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2012年3月

2012年3月31日 (土)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その35

第4章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』と同時代のシェーンベルク評価 3


前回に紹介した『音楽読本』は、山田耕筰が昭和10年2月19日初版で、日本評論社から出版されました。面白いのは、この本は同社の「読本シリーズ」の1冊として出されていることで、次のような題名の本と並べて売られていたのです。


『陸軍読本』『海軍読本』『思想読本』『貨幣読本』『警察読本』『金銀読本』『国民経済読本』
『宗教読本』『日本精神読本』『航空読本』『憲法読本』『民法読本』『経済読本』『社会読本』
『政治読本』『銀行読本』『内科読本』『産科婦人科読本』、そして山田耕筰の『音楽読本』です。


第16章「音楽芸術発達史の概観」には、まず「イタリー音楽」。「ドイツ音楽」、「フランス音楽」と続き、最後に「ロシア音楽」で締めくくられます。およそ30ページほどの短い記述ですが、この部分がまさに大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』と対応する部分といえます。昭和10年代の前半という同じ時期に大田黒はロンドンに、山田はベルリンに留学し、当時の日本の「ドイツ音楽至上」のアカデミズムにいるかぎりでは決して分らない「西洋音楽」の広大な世界を知ったのでした。


山田耕筰は誰もが知っている歌を作った大作曲家になりましたが、もちろん「待ちぼうけ」「あわて床屋」「ペチカ」「からたち」などの歌だけを作曲したのではありません。交響曲ヘ長調『かちどきと平和』、交響曲『明治頌歌』、長唄交響曲第1番『越後獅子』、舞踏交響曲『マグダラのマリア』など交響曲、交響詩は10曲に及び、これらのいくつかは最近ナクソスからCDが出ました。


また、歌劇も『黒船』など3曲。未完の『香妃』は弟子の団伊玖磨が補筆完成させましたが、僕は幸い同曲の大阪フェスティバル・ホールでの初演に接することができました。それを入れると4曲です。

しかし、作曲家・山田耕筰の真価をあらためて知ったのは前述の「歌曲」「童謡」をドイツ語、日本語で歌うエルンスト・ヘフリガーさんを芦屋にお呼びし、それらの歌が世界的大歌手によって歌われる様を目の当たりにしたときでした。バッハの『マタイ受難曲』のエヴァンゲリストを誰よりも歌ってきた大テナー歌手。ワルターやヨッフムの棒でマーラーの『大地の歌』の録音をした、当時はもはや「歴史上の」歌手となっていた彼が歌う山田耕筰の歌のすばらしさ。

日本人の作品のまいた種が、作曲家の没後数十年を経て思わぬところで花を咲かせ、美しく薫らせていた!
なによりも山田耕筰は、世界の水準に伍して引けを取らない作曲家だったわけです。

さて、その彼の若き日の本。「ロシア音楽」。彼が最高に評価していたのはスクリャービンです。

「西ヨーロッパ諸国の頭上にのしかかっている巨大なスフィンクスのようなロシアは、いろいろの意味で得体の知れない謎の国です。その真相を掴み得ないだけに、そこにはどえらいものを生み出す底知れぬ混沌が潜んでいるようにも思われます。現在のロシアがそうです。数世紀前のロシアもやはりそうでした。


あの身体は恐ろしいほど頑健に出来ているのに、何処かいうにいわれぬ愛嬌があり、大変な力をもっていながら、何故かそれを出し渋っているような朴訥な野熊の姿は、西欧文化の圏外に超然胡坐していたペートル大帝出現以前のロシアを最も的確に表象するもののようにも思われます。


雪に閉ざされた北国ロシアの、暗い、原始的な生活は、神秘なギリシャ正教の異様な東洋的光彩を混えて、一層重苦しい陰鬱なものとなりました。長い冬籠りは、広大な原野や森林の与える感動と相まって、彼らの豊かな想像を伝奇の中に高めさせる助けとなりました。18世紀における驚くべきロシアの芸術的覚醒は、こうした生活の中におもむろに養われて来たものの発露とも見る事が出来るでせう。


スラヴ人は北国的な陰鬱を想像の世界に発散する傍ら、思い切り生の享楽に浸ろうとしました。スラヴ人ほど歌を愛し、踊りを好む人種はありません。」。 (太字は著者の指定)


作曲家の紹介は、まずグリンカから。そしてダルゴミュイジスキー。ペテルスブルグの5人、ボロディン、クイ(キュイ)、バラキレエフ(バラキレフ)、ムッソルスキー(ムソルグスキー)、リムスキー・コルサコフ。チャイコフスキー。
「ダルゴミュイジスキーがヴァーグナー、ドビュッシーの先駆者であったという事、ドビュッシーがムッソルスキーの感かを受けたという事、ストラヴィンスキーが現代音楽の何れよりも数歩を先んじている」。
そのことを述べた上で、こう続けます。


「果してロシアは大戦の直前において、在来の世界の音楽的水準から遥かに飛び離れた高い大空に、彗星の如き巨匠を輝き出させました。スクリャービンその人であります。

彼は官能的、享楽的なイタリー、フランスの音楽を自由な形で取り入れ、それをロシア化せんとして一層放漫となったロシア交響楽を、在来の形式音楽とは全然趣きを異にした新奇なものとし、しかもこれに新しい意味での方正な形式を与えました。彼は今までから交響曲という字に全く新たな内容を与え、又管弦楽というものに在来の作曲者の思いもつかぬ価値と可能性のある事を立証しました」。

以下、さらに詳しく山田耕筰が感じたスクリャービンの素晴らしさが述べられていきます。長くなるので、それは今度に。それでは、次回更新のときに。


2012年3月18日 (日)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その34

第4章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』と同時代のシェーンベルク評価 2


 大田黒元雄がロンドンへ留学した1914年から翌15年。それに先立って1910年3月にドイツへ渡った山田耕筰は、4月からベルリン王立音楽院作曲科へ入学し、3年間、西洋音楽の技法を学びます。作曲をめざす日本人がドイツへ留学した先人としては滝廉太郎がいます。1901年(明治34年)、滝はライプツィヒ音楽院に留学したものの、病気にかかりわずか2か月で帰国してしまったのでした。


 山田耕筰 (1886年 明治19年 - 1965年 昭和40年)は、13歳で岡山の養忠学校に入学。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうけ、14歳のとき、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。


 ということは少年時代に「関学生」で、「阪神間」に縁のある人でもあったわけです。母校の東京音楽学校に「作曲家」が開設されたのは、1934年。まだまだ遠い先のことで、志を抱く若者は海外(とくに当時の日本はドイツ音楽一辺倒でしたから、ドイツ)へ出かけて勉強するほかなかったのです。大田黒元雄は父の援助でイギリスへ行くことができましたが、山田耕筰は「三菱」の総帥・岩崎小弥太の援助を得て留学がかないました。いまの若い人には想像もできないほど、海外留学はたいへんなことだったのです。


 ベルリンで山田耕筰はディアギレフのロシア・バレエ団公演に接し、ニジンスキーを見ています。また、リヒァルト・シュトラウスの音楽に感銘を受けます。そして、いま手元にある本は、山田耕筰著『音楽読本』(日本評論社刊 昭和10年2月19日初版)。専門家へ向けられたものではなく一般の読者に向けて書かれた本ですが、彼の音楽観が色濃くくまなく塗り込められた一冊です。

 昭和の大作曲家は、まず「音楽とは『うた』である」といいきる。歌とは「人間生活の偽らざる訴え」であり「人の生きる所には、必ず歌がある」。彼の音楽論は、まず「声楽」から始められます。目次はこうです。


 「音楽とは何か」「声楽の知識」「民謡と童謡」「簡単な歌の形式」「芸術的歌曲」「芸術的歌曲の作家」「寺院音楽」(引用者注/現在は「宗教音楽」)。
次に「器楽の知識」「木管楽器」「真鍮管楽器」(「金管楽器」)、オルガン族」「打搏楽器(打楽器)」「弾絃楽器(鍵盤楽器)」「胡弓族の絃楽器(この中にヴァイオリンなど)」「管絃楽の発達」。そして「歌劇と楽劇」。
 「音楽芸術発達史の概観」でイタリー音楽、ドイツ音楽、フランス音楽、ロシア音楽の歩みが書かれ、最終章に「音楽日本の将来性」。附録として「楽語と固有名詞」。


 この中で、シェーンベルクに言及した一節があります。「音楽芸術発達史の概観」の「ドイツ音楽」から引用します。明快な断言です。

「簡単にいえばドイツの音楽は、ローマへの往復に口ずさむ巡礼の歌を通して入って来た北部イタリーの音楽の、智的、形式的方面を極端に拡大し、完成したものという事ができるでしょう。生来ドイツ人は数学的、組織的な国民であります。ドイツ人は非常に緻密な分解的、科学的頭脳を持っています。音楽がドイツにおいて形式美の完璧を見るに至ったのは、自然の勢いだったといわねばなりますまい」。また「ドイツ人の内部には、生来大げさを好み、力を讃美する傾向が巣食っているのではないかと思われます」。


 リヒアルト・シュトラウスの「歌劇『ナクソスにおけるアリアドネ』の管絃楽の如きは、シェーンベルクによって創始された、在来の大がかりな形式の反動ともいうべき室内交響曲と等しく、精選された少数の名手によって奏でられる名人管弦楽で、透明なまでに磨き上げられた形式音楽のエッセンスともいうべきものであります」。(太字は著者・山田耕筰自身による)


 そして当時のドイツ音楽の現状を憂います。
「それでは今後ののドイツ音楽は如何なる方面に伸展して行くのでしょうか。形式的であるべく生れついた国民は、畢竟(ひっきょう)形式の外に出来る事は出来ません。私はやはりドイツ音楽はシトラウス(原文ママ。リヒァルト・シュトラウス)やシェーンベルクの室内交響曲や名人管絃楽の如き、煮つめられた精巧な形式の中に活路を見出すのではないかと思います」。「現代のドイツ楽壇に新人と謳われるヒンデミットの作品などを見ても、確かにこの傾向を見る事が出来ます」。


それではまた。次回更新時に。

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