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2012年10月

2012年10月30日 (火)

わが心の自叙伝―横井和子先生がお書きになったもの 3

わが心の自叙伝  横井和子  第2回

Yokoi

 祖父は熊本洋学校、同支社を卒業し、ロンドン等の海外生活が長く、祖母も神戸女学院の卒業生(第四回)でしたから食事はイス、テーブル、朝食はトースト、ミルク、紅茶等で、当時としては珍しい家庭生活でした。お琴やギター、マンドリン等もあり、オルガンや賛美歌の中で私は育ちました。

 

 海老名弾正(同志社八代目総長、ちなみに祖父は三代目総長を務めました)の娘みちさん(父のいとこ)が東京音楽学校ピアノ科を卒業してドイツに留学、クロイツァー教授に師事したこともあって、ピアノを幼いころに買ってもらい、一家中で私がピアノを弾くのを楽しんでくれておりました。

 
 
 母は東京の士族・本多家から嫁いでまいりましたが、美人薄命の言葉そのままに美しく心優しい人で、父はそんな母を宝物のように大切にしておりました。弟を出産後、健康を害し、やがて肺を患って実家のある東京で、寓居をかまえ入退院を繰り返すようになりました。

 

 東京にたつ日、母が長い黒髪を切っておりますので私が「どうして?」とたずねますと「和ちゃんはこんな思いをしないようにね」といって涙しておりましたのが哀れでならず、母恋しさに私も東京について行き、愛日小学校や番町小学校に通い、母が入院してからは双葉学園の寄宿舎に入って見舞いに通いました。

 

 母方の祖母や叔母たちがかわいがってくれましたが、父が上京して帰った日の夜など心細くて、泣きあかしたのを思い出します。

 

 そのうちに母の病が重くなって私も、祖母や弟の居る父の任地・広島にもどりましたが、間もなく母が亡くなったという知らせがまいりました。子供たちに元気な時の顔を覚えていてもらいたいので、亡くなった顔をみせないように…と遺言したそうですが、母の願いどうり私の心の中には今でも、天使のように美しい母がほほえんでおります。

 

 母が治るようにと手を尽くした父は、見る目も痛ましい程に落胆しておりましたが、やがて心臓を悪くして入院し、二ヵ月後に後を追うように亡くなりました。

 

 広島では父は警察部長でしたので、三人では広すぎる立派な官舎に住んでおりましたが、休職扱いになり、祖母と弟、私の三人は狭い借家に入りました。入院中の父はそのことを知らず、後わずかの日数で恩給が頂けるようになるので、それまで職において頂きたいと願ったそうですが、それもかなわず亡くなりました。

 

 後に母親と二人の子供を残して、いかばかり気がかりであったことかと自分の幼ごころの悲しみと共に、今では、世を去った両親の辛かったであろう心をしのんで涙しております。昭和六年のことで、父・直興四十一歳、母・清三十三歳、私が十二、弟十歳の年でした。

 父は昭和五年、勲六等瑞宝章の叙勲を受けていましたが、『危篤の報天聴に達し、勲六等旭日章昇叙』と記録されております。





 











2012年10月21日 (日)

わが心の自叙伝―横井和子先生がお書きになったもの 2

わが心の自叙伝 横井和子 第1回


Yokoi_cd
1 両親との別れ
 私ごときにご依頼があろうとは思いもよらぬことでしたので随分ちゅうちょしましたが、肉親に縁の薄い私は人一倍、周囲の方々にご迷惑をおかけし、多くの恩人方のお支えのもとに、どうやら無事に今日までまいりましたことを振り返りまして、感謝の気持ちをこめてお話申し上げようと思うに至りました。そして、目覚ましい発展を遂げた音楽界の推移を述べるのもご興味あろうかと存じます。
 父が内務省の官吏でございましたので、私はたまたまその任地であった新潟市に生まれました。旭町通一番町というところであり、大雪の日であったことしか分かっておりません。したがって親戚もおらず、その後訪れる機会もなく、懐かしい土地でありながら寂しい思いで過ごしてまいりました。
 ちょうど祖父が大正8年の欧州戦争講和会議に、かねて知遇の西園寺公望公の依頼を受け、その国際的な交友と語学力で、対独平和条約等の締結に尽力したころのことで、初孫である私の誕生をことのほか喜び、男の子であれば『時和』と名付けるよう申しておりました由でした。帰国後、脳出血で倒れ、後に勲三等旭日中綬章の叙勲を受けましたが半身不随となり、祖母の献身的な世話のもとで八年後大分で亡くなりました。



 その間、転地療養もしておりましたが、長男である父の任地で祖父母に大変かわいがってもらった思い出がよみがえってまいります。弟は私より二年後に岡山で生まれましたが、二人で祖父の大きなイスにまつわりついて童話をせがみ、夜になって祖母が身体をふいて寝かせてあげる傍らで、肩や背中をたたいてあげるのが常でした。
 祖父・時雄は横井小楠(しょうなん)を父として生まれ、最初の妻は新島襄の姪(めい)にあたる峯さんでしたが、若くして二児をおいて亡くなりました。祖母は実家・柳瀬家で養子を迎えるはずでしたが、十三歳で祖父から洗礼を受けており、進んで横井家に嫁いでまいりました。
 祖父のいとこにあたる徳富蘆花が「黒い眼と茶色の眼」の中で祖母のことを、伊予の教会員で土地随一の素封家・梁井(柳瀬)の評判娘おかよ(豊)さんと紹介しております。



引用者注釈


「わが心の自叙伝―横井和子」は昭和62年、神戸新聞に連載されました。今回は第1回の約半分で、ここまでですでに日本の歴史に名を留める人たちの名前が出てきます。新島襄はキリスト教の布教家であり同志社の創設者。徳富蘆花は文人で、最近岩波文庫で『謀叛論』も読めるようになりました。彼ら以外の横井先生に直接つながる人たちについて、少々の説明を加えます。

横井小楠(よこい・しょうなん)。1809-1869。
熊本藩士、儒学者、政治家。維新の十傑のひとり。熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派の攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革、公武合体の推進などに活躍。
明治元年、新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側で暗殺される。享年61歳。殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものでした。
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横井時雄
(よこい・ときお)。1857-1927。

牧師、ジャーナリスト、編集者、元逓信官僚、衆議院議員、同支社第3大社長(現総長)。父は横井小楠。母方の親戚に徳富蘇峰、徳富蘆花がいる。妻は山本覚馬の次女で、妹は海老名弾正の妻。




2012年10月15日 (月)

『わが心の自叙伝』―横井和子先生がお書きになったもの

『わが心の自叙伝』―横井和子先生がお書きになったもの  はじめに

このブログではあまり世に知られていないけれども、是非のこしておきたい文献を紹介する、というのが一つのテーマになっています。これまで度々ピアニストの横井和子先生の話題は載せてきました。その度によく読まれていました。今回は1982年(昭和62年)に「神戸新聞」に掲載された「『わが心の自叙伝』 横井和子」(全10回)を紹介させて頂きます。

これらの文章は他には採録されることもなく、そのままになっているようです。幸い手元にはどなたかがワープロで打ったものがホッチキスで綴じられたコピー紙があります。これをネット上で誰でも閲覧できるようにしておきたいのです。

横井和子先生に関する新聞記事のいちばん新しいものは2012年7月18日付の「毎日新聞」です。

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横井和子先生は正規リリースされたCDは長い音楽生活の中で「90歳のデビュー」盤が1枚あります。直接にお伺いしたところ「私は録音するってことに興味がなかったのよ」とのことでしたが、日本の現代音楽の初演にはあまた係わってこられた重要なピアニストのお一人なのです。

1957年(昭和32年)にすでに第8回毎日音楽特別賞を受賞されていますが、それは「邦人作品紹介の功により、です。平尾貴四男、高田三郎、中田喜直、小林福子、徳永秀則、大沢寿人、山田和男、奥村一、松下眞一、松永通温、中村茂隆、田中正史ら諸氏のピアノ曲・室内楽を紹介されました。

『わが心の自叙伝』第8回にも、松下眞一が横井和子先生のために作曲した曲に、楽譜上に音符で「ヨコイ」と記されたことも書かれています。
本文は次回から掲載していきます。お楽しみに。


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