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2012年9月 5日 (水)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その49

後奏 その1 大田黒元雄のピアノ (2)


「青柳いづみこMERDE!日記」からの引用を続けます。

「1915年12月18日、『ピアノの夕』第1回が催されることになる」。

「堀内はドビュッシーの歌曲『ロマンス』を弾き語りし、野村光一もドビュッシー『子供の領分』から『小さな羊飼い』を弾いている。野村光一は鶴のような長身で顔がものすごく長くてあごがしゃくれていた。そんな野村が長い腕と長い指で「小さな羊飼い」を弾いている様子が目に浮かぶようだ。


  この会の曲目は楽壇的にも注目され、上野の東京音楽学校の先生で岩波から『ワーグナー』を上梓したばかりの田村寛貞なども来たものだから、ピアノの腕前はチェルニー30番もおぼつかない素人軍団はすっかりあがってしまい、何をどう弾いたのかおぼえていなかったと野村は書いている。そのあとは大田黒がスクリャービンやシベリウスを演奏した。なかでシンディング(1856~1941)はこんにち演奏されないが、ノルウェーの作曲家でグリーグ以来最大の国民的作曲家とうたわれた人物である。


  そのあとはメドレーでドビュッシーの小品『夢』や『マズルカ』が演奏された。
  大田黒のプログラムの中では『牧神の午後への前奏曲』が目をひく。本来はオーケストラ曲だが、大田黒は1914年2月、ロンドンでレオナード・ボリックというピアニストがこの作品を自分で編曲して弾くのをきいているのだ。当時の日記には、編曲が巧みで、ボリックが弾いているのをきいていると、まるで管弦楽のように聞こえる、譜面は近々フロモンから出版されるらしいと書かれている。おそらく大田黒はこの譜面を取り寄せて弾いたのだろう。


  『ピアノの夕』は毎月一回の割合で催された。初回だけは堀内や野村も演奏したが、あとは大田黒の独演会になった」。


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「音楽青年たちの集いはひとつの雑誌に発展した。演奏会のあとの茶話会で、座談の中から自然発生的に音楽の雑誌を出そうという声が起こったのである。1916年3月、20数人の同人が集い、1月50銭ずつ出資して『音楽と文学』という雑誌が刊行されることになる。日本で最初の音楽評論雑誌で印刷部数5百部はたちまち売り切れたという。この雑誌は3年6ヶ月つづいた」。

「 最後は大田黒の独演会となって、一冊全部をプロコフィエフに捧げて終刊となった」。

その後、名編集者長谷川巳之吉の主宰する第一書房に出資もしながら、大田黒元雄は著書・訳書を世に出し続けることになります。ところが戦後、長谷川は公職追放になり、二度と出版事業に携わることはありませんでした。

「 第一書房の廃業は、大田黒元雄にも大きな影響を及ぼす。長谷川郁夫は『現在では、松岡譲、土田杏村、大田黒元雄の本を入手することは難しい。いや忘れられた存在だといえる。第一書房がなくなったからかれらの著作が読めないのだ、そう書くのはこじつけだろうか』と書いている。

  第一書房から刊行された大田黒の本は1943年のフラワー『シューベルト伝』の翻訳が最後となり、1946年以降は多くの本が音楽之友社から出されたものの、旧版を改訂したものがほとんどだった。大田黒元雄はロンドン大学に遊学しただけで学歴がなく、どこの教育機関にも奉職することなく、在野のディレッタントとして生を終えた。この在野性こそ長谷川巳之吉が推奨するところだっだか、いざ後ろ楯となった長谷川が出版界から身をひいてみると、この在野性が世渡りには禍したかもしれない。

  1946年には堀内敬三とともにラジオ番組『話の泉』のレギュラー回答者となる。しかし、堀口がひきつつき「音楽の泉」の初代解説者に起用され、豊富な知識と軽妙な語り口で人気を集めたの対して、大田黒の出番はなかった。思うに、鋭い批評精神をそなえた大田黒はあまり一般受けしなかったのではないだろうか。

  1958年にはエッセイ集『おしゃれ紳士録』、1970年には喜寿記念として『はいから紳士譚』が刊行される。79年に86歳で死去。日本ではじめてドビュッシーやストラヴィンスキーやシェーンベルクを紹介した最前衛の音楽評論家は、戦前は新しすぎてメジャーになれず、戦後は単なる『はいから紳士』として扱われたわけだ」。


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「 今回、杉並区からコンサートを依頼されたときは「大田黒元雄の足跡を追って」というタイトルで出した。ところが、「足跡」を調べようと思って図書館に行ってみたら、大田黒元雄の書いた本はすべて貸し出し禁止、大田黒元雄について書かれた本はただの一冊もないことが判明し、愕然とした(今回はここが「メルド!」です)」。

「ところで、かんじんの大田黒のピアノは? 十年前に修復されたとき、一度コンサートで弾かせていただいたことがあるのだが、とにかく音色がすばらしい。1900年製のハンブルク・スタンウェンということだが、私たちが知っているハンブルクの「渋い」音色とは明らかに違う、むしろニューヨーク・スタンウェイの晴れやかで華やかな音色に近い。とくに音階を弾くときなど、ひとりでに響きが連なっていく快感がある。
  今回も、とくにドビュッシーでは豊かな響きと何とも言えない香りのある音色を楽しんだ」。


「しかし、今回は以前(2001年11月4日に比べると状態は明らかに悪化している。中間部は以前と変わりないのびやかな音がしていたが、低音部が響きのない、こもったような音になり、高音部も一部鳴りの悪いところがある。調律師さんのお話では、年に一度の公開演奏すら楽器には負担で、再修復が必要になり、残念ながら今回が弾きおさめということである」。


「それでも私は、大田黒元雄のピアノを弾いて、大田黒はきっとよい弾き手だったにちがいないと思う。というのは、ピアノというのは弾き手とともに育つからである。タッチの乱暴な弾き手に育てられたピアノは厭な音を出すようになるが、趣味のよい感性の豊かな弾き手に育てられたピアノは性格もよくなる。
  大田黒元雄は亡くなったが、このピアノの音色は、音楽・芸術をこよなく愛した大田黒の希有な魂を今もなおやどしているといえよう」。


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ピアノについて語りながら、なぜ現代に大田黒元雄の本が読まれることがなくなっているのか、を考えさせられます。次回は最終回。それではまた。

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コメント

大田黒元雄氏をはじめ、日本の音楽評論家たちの功罪を見ることは重要なことだと痛感しています。日本のピアノ界発展につくしたレオニード・クロイツァー、レオ・シロタといった人たちをほめると思えば、攻撃したりということをした野村光一、山根銀二、園部三郎の場合、こうした功罪を見据え、日本の楽壇史を問い直すことは急務でしょう。

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