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2012年5月20日 (日)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その40

第4章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』と同時代のシェーンベルク評価 8


ついでのことですから、大田黒元雄とプロコフィエフの項目でふれた徳川頼貞について紹介しておきましょう。
http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/6-1903.html

彼はやはり大田黒や山田耕筰らと同じ時期、1913年から1915年まで海外に留学して、帰国後は音楽会場「南葵楽堂」をつくった人物です。

徳川頼貞―1892年(明治25年)~ 1954年(昭和29年)―は紀州徳川家の第16代当主で侯爵でした。戦前は貴族院議員、戦後は参議院議員として国政にも係わりましたが、それよりも西洋音楽の楽譜や音楽文献、古楽器類の収集家、日本で初めての音楽会場だった南葵楽堂を開堂させたことが歴史に残る仕事です。


ヴォーリズの設計による南葵楽堂は麻布飯倉に建てられました。地下に南葵音楽文庫を創設、徳川頼貞が1917年(大正6年)にロンドンで落札した「カミングス・コレクション」を母体とする貴重資料を多く含まれていて、その中には、ヘンデルやJ.S.バッハ、パーセル、ハイドンの肉筆譜、さらにワーグナーがロンドンで指揮した際のベートーヴェン『交響曲第9番』の初版本が含まれていました。

外遊を重ねた生涯でしたが、若い彼が最初に留学したのはケンブリッジ大学の音楽学部でした。少年時代はあらゆる学校教育には向いていない性格でした。父・徳川頼倫も同意して、当時の貴族の子弟は随行員に上田貞次郎と小泉信三を従えて旅立ったのでした。


彼の生涯を通覧して天晴れだと思うのは、明治期の富裕貴族の殿様育ちのまま、大正、昭和の恐慌や敗戦、制度が変わった戦後までを生き抜いて、蕩尽しつくしたことです。音楽においても彼は若い新進の作曲家・プロコフィエフにソナタを委嘱し、彼を支える貴族のひとりになろうとしました。


『薈庭楽話』は「わい(「薈」の慣用音は「かい」ですが呉音、清音は「わい」)てい らくわ」と読みます。「薈庭」は雅号です。春陽堂書店から1943年(昭和17年)に出版された、徳川頼貞の音楽と係わってきた人生を回想する本です。そこにプロコフィエフの一章があります。大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』その6を補完する一文です。


「プロコフィエフ

或る日ベール男爵が、ロシアの立派な音楽家を御紹介しますと云って、私の処へ一人のピアニストを連れて来た。それがピアニストとしてまた作曲家として有名なプロコフィエフであった。
プロコフィエフは私の家で、スクリアビン、シリル・スコット、マリピエロ、ストラヴィンスキイ、ドビュッシー等近代音楽の巨匠のピアノ曲を弾いて聴かせてくれた。また現代音楽に就いて色々話した。


彼は次のような意見を述べた。

『芸術の理想的な、また絶対的な生命は独創である。独創なくして芸術に価値は認められない。然し独創というものは最初から成立し得るものではない。それは結論的に謂い得るのみである。したがって我々の芸術も現実と離れては成立しない。現象の世界に実在する連鎖変遷を無視しては芸術は創作し得ない。それ故経験は重大視される一つの要素となる。


経験という過程は、変化推移して行く我々の生命を進展せしむる原動力となる。音楽で謂う再生である。再生能力なくして創造は在り得ない。もし在りとするならば、それは独善的なものであり以て似て非なるものである』。

プロコフィエフは急進的な作曲家であると聞いていた。けれども彼から聞く芸術論や音楽論は極めて妥当なものであった」。

以上が前半です。続きは次回です。それでは。

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