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2013年5月

2013年5月27日 (月)

わが心の自叙伝―横井和子先生がお書きになったもの 20

わが心の自叙伝 横井和子 第19回


十、尽きぬ思いのままに

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(横井小楠 1809-1869)

 横井小楠(当時参与)が暗殺(明治2年)されました際、宮中より京都南禅寺天授庵に広い墓所を賜り、そこに祖父母、両親、弟も眠っておりますが、傍らに建てられた五十周年祭の銅版(太政官日誌を漢文で書いたもの)の部分が終戦直後に盗難に遭い、そのままになっていて気がかりでなりませんでした。

 やっと、あれは昭和38年でしたか余裕もでき、富田砕花先生にご相談をし、銅版の部分に青御影石をはめ、小楠の自筆と富田先生の碑文(いわれを書いてくださったもの)を刻み修復いたしました。

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(横井家墓所)


 また、話が前後しますが、熊本市往生院の横井太平(小楠の甥で、勝海舟と小楠の勧めで渡米、帰国後、ジェーンズという人を校長に招いて熊本洋学校を創立、22歳で没)の墓が草むらの中で欠けたままになっているのを、(昭和)28年、太平が熊本県近代功労者として表彰されたのを機に知って、草葉教会のお力添えで再建いたしました。

 熊本市沼山津に小楠顕彰会のご尽力で小楠の銅像が建ち、その後、同地に小楠記念館が竣工されましたが、それにあたって暗殺当時の刃こぼれのあとのある短刀はじめ、吉田松陰、森有礼などの書簡、小楠、勝海舟の掛け軸や額など、手入れして保存してきました遺品の主なものをお預けいたしました。肩の荷がおりた思いの一方、寂しさもぬぐい切れないでおります。

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(横井小楠記念館)

 小楠は「何ぞ富国強兵に止まらん大義を四海に布くのみ」と、今日ならば当然のことを述べて、キリスト教徒であるとの理由で暗殺され、爵位のお話も(明治26年ころ)、同じ理由で取り下げられたと聞いております。

 昭和54年に南禅寺で110年祭を執り行い、当時勤めておりました京都芸大の梅原猛学長ほかの皆様にもお出で頂きましたが、曾孫としてのささやかな孝養だったかと思っております。

 赤松家の墓は宇和島にありまして、主人の名ばかりの遺骨も納められておりましたが、母のお申し付けで秋雄とともに土を持ち帰り、芦屋の霊園墓地に移しました。



 母は、主人の弟夫妻、二郎・恵美子様の温かいお世話を受けられて、たまにお見舞いする私に主人の思い出話などなさりながら、長寿を全うなさいました。
 あとは叔父の未亡人、柳瀬家の皆様のお幸せを心から祈るばかりです。


 人それぞれに与えられた運命は致し方ないことですが、戦争だけは二度と起こらないようにと、強く念願しております。



(この項、続きます。次回更新をお待ちください)






 

2013年5月14日 (火)

わが心の自叙伝―横井和子先生がお書きになったもの 19

わが心の自叙伝 横井和子 第18回


(前回からの続きです)

 祖母を見舞うたびに注射や、電気治療もして頂きましたがはかばかしくなく、院長先生のご紹介で、野球選手が肩などを痛めたときお世話になるという、大阪厚生年金病院の整形外科の清水博士に診て頂いたところ、私の場合、過労からなので、治療よりも身体を休めるように、出して頂いたのもビタミン剤と肝臓のお薬だけで、少しの暇にも寝るようにとのことでした。


 演奏会の予定がありましたがお断りさせて頂き、内田聆子様(毎日音楽コンクール一位特賞)が快く代わりをお引き受け下さいましたことを、感謝とともに思い出します。


 手首の痛み、中指の筋無力症のような状態はなかなか回復いたしませんでしたが、あせらずにおりましたので、体力が戻るにつれて少しずつ楽になってまいりました。


 痛みがすっかり取れるまで動かさないでいると弾けなくなるそうで、一進一退の毎日を繰り返しながらトレーニングするのは随分つらいことでした。

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(モーツァルト 1756-1791)


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(グリーク 1843-1907)


 モーツァルトのソナタ ケッヘル330、570などを少しずつ練習して、井口先生に聴いて頂いておりますころに突然、BK(NHK大阪放送局)から土曜コンサートのグリークの協奏曲の代役をお頼まれいたしました。


 まだ人前で演奏することなど考えておりませんでした私は不安で、最初のうちためらっておりましたが、井口先生のおすすめもあり、思い切って弾かせて頂くことにいたしました。


 山田一雄(当時和男)先生の指揮で、神戸国際会館での公開録音でしたが、リハーサルは手をいたわって軽く済ませ、本番に集中して無事に終わりました。


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(山田一雄 1912-1991)


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(同)


 この時の貴重な体験として健康に注意すること、肩や腕を冷やさないこと、常に初心に戻って音を大切に練習すること ― を今も忘れずに守っております。


 その後、岡田様から近くの服部様宅に移りまして、病院で祖母のお気に入りの付き添いさんに住み込んでもらい、おそらく祖母との最後になると思われる日々を送りました。


 あの聡明な祖母が子供に返ったように昼と夜を間違えたり、昼は私を若いほうのお手伝いさん、夜は和ちゃんと申したりしておりました。


 (昭和)37年5月25日午前2時前のこと、急に言葉もはっきりと「私はロンドンのお祖父様のところにお嫁に行きます」と言い出し、母のことを「お清はやさしい、いい嫁でした」。


 そのあと弟や従兄弟(いとこ)のことも褒めて、最後に「和ちゃんわたしが悪うござんした」と何度も申しますので「私こそご苦労かけました」といっても答えず、やがて安らかに永眠いたしました。


 93歳でした。赤松家で立派に成長して行く秋雄の様子が、晩年の祖母にはどんなにか慰めであったことと思います。


(この項、終わります。続きは次回更新時に)





2013年5月 7日 (火)

わが心の自叙伝―横井和子先生がお書きになったもの 18

わが心の自叙伝 横井和子 第17回


九、祖母のこと

 祖母と私は魚崎(神戸市東灘区)に移りましてから後、弟がお慕いしていた棟方文雄牧師のおられる西宮教会に転入会いたしました。

 横井家も二人きりになりましたが、祖母は私のため歳を忘れて元気に明るく過ごしてくれておりました。

 国際人であった祖父の影響でしょうか、スケールの大きい人で、ジョージ・ワシントンや周恩来、そして朝比奈隆先生の大ファンでした。

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(朝比奈隆 1908-2001)   



 私が朝日会館(引用者注/1926年竣工。現存せず)で、関響(引用者注/関西交響楽団 1947年設立。現在の大阪フィルハーモニー交響楽団)と朝比奈先生の指揮でベートーベン 第5番協奏曲「皇帝」を弾かせて頂きましたとき、どうしても聴きたいので最前列のお席を用意するように申します。
 私は気になって弾きにくいからと断りましたところ「わたしは朝比奈先生がよく見えるところに座りたいので、和ちゃんのピアノはどうでもようござんす」と申しまして、終演後、先生にお目にかかり大満悦でございました。


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(朝日会館。1965年解体)



 老人性の白内障も進んできておりましたので今のうちにと思い、神戸に歌舞伎がありますと一緒にかぶりつきの席で観劇いたしましたが、舞台に聞こえるような声で「先代の方がずっとよかった」などと申しますので、はらはらしたものでした。


 また、祖母の『いびき』もスケールが大きくて、翌日録音がある晩などたまりかねて私が苦情を申しますと「お祖父様はそんなこと、一言もおっしゃらなかったよ」とすましておりました。


 子供のころから食べ慣れた祖母の手料理のおいしい椎茸(しいたけ)と高野豆腐のお煮しめや、何度も重しを換えた白菜のお漬物の味も遠い思い出になり、さすがに健康な祖母も90歳で足を痛めて病院(兵庫済生会)に入院して以来、入退院を繰り返しながら弱ってまいりました。


 そのころ私は、伊達三郎先生や大栗裕様方と現代室内楽の夕、毎日ホールでのリサイタルなど演奏活動のほか、(昭和)28年から市来崎のり子様と大阪教育(当時学芸)大学に助教授として勤めておりましたが、折悪しく腱鞘炎(けんしょうえん)になってしまいました。


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(大栗裕 1918-1982)

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(後年の朝比奈隆と大栗裕)








 

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