならば私を理解しただろう」を経て「私は神である、私は神なのだ。神なのだ。……」に至ると、訳もなく涙があふれだした。口絵に見る彼の姿が映された写真も、舞台衣装であれ日常の服装であれ、どれもたまらなく悲しい。
1971年初版の『ニジンスキーの手記』(市川雅訳。現代思潮社刊)を手にしたとき、私は18歳だった。頭の中には『ツァラトゥストラ』のニーチェの言葉と、『地獄の季節』のランボオの詩だけが渦巻いていた。ニジンスキーとニーチェは精神に変調をきたした。超越は尋常ならざる代償を伴う。習慣と常識に覆われた日常の表皮は分厚く、飛翔すればたちまち空気が薄くなってしまう。そして、ランボオとニジンスキーはともに年長の男性と交わり「感覚の錯乱」を体験した。行為において性別が破壊され、日常に規範も意味もなくなった。母音に色が見えたランボオは「酔いどれ船」に乗り詩を旅した。存在とは何かを、もはや問わない。存在そのものになったとき、人間が人間でなくなる。神になり気が狂う。脱け出すことができたランボオは21歳で筆を折り商人になった。ニジンスキーの手記は1818年から1819年にかけて、舞台から降りざるを得なくなった失意と絶望のなかで書かれた。いや、書かれたというよりは、言葉の槌で刻み付けられ、生命の火花が飛び散るようだ。29歳の1919年に幻覚がはじまり、以後60歳の1950年に死を迎えるまで、30年間を狂気のままに生きていた。
ニジンスキーの「手記」の完全版なるものが世に出されたのは後年のこと。私の読んだ「手記」は1936年に未亡人のロモラ・ニジンスキーが出したもので、彼女が1978年に世を去ったのちに1995年、「無削除版」の仏語訳が突如出版された。ロモラが出したものは「抜粋版」で、「完全版」は1998年に邦訳された。(『ニジンスキーの手記 完全版』 ヴァーツラフ・ニジンスキー著 鈴木晶訳 新書館刊。英訳は The Diary of Vaslav Nijinsky  by Vaslav Nijinsky (Author), Joan Acocella (Editor)  University of Illinois Press; Unexpurgated ed. Edition)。
ロモラが編んだ「抜粋版」には「完全版」に記されていた、性に関することや卑猥な表現が削られていた。ロモラへの悪口、フレンケル医師に関する記述もなかった。ニジンスキーが書き刻んだ言葉の全貌には再び圧倒された。全体は『セルゲイ・ディアギレフへの手紙 男に』で結ばれる。「男から男に ヴァーツラフ・ニジンスキー」が最後の一行だった。別れてもなお、心身を喪失しつつあってもなお、ニジンスキーはディアギレフへ言葉を書かなければならなかった。ディアギレフは「残酷な神」のようにニジンスキーを支配し続けたのか。

2
ニジンスキーが踊る姿は記録されていない。しかし、現代のパリのバレエの関係者たちが総力を挙げて「バレエ・リュス 100年」に当時の舞台を蘇らせた映像がある。2010年2月19日(金) NHK教育テレビ「芸術劇場」で放映されたものだ。作品と人名の表記は当時のNHKにしたがう。
パリ・オペラ座バレエ『バレエ・リュス・プログラム』
・バレエ「ばらの精」Le Spectre de la Rose (1911初演)
 振付:ミハイル・フォーキン
 音楽:ウェーバー作曲/ベルリオーズ編曲
 美術:レオン・バクスト
 主演:マチアス・エイマン、イザベル・シアラヴォラ
・バレエ「牧神の午後」L'Apres du Midi d'un Faune  (1912初演)
 振付:ワツラフ・ニジンスキー
 音楽:クロード・ドビュッシー
 美術:レオン・バクスト
 主演:ニコラ・ル・リッシュ、エミリー・コゼット
・バレエ「三角帽子」Le Tricone  (1919初演)
 振付:レオニード・マシーン
 音楽:マヌエル・デ・ファリャ
 美術:パブロ・ピカソ
 主演:ジョゼ・マルティネズ、マリ・アニエス・ジロ
・バレエ「ペトルーシカ」Petroushka  (1911初演)
 振付:ミハイル・フォーキン
 音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー
 美術:アレクサンドル・ブノワ
 主演:バンジャマン・ペッシュ、クレールマリ・オスタ、ヤン・ブリダール、ステファン・ファヴォラン
<出演>パリ・オペラ座バレエ団
<指揮>ヴェロ・パーン
<管弦楽>パリ・オペラ座管弦楽団
<収録>2009年12月 パリ・オペラ座 ガルニエ宮

 100年祭に選ばれたプログラムは「三角帽子」のほかは、すべてニジンスキーが踊ったものだ。なかでも「牧神の午後への前奏曲」は彼の振付師としての第一作。もちろん主役の牧神として踊った。ディアギレフの発案だった。美術はバクストで、彼とニジンスキーはギリシアのレリーフに心酔していた。バレエ・リュスは、いままで人が見たことがない作品を創造しなければならない。はたして1912年5月29日の初演後、熱狂した喝采と野次と怒号が同時に耳をつんざいた。もちろんドビュッシーの音楽に対してではない。ニジンスキーの振付と踊りに対しての反応だった。終わりの部分でニジンスキーはニンフから奪ったヴェールの上に腹ばいになって腰を上下に動かし、性行為を暗示していたのだ。
 翌朝の新聞で「フィガロ」紙はガストン・カルメット編集長が、あしざまにこきおろす。――あれは美しい田園詩でも、深遠な意味をもった作品でもない。あの好色な牧神のエロティックな動きは猥褻かつ下品で、その身振りは露骨で淫らである。――
 絶賛したのは「ル・マタン」紙だ。――ニジンスキーの最近の役柄のなかで、これほど傑出したものは他にない。もはや跳躍はなく(…)、彼の肉体はその内の精神を余すことなく表現している。(…)クライマックスで、彼はニンフから奪ったヴェールの上にうずくまり、接吻し、抱きしめ、熱情的な忘我に至る。この衝動ほど印象的なものがあろうか。――
 この絶賛は彫刻家オーギュスト・ロダンの署名記事だったが、ロダンは一行も書かなかった。そのことが問題になった後でも、ロダンは「記事の一言一句も」取り下げるつもりはないと言い切った。(このあたりはDiaghilev: A Life 1st Edition by Sjeng Scheijen Oxford University Press; 1 edition (September 1, 2010) 『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房刊を参照している)。

真っ二つに割れた評価のなかで、2回目の公演が5月31日に開かれた。「牧神はヴェールのなかに股を挿入することはなく、跪いたまま終わる。この改訂版がは喝采と『アンコール』の声に迎えられる」。(前掲書)。
2009年のパリ・オペラ座公演での「牧神」は、ニコラ・ル・リッシュが踊った。細身とはいえない筋肉質な体系はニジンスキーを髣髴とさせた。秀逸なバクストの美術を背にして、舞踊家の能力を誇らしげに展示する跳躍は封じられ、この上なく優雅にダンサーたちが横切っていく。初演の振付が再現された。あれから100年の歳月が経ちなんの違和感もなく、すばらしいものを見た。この作品こそが旧来のバレエに対する革命だった。バレエ・リュスの新しい時代がここに始まったのだ。


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ヴァーツラフ・ニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)は、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)が創設したロシア・バレエ団(バレエ・リュス Ballets Russes 1909-1929)でヨーロッパを震撼させた男性バレエ・ダンサーだ。
ディアギレフはリムスキー=コルサコフに「作曲の才能がない」と指摘され、芸術家になることをあきらめた青年だった。彼の才能は芸術を紹介することに向けられ、1897年、手始めに帝政ロシア国内で絵の展覧会を企画した。以降6回の展覧会を経て、1905年にサンクトペテルブルクのタヴリーダ宮殿で開かれた「ロシア歴史肖像画展」を開き、それが最後の彼の国内での活動になった。1905年は「血の日曜日」「ロシア第一革命」の年だ。日露戦争の戦況もかんばしくない。「西欧にロシア芸術を紹介する」ことに舵を切ったのは、そこにしか行く道がなかったからだ。
1906年、パリのプチ・パレでロシア画家の展覧会を成功させたのを皮切りに、1907年にはパリ・オペラ座で5日間にわたるロシア音楽の演奏会を開いた。ラフマニノフ、スクリャービン、リムスキー=コルサコフ、グラズノフらが自作を演奏し、シャリアピンがボロディンの『イーゴリ公』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』のアリアを歌った。さらにはニキシュがチャイコフスキーを指揮した。これで大成功しないわけがない。歩みは続く。翌1908年、シャリアピンを主役にパリ・オペラ座で『ボリス・ゴドゥノフ』を全幕上演。大成功だ。
1909年。彼の興業に、オペラに加えてようやくバレエが発案される。しかし企画段階のさなかにディアギレフの最大の資金援助者だったヴラジーミル大公が亡くなった。海外で成功すれば国内では誹謗中傷に巻き込まれる。帝室からの援助はない。帝室劇場の道具を貸し出してもらえない。リハーサル会場さえ使うことができなくなった。莫大な経費がかかるオペラをあきらめてバレエだけにした。
成果はパリ・シャトレ座、1909年5月19日に開かれた「セゾン・リュス」(ロシアの季節)は、
『アルミードの館』(音楽:チェレプニン)
『韃靼人の踊り』(音楽:ボロディン)
『レ・シルフィード』(音楽:ショパン作曲/ストラヴィンスキー、グラズノフ、タネーエフ、リャードフ、ソコロフ編曲)
『クレオパトラ』(ロシア音楽メドレー:アレンスキー、タネーエフ、ムソルグスキー、チェレプニン、グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ)
『饗宴』(ロシア・バレエ音楽メドレー:グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー)
これらの作品が演目に上がった。振付師ミハイル・フォーキン、ダンサーにアンナ・パヴロワやヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサヴィナらがいて、これを事実上の「バレエ・リュス」旗揚げと見なすこともできるだろう。ディアギレフの舞台へのニジンスキーのデビュー公演でもあった。
 ニジンスキーはディアギレフに出会う前からバレエ界では知られていた。17歳の頃、彼を採り上げた最初の批評から「静止しているような跳躍」が絶賛され「稀に見る天才」が出現したと書かれている。ディアギレフに近かった批評家、ワレリアン・スヴェトロフは「彼のダンスの芸術的な特質は並外れているが、同時に、天才的な役者であることを示した」、と。
『ディアギレフ』(シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房)にはダンサーとパトロンについての記述がある。要約して引用する。
――1907年、17歳当時、ニジンスキーにはパーヴェル・リヴォフ公爵という後援者がいた。当時、男性女性にかかわらず、バレエ・ダンサーがパトロンの「世話になる」ことはきわめて自然で、パトロンは、性的関係と引き換えに、ダンサーたちを経済的に援助し、上流階級に紹介した。暗黙の階級制があり、しばしば仲介業者を通じて、最も優れた、あるいは最も美しいダンサーは最も裕福なパトロンに囲われた。――
1907年から1908年にかけての冬に、ディアギレフはニジンスキー、リヴォフと青年時代からの友であるヌーヴェリと三度食卓を囲んでいる。ニジンスキーの方がディアギレフに熱心だったという。そして1908年秋、彼ら二人は親密になった。以後5年にわたり、ディアギレフのバレエ団はニジンスキーを軸に恐ろしいほどの勢いで回転していく。
1909年の公演を見たハリー・ケスラー公爵は、ホフマンスタールに手紙を書いた。ニジンスキーは蝶のようだが、同時に男らしさや若さの象徴でもある。バレリーナも劣らず美しいが、彼が登場すれば霞んでしまう、と。そして翌日再び
――これほど美しく、これほど洗練され、劇場で上演されてきたありとあらゆるものをはるかに超越した「模倣芸術」がこの世にあるとは、夢にも思いませんでした。不思議ですが、本当です。女性たちも、ニジンスキーと何人かの男たち、というより少年たちも、生きた若い神と女神として、もっと高い、より美しい別世界から降りてきたようでした。私たちはまさに新しい芸術の誕生を目撃しているのです。――(前掲書)。
このときまでに用いられた音楽は、まだ新しい響きがする音楽はなかった。翌1910年、『火の鳥』でストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)がバレエ・リュスにデビューするまでは。


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ディアギレフは1909年公演が終わると、翌年以降の方向について二つの決定をした。ひとつは毎年必ず新作を複数上演すること。もうひとつは、ロシア人以外の才能を発掘することで、フランス人の作曲家のクロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)とモーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)に近づいていった。
ドビュッシーは、バレエ・リュスの1910年6月23日のパリ・オペラ座公演の『火の鳥』初演を見ていた。作曲はイーゴリ・ストラヴィンスキーというロシアの若い作曲家。ニジンスキーは主役ではなく「金の奴隷」を踊っていた。ドビュッシーはジャック・デュランに書き送っている。――『火の鳥』は完璧ではありませんが、いくつかの点ではひじょうに優れています。少なくとも、ダンスのおとなしい奴隷にはなっていません。(…)なるほどディアギレフは偉大な男であり、ニジンスキーは彼の預言者です。――
1911年6月13日、パリ・シャトレ座で『ペトルーシュカ』が初演された。ニジンスキーが主役を踊った。ドビュッシーはロベール・ゴデに書いた。――ストラヴィンスキーは、色彩とリズムに関して本能的な才能をもっています。子供っぽいと同時に、野性的です。それでいて、全体の構成はじつに繊細です。――
その後、ストラヴィンスキーから『ペトルーシュカ』の楽譜を贈られたドビュッシーは「どうもありがとう」と礼状を書く。――この作品は、いわば音の魔法に満ちています。人形の魂が魔法の呪文で人間になるという神秘的な変容。(…)きっときみはこれから『ペトルーシュカ』よりも偉大な作品を書くでしょうが、これはすでに金字塔です。――
ドビュッシーはこれらのバレエ・リュスとニジンスキーの踊りを見たあと、1912年5月29日の自作『牧神の午後への前奏曲』のニジンスキー振付デビュー作にして主役を踊る舞台を目の当たりにする。
1911年10月26日、ディアギレフからこの曲をバレエに使いたいと打診を受け、ドビュッシーは許可した。10分あまりの作品の振付の稽古の数は100回を超えたという。
ドビュッシーは、しかしニジンスキーの振付を批判した。――ニジンスキーが私の作品にどのような類の振付を考えたか、私にはまったく想像もつきませんでした。悪い予感がしていたのは本当です。(…)舞台の上で、ニンフや牧神たちが、まるで操り人形ででもあるかのように、あるいはむしろダンボール製の人形ででもあるかのように、しかも、つねに横向きで、いかつく、角ばって、また古風かつグロテスクに様式化された身振りで動くのを見て感じた恐怖については、お話するのをあきらめますよ!――
「カーブした旋律線に溢れ、揺れ動く、揺りかごのような動きの音楽」と、ニジンスキーの振付が「耐え難い不調和」だと嘆く。(Claude Debussy: Biographie Critique by Francois Lesure , Klincksieck 『伝記 クロード・ドビュッシー』フランソワ・ルシュール著 笠羽映子訳 音楽之友社刊)。
一方、ニジンスキーはニジンスキーで、この音楽が必ずしも彼の理想のものではなかったという資料もある。色彩を評価しつつも「自分の構想した動きのためには、あまりにもぼんやりとし、あまりにも甘美だ」と考えていて、「耳障りなところがないという点を除いて、あらゆる点で満足していたのだ」。(前掲書)。


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このように作曲家と振付・舞踊家は互いに違和を感じあっていた。にもかかわらず、ドビュッシーはバレエ作品『遊戯』の契約をディアギレフと1912年6月8日に結んだ。テーマは当時の「未来派」というべきか、1920年の近未来に設定され、飛行機あるいは飛行船ツェッペリンが空に浮かぶという背景に、登場人物はテニスウェアを着た三人の踊り手だけ、というのが草案だった。

ニジンスキーは「手記」のなかで書いている。
――私がこのバレエを作った当時、私はディアギレフとの「生活」の感化を受けていた(…)。『牧神』は私であり、『遊戯』はディアギレフが夢想した生活である。彼は恋人として二人の少年を所有していたかったのだ。彼はよくそう話したが、私は拒否した。ディアギレフは同時に二人の少年と寝たかった。そして、少年達に愛撫してもらいたかった。バレエの中では、二人の少女が二人の少年のかわりをしていて、若者はディアギレフである。三人の男の恋愛関係は舞台上では表現できないので、役柄を変えた。私はこの邪悪な愛の着想を嫌悪していたが、観客にも嫌悪してもらいたかった。だが、私はこのバレエを完成し得なかったのだ。ドビュッシーもまた、この物語を好んでいなかった(…)――(『ニジンスキーの手記』市川雅訳 現代思潮社刊)。
『遊戯』の初演は1913年5月15日、パリ・シャンゼリゼ劇場。失敗だった。ただし、不成功はバレエに関してのことであり、音楽に関してではない。ディアギレフは『遊戯』をドビュッシーの最高傑作のひとつであると認めていた。ニジンスキーはバクストが作った衣装を着けたが「黒いベルベットで縁取られ、緑のズボン吊りのついた、白いショートパンツ」は、かなり女性的だった。ディアギレフは三人の男女ができるだけ同一に見えるような化粧をすることと、男であるニジンスキーが女性ダンサーしかしない爪先立ちで踊ることを要求した。性別の認識をぼかす、ということだ。これもまた、100年後の現代を先取りしたものだったといえる。
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先取りといえば、当時のバレエ界では男性ダンサーが主役を務めるのはニジンスキーが初めてだった。近年ではモーリス・ベジャールが率いた20世紀バレエ団がその伝統を受け継いでいた。また1910年、ニジンスキーは帝室マリインスキー劇場から解雇されたが、その理由は『ジゼル』(音楽:アダン)を踊るのに6月18日にディアギレフのバレエ団でのパリ公演で使った衣装を着けたからだ。それまでの伝統的な衣装は上着が長く、膝あたりまでが隠された。美術家ブノワが作った衣装はタイツが肌にぴったりで、上着はベルト付きの短いチュニック。腰回りの体の線がはっきりと見えた。この衣装が「猥褻」という理由で帝室劇場から解雇され、めでたくニジンスキーはディアギレフ・バレエ団のダンサーに専念できることになった。現代の男性バレエ・ダンサーの舞台衣装の「常識」はニジンスキーが切り拓いたものだった。

--Non, mais l'âme
De paroles vacante et ce corps alourdi
Tard succombent au fier silence de midi :
Sans plus il faut dormir en l'oubli du blasphème,
Sur le sable altéré gisant et comme j'aime
Ouvrir ma bouche à l'astre efficace des vins !
Couple, adieu ; je vais voir l'ombre que tu devins.
いな、されど
言葉の空なる霊も 重く疲れし肉体も、
真昼の驕れる深閑に 終に 打負け臥転ぶ。
そのまま寐ねよ 冒瀆の癡言を忘れ、喉は乾き、
真砂の上に仆れ伏して、葡萄の美酒にあらかたの
あまづたふ日に、口をひらくは われのこよなき逸楽ぞ。
さらばよ、水波女、移り変りしなが幻影をわれは眺めむ。
(マラルメ『半獣神の午後』から 鈴木信太郎訳)
 
 

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