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2012年7月

2012年7月23日 (月)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その45

余聞 ニジンスキーを見た日本人に大田黒元雄もいた その4


山田耕筰がニジンスキー見たのはバレエ・リュス三度目のベルリン公演。1912年11月21日から12月20日、王立クロール劇場で、「牧神」の夜には至近の席に当時の「現代音楽」の巨匠リヒャルト・シュトラウスの姿を見つけ、彼の視線は舞台上のニジンスキーにもシュトラウスにも熱く注がれていました。幕が下りて割れんばかりの拍手喝采。その様子を山田耕筰はこう書いています。
画像は若い頃のR.シュトラウスです。


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「そして再びニジンスキーの牧神が小高い丘の上に戻り再び眠りに帰つて幕が閉ざされた。非常なアンコールの響きに私の快よい陶酔の気持を破ぶられて、少し不満に感じ乍ら立ち上つた時、私の前の駝鳥の姿の様なシユトラウスの頭が初めて自分の眼に再び上つた。然しその時には只シユトラウスとニジンスキーと、この二人の芸術家がキツト何か立派なものを生むではないか知らといふやうな予想を持ちながら再び席に着いた。幕はまた上つた。

斯うしてその晩は此の牧神の [午後の] 前奏曲を立続けに三回も踊らせられるのをみた。そして私は「カーニヴアル」の中に於ても只無精にニジンスキーが好になつた。これを初として私は七八回ニジンスキーの芸術に接してゐる。そしてニジンスキーを矢張異常な演技者と信ずるやうになつた」。


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「会がはててしまふと、私はいそいで私の外套を取りに行つて、シトラウスの姿を見失はないやうに、後をつけたものです。

しばらくの間シトラウスは、劇場の前にあるモルトケの銅像の傍らに立つて、私と同年配のフランス人と、わり合ひに声高くニージンスキーの芸術や、デビゥッスィーの音楽について語り交してゐましたが、やがて二人は打ちつれてなほも言葉をつゞけながら、ティーァガルテンの戦勝塔のプラッッを通りぬけ、国会議事堂の広塲にあるビスマークの銅像の下を通り、ブランデンブルク門の左側をぬけて、ウンター デン リンデンの通に出ました。

そしてアーク燈の前に照し出されたリンデの木の葉が、モザイクか何かのやうに、その美しい影をおとしてゐる街路をしづかに通りぬけて、とある Weinstube に行つてしまひました。


そこまではあとをつけて来た私も、もはやこれ以上追跡することは出来ませんでした。

もちろん私とても嚢中さへ豊かであれば、あとを追ふてその酒房に上り、シトラウスと卓を接して、もつとこまかに、シトラウスを研究したいと思つたのですがラシアン バレーの興行の通し切符を買つただけで、既に綻びかけてゐた私の財嚢は、到底それほどの余裕を私に与へませんでした。折角こゝまで姿を見失はずについて来ながら、見すみす立ち帰らねばならないことを、私はどんなにか残念に思つたことでせう」。

さて、これほどまでにR.シュトラウスに傾倒する若い日本人留学生、山田耕筰は彼より4歳年上のロシアの新進作曲家ストラヴィンスキーについてはどう思っていたのでしょうか。後世のわれわれのもつバレエ・リュスの代表作はドビュッシーの「牧神の午後」とストラヴィンスキーの「3大バレエ」であって、R.シュトラウスの「ヨゼフの伝説ではありません。また、結果的にニジンスキーは「ヨゼフ」を踊ってないのです。
画像は若い頃のストラヴィンスキー。


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山田耕筰は「火の鳥」を見ました。「ペトルーシュカ」では主役を務めたニジンスキーは踊ってません。その音楽について、彼はこう書いています。

とにかく私は一九一二年に、初めてベルリンでそのドイツに於ける最初の演出を見ました。

『火の鳥』の音楽は実際を言ふと、私が予期してゐた程のものではなかつたのです。その色彩の点に於ても、リズムの点に於ても、和声の点に於ても、その『火の鳥』といふ原曲の名称と、題材から考へて見ると、到つて微温的なものであつたやうに思ひます。

またストラヴインスキーの師であるリムスキー・コルサコフの管絃楽の色彩が尚ほ未だこの作品の中に、多分に現れてゐたやうです。とはいふものゝ、この『火の鳥』は、当時の世界の楽界にとつては、決して小さい贈り物ではなかつたと、言へるだけの新しさは十分にもつてゐたといふことを附言しなければなりません」。

以上、同時代の日本人の記録として記しておきました。
参考資料はネット上の『連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais』。沼辺 信一氏による綿密な考証文献です。http://www.nichigetu-do.com/navi/text/BalletsRussesetlesjaponais/01/

それではまた、次回更新時に。

2012年7月11日 (水)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その44

余聞 ニジンスキーを見た日本人に大田黒元雄もいた その3


山田耕筰もベルリンでニジンスキーを見ました。彼は1910年(明治43年)3月にベルリン王立音楽院の作曲科に入学し、その後3年間勉学に励みます。バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)は1910年5月、ドイツを初めて訪れ、ベルリン公演を行い(5月21~28日/シャルロッテンブルク、ヴェステン劇場)、また1912年には二度目のベルリン公演が実現しました(1月8日~2月12日/ヴェステン劇場)。しかし、山田耕筰はこの2度の公演を見ていません。


この間、山田耕筰は「語学の練習や学校の課題に、寸暇もないまでに追ひ悩まされ続けてゐたため」、故国への手紙すら書けない状況で「猛烈な神経衰弱に蝕まれて」いました。古典作品の演奏会(ニキッシュ/ベルリン・フィルなど)や歌劇の公演(王立宮廷歌劇場 リンデンオーパー)ではヴァーグナーの『指環』も見ています。おそらくは前衛的なバレエを見るどころではなかった。


彼が見たのはバレエ・リュス三度目のベルリン公演。1912年11月21日から12月20日、王立クロール劇場。ストラヴィンスキーの『火の鳥』『ペトルーシュカ』の二作と、同年5月29日パリのシャトレ座で世界初演されて賛否両論のスキャンダルを巻き起こしたばかりの問題作『牧神の午後』(ドビュッシー作曲/ニジンスキー振付・主演)がドイツ初演された、その舞台です。


当時の山田耕筰の「現代音楽」は、リヒャルト・シュトラウスでした。留学後間もない1910年10月17日、ベルリンのクロル歌劇場(クロルオーパー/新王立歌劇場)でシュトラウスの楽劇『サロメ』を作曲家自らが指揮する場面を目の当たりにします。以来、指揮者としてのシュトラウスのベートーヴェンなど古典の演奏会にも、シュトラウスの歌劇の公演にも足を運び、讃嘆の念を抱いていました。そのシュトラウスがディアギレフから新作の委嘱を受けていて、3度目のベルリン公演の客席で山田耕筰と至近の距離に座っていたのです。


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図はベルリン公演のさいの「牧神」リハーサル風景と、バクストの作った舞台美術です。


山田耕筰が書いた文章を引用します。

「私がニジンスキイを観たのは一九一二年の春だつたと記憶する。処は伯林の皇立歌劇々塲で、出し物はマラルメの詩「牧神の午後」でデビツシーの作曲に成つたもの、「タマーラ」シユーマンの「カーニヴアル」などを主としたものであつた。
その晩は丁度「牧神の午後」の演出される晩で、幕の開く前、デビツシーの曲をニジンスキーがどんな風に運動化するかといふやうな事をそれからそれと考へながら、又その舞踊団の管絃団が果してその曲をどの程度まで完全に演奏するだらうかを思ひながら、近辺を見廻してゐると、恰度私の二側前に、自分の一番私淑してゐる全世界の有する最も大きな作曲家シユトラウスの火焔のやうな形相をした頭が眼に入つた。
私はそれからといふものはニジンスキーに対する直接の期待を、何となしにシユトラウスの頭を通して間接に待つやうな気持になつた」。

シュトラウスに関する記述は略して、「牧神」公演に関する部分を次に。

「その夜の指揮者であるビーチャムが、瓢軽な姿をボックスの中に現はして、いきなり指揮棒をふり上げました。それにつれてだるい夢のやうなフルートの旋律が、オーケストラのボックスから浮び上つて来ました。つゞいてホルンのものうい響きにつゝまれて、ハープが華麗なグリッサンドをその絃上に弾き出すと同時に、幕は静かに上つて、「牧神の午後」の舞台面は、私たちの眼前に展開せられました。


舞台の背面は一面たゞれたやうな紫にぬりつぶされ、舞台全体がだるい、それでゐて眩ゆいやうな色調につゝまれてゐました。中央には小高い丘があつて、その下には小さい流れを暗示するやうな、青い布がしき流されてゐます。丘の上に静かに眠つてゐる牧神こそは、いふまでもなくニージンスキーなのです」。


「やがて最初のものうい旋律が、ふたゝびフルートにあらはれて来ると、ニージンスキーはそれにつれて、エジプトの浮彫を思はせる平面的な運動を見せながら、夢から目ざめたもののやうに、静かにをどりはじめました。けれども私の眼は、この名高い踊り手の姿を眼前にしてゐながらも、ともすればシトラウスの大きな頭の方に移つて行くのでした。私は私の尊敬するこの偉大な作曲者が、この踊を如何に感じ、その音楽をどのやうに感じるだら[う]といふことを、その首筋に現はれる運動によつて知りたいと思つてゐたのでした」。


「と、牧神がその眠りから醒めて斜めに森の方を向いて、右手を延ばした時、私は初めてニジンスキーといふ人の筋肉の中に音そのものが通つて、その差し延べた指の尖端からも、稍々仰いでゐる首筋からも、或ひは前方に半ば曲げて延ばしてゐる左足の爪先からも、恰度噴水の水の上るやうに流れ出てゐる力を味得した」。


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「そのうちに五人の水精が恰も浮彫のやうに平面的な運動を見せて横一線に舞台へ進んで行つた時、急に牧神がその体を逆に捻つて彼の丘を下らうとした時、殆んど観客の全部がその一舞踏家の運動にひねられて、完く同方向に走つたのを見た」。

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「さうして牧神はその丘から下りて、水精に戯むれる、水精の一人は彼女の薄衣を残して一様に去つて仕舞ふ。その時初めて私は平素から聞いてゐたニジンスキーの高飛びを見た。若し誇張していふ事が出来れば、この時ニジンスキーの体は丸で床を蹴つて飛上り、見えない迄その体を空間に支へ止めてゐるやうな、或は飛び上つた瞬間全くその体が観客の視線から消えて了つて、観客が驚嘆と驚異の夢心地から帰つた時──そして観客がその空間に眼を再び[戻]した時、その体が静に音もなく床の上に落ちて来るのを見た、といふ事が出来るであらう。それ程ニジンスキーの特殊な高飛びの術は優れたものであつたと憶えてゐる」。


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「さうしてゐるうちにいつかこの短い踊の幕は、静かに閉されました。シトラウスはと見ると、上半身をのばすやうにして、しきりに拍手してゐます。ニージンスキーは四五回も幕の前に現はれて、熱狂した観客の喝采に、鄭寧な答礼を報ひました。前に立ちはだかるやうにして拍手してゐる Enthusiast の、喧噪に近い態度を、シトラウスはむしろ面白さうに眺めてゐましたが、やがては自分自身もその座席をはなれて、はげしい拍手を舞台の方へ送るのでした。私はこの巨人の子供らしく打ち興じた姿を目前にした時、いよいよシトラウスが好きになりました」。


以上が山田耕筰のニジンスキーの「牧神」を見た折の文章です。
次回も少し続けます。

2012年7月 1日 (日)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その43

余聞 ニジンスキーを見た日本人に大田黒元雄もいた その2


1912年5月13日を皮切りに6月10日まで開かれたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)のパリ公演では、5月29日の『牧神の午後』の初演がありました。ニジンスキー自身の振付けと主演をしました。

昼寝から目覚めた牧神は、岩の上で笛を吹き、葡萄を食べています。

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7人のニンフが現れ水浴を始めます。欲情した牧神は岩から降りニンフを誘惑しようとするが、ニンフ達は牧神を恐れて逃げ出してしまいます。

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ひとり残された牧神はニンフの一人が落としたヴェールを拾い上げると、それを岩に敷いて、自らを慰めます。

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このラストシーンが物議をかもしました。
ニンフが残していったヴェールの上にうつ伏せになった牧神が自慰の動作をし、腰を上下させて絶頂を表現する。性の表現が、これほど露骨な形で表現された舞台作品というのは以前にはありませんでした。


『ル・フィガロ』紙には「常軌を逸した見世物」と弾劾する記事を第1面に大きく掲載しました。しかしバレエ・リュス団長ディアギレフも、すぐさま抗議文を書き、あわせて画家ルドンと彫刻家ロダンの擁護文を持って新聞社に駆けつけます。自ら弾劾した編集長のカルメットは、翌日に彼らの文章を掲載し、その結果人々の注目を集めて以後の公演のチケットは完売になりました。


日本人画家、石井柏亭(1882~1958)は、それでも6月8日にシャトレ座の窓口で当日券を買い求め、立ち見で見ることができました。入り口で偶然会ったのは留学中の画家、安井曾太郎(1888~1955)です。舞台美術はバクストによるもので、衣装ともども彼らには刺激に満ちたものだったことでしょう。

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「背景と衣装とはいづれも露国の画家レオン・バクストの担任する処である。私は前にアール・デコラチーフのミューゼーで彼れの図案類の展覧されたのを観た」と石井柏亭は書いています。

また、『牧神の午後』については、
「『フアウヌの午過ぎ』は背景と舞踊と最絵画的で静かないゝ感じのものであつた。一体絵画的効果の上から云ふと斯う云ふ風な無言劇の方がよくはないものかなどゝ考へた。
出て来るニムフ等はみな希臘の瓶から歩き出したやうな形をして、手の動かし方足の運び方にアルカイックの趣を伝へた。ニヂンスキーのフアウヌがニムフの一人の置き忘れた広帯を持つて、それに見入る処で幕になる形も奥床しい」。

2回目以降の公演からは、ラストシーンの表現が穏やかなものに変更されていたので「奥床しい」という感想が綴られているわけです。

続きは次回に。山田耕筰もベルリンでニジンスキーを見ました。

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