大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その42
余聞 ニジンスキーを見た日本人に大田黒元雄もいた その1
不世出のバレエ・ダンサー、ヴァツラフ・ニジンスキー(1890年3月12日 - 1950年4月8日)は、セルゲイ・ディアギレフが率いるバレエ・リュス(Ballets Russes ロシア・バレエ団)の主演ダンサーとして20世紀初頭の音楽の歴史にも深く係わった芸術家の一人です。
バレエ・リュスは、ディアギレフが1909年にパリのシャトレ座でニジンスキーとアンナ・パヴロワ、振付師のミハイル・フォーキンらとともに旗揚げをして、ディアギレフ死去後の1929年に解散するまでの20年間ばかりの活動でしたが、ニジンスキーの実働期間は更に短いものでした。1913年の南米公演までだとすれば、わずかに5年間ばかり。
ブエノスアイレスで同僚のバレリーナ、ロモラ・デ・プルスキと結婚したことで、南米公演に同行しなかったディアギレフを激怒させ、二人とも解雇されてしまいます。
第一次大戦が始まるとロシア国籍のニジンスキーはハンガリーに拘留されます。しかし、1916年、ディアギレフは北米公演のためにニジンスキーを呼び戻しますが、彼には統合失調症の兆しが出始めていて、それが二人の出会いの最後になりました。
輝かしいバレエ・リュスの旗揚げ以来の数年間、まずニジンスキーが「まるで空を飛んだような高い跳躍を見せて人々を驚かせた」のは『薔薇の精』でした。1911年、音楽はウェーバーの『舞踏への勧誘』。
1910年のストラヴィンスキー『火の鳥』初演にはニジンスキーは参加しませんでしたが、翌1911年の『ペトルーシュカ』には踊りました。その年には彼は『白鳥の湖』も踊っています。同年までの2年間はロシアの劇場のシーズン・オフの特別興行でしたが、1911年に正式に「バレエ・リュス」を結成。一年中興行できる体制になりました。それまでにニジンスキーが踊った演目を記録しておきます。
1909年 『アルミードの館』(チェレプニン) 『饗宴』(ロシアバレエのメドレー) 『レ・シルフィード』(ショパン) 『クレオパトラ』(チェレプニン)。
1910年 『謝肉祭』(シューマン) 『シェエラザード』(R.コルサコフ) 『ジゼル』(アダン) 『オリエンタル』(ロシア・北欧音楽のメドレー)。
同じように1911年のニジンスキーの舞台は、まず『薔薇の精』(ウェーバー) 『ナルシス』(チェレプニン) 『ペトルーシュカ』(ストラヴィンスキー) そして、『白鳥の湖』(チャイコフスキー)。
下図はニジンスキーの『ペトルーシュカ』と、その折のニジンスキーとストラヴィンスキーです。
振付けは自らも踊ったフォーキンが、また装置/衣装はバクストがそれぞれの芯になりましたが、やがては当時の音楽、美術など分野を問わず「現代芸術」の先鋭な芸術家が「バレエ・リュス」に協力することになって行くのです。続きは次回に。
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