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2012年8月29日 (水)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その48

後奏 その1 大田黒元雄のピアノ

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』を進めるにあたって、大田黒元雄の著書や訳書を京阪神の古書店に求め、同時に彼について書かれたものをさんざん探しましたが、ただひとつ簡にして要を得た文章は青柳いづみこさんの「青柳いづみこMERDE!日記」でした。同氏のオフィシャルサイトのなかの「2007年11月5日/大田黒元雄のピアノ」がそれですが、文中に出てくる野村光一氏らの本をも併せて読めたのは青柳さんの一文のお蔭です。


「11月4日、秋晴れのすがすがしい日に、いにしえの音楽評論家、大田黒元雄(1893~1979)が所蔵していた1900年製のスタンウェイを弾く機会に恵まれた。
  タイトルは「大田黒元雄の足跡を追って」。大田黒が大正4年から6年(1915~17)まで大森(現代の大田区山王)の自宅を開放して開いていたサロンコンサートについて紹介し、とりあげられた曲目からドビュッシーを中心に演奏するという企画だ。」という書き出しから青柳さんは語り始めます。


現在は大田黒公園となっている大田黒元雄の旧邸には、「日本庭園に面した数寄屋造りの茶室、土間つきの休憩所、木造の洋館などがある。杉並区はこの洋館を大田黒記念館となづけ、15坪の洋間をレコードコンサートの会場などに使用している」。


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「私には個人的な思い出がある。
  祖父の青柳瑞穂は上野の図書館でフランス語の講師をつとめていたことがあり、教え子の中に野村光一夫人がいらした。野村光一は長く日本ショパン協会の会長をつとめ、音楽家の登竜門であるNHK・毎日新聞主宰の日本音楽コンクールの創設にかか わり、毎日新聞で長く音楽批評を書くなど、1988年に93歳で亡くなるまで楽壇の重鎮として君臨した人物だ。
  祖父と野村光一は奥様を通して親しくなり、慶応義塾の応援歌「丘の上」(早慶戦で慶応が勝ったときだけ歌う。今年は斉藤裕樹君のおかげで歌いそこねたけれど)の作詞を依頼されたときも、野村光一の紹介で菅原明朗に作曲を依頼している。


「 私はよく野村から、大田黒さんというのはちょっと変わった人で、鬱蒼たる森の奥のものすごい豪邸に住んでいる・・・門をはいってから玄関に行きつくまでに5分ぐらいかかる。でも、訪ねて行っても居留守を使われることが多い・・・というような話をきかされていたものだ。
  それから芸大の大学院に進んで修士課程で論文を書くことになったとき、図書館で大田黒の『ドビュッシー』(第一書房)という伝記を読んだ。デュラン社のドビュッシーの楽譜を模した表紙の簡素で美しい本で、情報じたいはもう古くなっていたのだが、日本で最初にドビュッシーを紹介した本ということもあって宝物のように読んだことをおぼえている」。


そして、大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』についての評価を記されます。

「 大田黒はこの書について、音楽評論家や研究者が必ず参考にするグローブ音楽辞典など持っていなかったし、丸善に行っても音楽書など置いていなかった時代で、ロンドンであまり紹介されていなかったラヴェルについては手薄になったと謙遜している。しかし、当時の日本はドイツ音楽一辺倒で、ムソルグスキー(1839~1881)はじめロシア5人組の名前すら誰も知らなかったのだから、近代音楽並びにその作曲家を紹介したこの書は画期的だった。


  1915年といったらドビュッシーはまだ生きていて最後の創作の夏を過ごし、ピアノのための『12の練習曲』など傑作を書いた年である。シェーンベルクは41歳、完全に無調で書かれた『月に憑かれたピエロ』を発表してまだ3年。彼の代名詞になる12音技法への過渡期にあたる時期から、とんでもなく先もの買いだ。戦後平凡社音楽辞典の編集・執筆に加わった二見考平は「日本の楽壇に処女地を開拓するものだ」と称賛している。


  タイトルひとつとっても大田黒のセンスがうかがわれる。バッハもシェーンベルクもモティーフを隙間なく組み合わせた緊密な寄せ木細工のような作風という意味で共通点がある。そういえば、大田黒の所有していたピアノも寄せ木細工づくりだ」。


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「 さて、この書が刊行されたときのショックを野村光一はこんな風に語っている。
  『表題のバッハは誰でも知っているが、シェーンベルヒなる者は嘗て耳にしたことがない。バッハと同時代の音楽家なのだろうか?(シェーンベルクは1874年生れです)。ちっともわからない。もしこれが後者に属するのなら、この著者は最近の西洋楽壇の事情に余程精通している芸術家かあるいは学者に相違ない』

  ところで、それからすぐに野村光一はその『大田黒氏』にでくわすのである。
  銀座の山野楽器(当時の松本楽器)にピアノを買いに行った野村光一(当時20歳)の前に、中折れ帽を斜めにかぶり、釣り鐘マントを着て象牙のステッキをついたハイカラな青年紳士が姿をあらわす。その紳士は店頭に飾ってあった唯一のスタンウェイのグランドに歩み寄るや、次から次と暗譜でショパンはじめさまざまな楽曲を弾きはじめたので、野村は度肝を抜かれてしまう。お店の人の紹介で、その紳士が『大田黒氏』だったことを知り、やがて大森の邸宅に遊びに行くことになる。


  6畳間にアップライトのピアノが置かれ、その上にはおびただしい楽譜が積まれていたが、その表紙のカラフルなことに驚いたと野村は回想している。そこで野村ははじめてドビュッシーやラヴェルらのフランス楽派、スクリャービンやムソルグスキー、ラフマニノフ、ストラヴィンスキーなどのロシア楽派を知ることになる。重ねて言うが、1915年当時、ストラヴィンスキーは『春の祭典』を発表してパリ楽壇にセンセーションを呼び起こしてまだ2年しかたっていないのである。


  大森の大田黒邸は野村光一はじめ若い音楽青年の溜まり場になった。堀内敬三とその義兄にあたる二見考平、野村の中学の同級生だった菅原明朗。
  のちにラジオ番組「音楽の泉」の解説者として有名になった堀内敬三は18歳、府立中学を卒業したばかりでまだ学生服を着ていたという。のちの作曲家菅原もまだ川端龍子(やはり大森在住)の画学校に通い、藤島武二に師事する画学生だった。野村も慶応の文科の学生。二見は帝大の文科を卒業して中学のリーダーの先生をしていた」。

後半は次回に。

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