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2011年12月

2011年12月27日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その30

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(22)


シェーンベルヒ(シェーンベルク)。1874-1951((この本―1915年初版―が書かれたときには存命。まだ40歳をすぎたばかり!)。
全文を掲載します。これが日本の最初期のシェーンベルクに関する文献です。

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「未来派音楽というものが、始めて公演されたのは、今から数年前の事である。此の未来派は、独逸(ドイツ)のアカデミックな楽派と全く違った、ウィンナ(ウィーン)の楽人達に依って起されたのであるが、其の一団の中心と成り、先導者と成った人をシェーンベルヒと云う。未来派の音楽が始めて演奏された時分にはそれは全く不可解な非音楽と思われ、其の先導を敢(あえ)てしたシェーンベルヒは、音楽的狂者若(も)しくは、徒(いたず)らに新と奇とに人を驚かす山師とも見られて居た。けれどもそれから数年を経て今日に至る迄、彼の態度は少なくも真摯で、且つ漸次に変化と発達を来(きた)して居る。


アーノルド・シェーンベルヒ (Arnord Schoenberg) は今年まだ42歳のウィンナ人である。彼の音楽は其の驚くべき不協和な音と、急激な転調と、全体の組成の奇抜な且つ大胆な事とを以て人を驚かす。けれども彼が古典的な音楽から離れて、段々に変化して来た事は、其の初期からの作品を見れば明らかである。勿論彼は始めから極めて独創的であった。

けれども其の弦楽六部の『良夜』(Verklaerte Nacht 『浄められた夜』)の如きは、明かに古典的のところを持って居る。そして此の曲や、同じく初期の作品である『廃馬の歌』 (Gurrelieder 『グレの歌』の如きは、極めて美しいところがある。此の『廃馬の歌』(グレの歌)に就いては、アーネスト・ニューマンが『自分は此の曲が、我々の時代の最も美しい音楽を蔵して居る事を確(かた)く信じて居る。此れは、シェーンベルヒに多くの友を作り、且つ多くの真摯な研究家をして彼の他の作品に注意せしめる様にするであろう』と書いた。


自分はシェーンベルヒの作品を僅(わず)かに数回しか聞いた事がない。従って彼に就(つい)てここに何の評価をも試みる資格の無いものであるが、強いて云えば彼の洋琴(ピアノ)曲は殆(ほと)んど不可解である。彼の音楽は一体極めて抽象的である。

併(しか)し自分の嘗(かつ)て聞いた彼の絃楽五部曲は四章から成り、最後の二章に女声の独唱が加わって、絃楽に合する特別な形式のものであったが、其の独唱の部分などは極めて力強い一種の美しさを持って居るもので、此れに独立した曲と伴奏との丁度中間ともいうべき曲を、絃楽の方が合せて奏するところは、作家の優れた楽才が偲ばれるものであった」。

ここで引用者の注釈です。
大田黒元雄が聴いた曲は、おそらく『弦楽四重奏曲 第2番』(1907-8)だと思われます。『絃楽五部曲』というのは記憶違いか。

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「シェーンベルヒはハーモニイに関する書を出して、己れの態度を明(あきら)かにした。此れは Handbuch der Harmonielehre という本である。彼は此の中に種々の作例をかかげて、己れの作品の有意義な事を説明し、且つ幾多の警句を載せて居る。其の中の一つにはこの様なのがある。
『四階の窓から飛び下りれば、階段を用うるよりも早く地上に達する事が出来る。けれどもそれは果(はた)してどういう状態に於てであろうか。それ故最短よりも最善の道を撰む(選ぶ)べきである』。
此の言葉は明かに彼の態度を示したものであると云えよう。

けれども今のところシェーンベルヒは何(いず)れにしても、過渡期にある。彼が今後どの様に変化するか、それはスクリアビンや、ストラヴィンスキイなどと同じく、到底我々には判断の出来ない事である。恐らく此れは彼自身にも解らない事であろう」。


ここで今回は終わります。残りの部分は次にまわします。それでは次回更新時に。

2011年12月20日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その29

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(21)


ストラヴィンスキイ。1882-1971(この本―1915年初版―が書かれたときには存命。まだ弱冠33歳!)。
「ストラヴィンスキイの名が世界に知れたのは、僅々数年以前の事である。それ迄の彼は世界と云わず、その故国たる露西亜(ロシア)の国中でさえ殆(ほと)んど知られて居なかった」。

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「彼を世界に紹介したのは、実にディアギレフの露西亜舞踊団であった。少壮作曲家の優れたものに欠けている今日の楽界に、彼の出現したという事は、極めて重大な意義を有して居る。彼は露西亜においてのみならず、世界における最も有望な天才である。彼は実に露西亜音楽の第二期を代表すべき資格を持った秀才である。


彼の音楽は極めて新しい、大胆なものではあるが、其(そ)の中心と成った感じは種族的、国民的のものである。尤(もっと)もそれは到底学閥風のものではないけれども、彼の音楽は真の意味に於いて五大家の後継をなすものとも云う事が出来る。即ち露西亜国民楽の革新的相続者と認めて差支(さしつか)えない」。


「ストラヴィンスキイは幼児既に楽才を示し、九歳の頃には特に洋琴(ピアノ)を好んで此れを練習した。其の後1902年彼は国外に旅行したが、其の時幸運にもリムスキイ=コルサクフに出逢い、其れ以後この大家のもとにあって、深く研究を始めた」。


「彼の名を西欧羅巴(にしヨーロッパ)の人々に伝えたのは、其の『火の鳥』であった。この音楽を用いた舞踊が始めて巴里(パリ)で演せられたのは、1910年の事であったが、其れ以後この舞踊は倫敦(ロンドン)にも演ぜられ、毎年のシーズンに欠かさず上演されている」。
「其の音楽は極めて独創的で、驚くべき効果を持って居る。其の組成の確かな事と、曲調の美しい事とは、作家のすぐれた才を思わせる」。


「『火の鳥』の発表された翌年作家は更に舞踊曲『ペトルーシュカ』を出して人々を驚嘆させた」。

「ストラヴィンスキイの驚くべきオーケストレーションの巧みさは、この曲の随所に溢れて居る。露西亜舞踊は随分沢山ある。けれども不思議なことに『森の神(牧神)の午後』『シェエラザード』『薔薇の精』などの如く、舞踊のために作られたのではない音楽を用いた方が、却(かえ)って舞踊のために作られた音楽を用いた『ダフニスとクロエ』『ミダス』などよりも優れている。従って寧(むし)ろ自分には舞踊のために曲を作るという事が、却っていろいろの事、就中(なかんずく)『舞踊のため』という事から、作物の自由を害しはしまいかという懸念がある」。


「けれどもここに唯一つ『ペトルーシュカ』のみは其の例外である。自分は舞踊の中で『ペトルーシュカ』位、音楽と舞踊の調和したものを外に知らない。町外れの祭のただ何となくがやがやと騒がしい空気の描写の如きは、全く作家独特の手腕に依ったものと云うの外はない。其の感情、空気等の音楽的描写の巧妙且つ自由な事は、誠に驚嘆すべきものである。事実彼は天才的の音の発明者である」。

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「『ペトルーシュカ』の次には『春の犠牲』(現在は『春の祭典』)が発表されて、大分いろいろの問題を惹起した。『春の犠牲』に至って、ストラヴィンスキイは再び過渡の時代に入った様に思われる。彼は前世紀の舞踊曲を作り、此れに依ってかのニジンスキイは、最も大胆な、且つ奇抜な舞踊を人々に見せて、己れの芸術に対する態度を明らかにした。
ストラヴィンスキイは此の作で、因襲的な音楽というものを超越して、其の或る点は寧ろシェーンベルヒのものに似て来た。しかも此の曲は舞踊に伴って奏せられる時は、よく古代の邪教的の露西亜の、未開な空気を表現する事に成功したのであった」。

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「ストラヴィンスキイが始めて歌劇に着手したのは1909年の事であった。それが昨1914年に成って完成されて6月倫敦(ロンドン)に演ぜられた。此れがアンダーセンの物語中、特に支那(中国)に関するものから取った『鶯』である」以下、この歌劇と歌曲とピアノ曲(『彼は僅かに四つのスタディを書いたばかりである』)についての記述。結びは以下の通りです。


『ストラヴィンスキイはまだ今年三十を越えたばかりである。彼は将来まだいろいろの変化をするであろう。けれども彼が如何なる方面に進んで行くにしても、彼の進路並びに其の作品は、何(いず)れも人々の注意を惹く事であろう。そして恐らく彼は最後まで、成功と不成功とを別問題として、世界に於ける最も独創的な他の模倣を許さない楽人として生きる事であろう」。


1915年の日本におけるストラヴィンスキーの紹介文でした。さて、いよいよ次は「シェーンベルヒ」です。それではまた、次回更新時に。


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