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2011年11月

2011年11月25日 (金)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その28

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(20)

チェレプニン。1873‐1945(この本―1915年初版―が書かれたときには存命)。
チェレプニンといえば、松平頼則(1907-2001) が管弦楽曲「パストラル(1935)」でチェレプニン賞第二席を獲得して世界に知られるきっかけになったことが知られています。それは1935年のこと。本書がしるされた時には、チェレプニンはまだ40歳を少し越えたばかりでした。


「露西亜(ロシア)舞踊は幾人かの新しい音楽家を世界に紹介した。チェレプニンも亦(また)其の舞踊『水仙』と『アルミダの家』とに依って知られた人である」。
「まだ春秋に富む此のチェレプニンなどに対して、我々は多大の期待を有するものである。最近の露都の批評によれば、彼は最上の意味に於ての折衷派であると云われて居る」。

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ラハマニノフ(現代ではラフマニノフ、と表記)。1873‐1943(この本―1915年初版―が書かれたときには存命)。
ラフマニノフまで来ると、もうかなり2011年の現代につながってきた感があります。なぜなら彼自身の弾いたピアノ演奏が結構な枚数にのぼるSPレコードに残されているからで、その中の1929年頃の米国ビクター「片面の赤盤」は僕のコレクションの中にもあります。彼は物凄く大きな手をしたピアニストだったそうです。


「現今の露西亜の多くの音楽家の中で、ラハマニノフの名は最も世界的のものである。彼の嬰ハ短調のプレリュードは彼の名を世界に知らせた」。「ラハマニノフは交響楽、歌劇を始めとして、殆(ほと)んど総べての作曲の方面を試みた」。


「洋琴(ピアノ)の大家としての彼は、多くの洋琴曲を書いた。其れらは皆よく此の楽器の性質に適したもので、其の代表的のものはいう迄もなく、かの嬰ハ短調のプレリュードである。事実此の曲が作られなかったなら、ラハマニノフという六ヶしい(むつかしい)名前は今日程我々の耳に親しいものとは成らなかったに相違ないと断言してもよい位である」。


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大田黒元雄は、ロンドンでラフマニノフのピアノ演奏を聴いています。その部分、全文を引いておきます。

「自分はラハマニノフの演奏を幸いにして倫敦(ロンドン)で聞いた。彼の技巧は極めて優れて居た。殊に其の音の力強い事は驚くべきものであった。彼は其の日二番のハ短調の司伴楽(引用者注/協奏曲。ピアノ協奏曲第2番)を弾いた。


けれども最も喝采を得たのは、其の二度目か三度目の礼奏(注/アンコール)に漸(ようや)く弾いた、かのプレリュードであった。彼が此れを弾き終わって鍵盤から手を離した時には、満足と感謝の非常な喝采が起こった。或る人は此の曲を或る若くして逝った美しい乙女を悲しんだものであるというが、此れは単に一説にとどまるらしい」。


「ラハマニノフの曲は近来アカデミックに傾いてきたと云われる。それは彼が益々円熟の境に入って来た証拠かも知れない。けれども我々にはあのプレリュードの持つ様な北欧的の沈痛な美わしさが望ましい。
見たところ彼は、其の音楽の如く、真摯で、且つどことなく寂しみを持って居た。最近の報知に依れば、彼も亦(また)今度の大乱(注/第一次大戦)に祖国のために銃を取って戦って居ると云う。自分は切に彼の幸福を祈るものである」。

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コレリッジ・テイラー。1875‐1912.
この作曲家は現代の日本では有名ではありません。
「コレリッジ・テイラーは黒人の血を享けた楽家であった。しかも彼は英国で異常な名声を得て、音楽史上の珍しい一人物と成った」。「音楽の神童であった。彼は本を読む以前、既に楽譜を読んだ」。
「15歳のとき倫敦の王立音楽学校に入学して以来、彼はヴァイオリンと、作曲とを先行した。彼の最も有名な合唱曲『ハイアワサ』の最初の部分は、1898年の其の学校の演奏会に演奏されて、たちまち人の注意を惹いた」。


「彼は多くの洋琴曲と管弦楽曲とを作った。其等(それら)は皆稀に見る美しさと、一種異国的な感じを含んで居る。其の洋琴曲のみに就ても『アフリカのスイト』(注/アフリカ組曲)、『ムーアの踊り』等という特種の表題を有して居るものが発見される。
此の有為な楽人は、1912年9月1日病のために斃(たお)れてしまった。其の行年は僅かに37であった。しかもその死後、彼の音楽に対する一般の愛好と了解とは益々加わって来て居る」。


さて、続く作曲家はストラヴィンスキーです。それでは、次回更新時に。


2011年11月15日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その27

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(19)


グラズーノフ。1865‐1936(この本―1915年初版―が書かれたときには存命)。
「リムスキー・コルサコフの死んだ時、グラズーノフ、リアドフ、リアプーノフ、アレンスキイの四人が高弟として残された。其の中でもグラズーノフは最も秀でた才を持った人で、国民楽派の大家と成る充分な資格を持って居た。ところが其の後の彼は其の楽風が転化して、漸く非国民楽的成り露西亜(ロシア)の音楽界に於ける最も矛盾した傾向を持つ作家と成ってしまった。けれども其の作品の実質並びに量に於いて、彼は現今の露西亜楽界の重鎮である」。


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ヴォルコフの書いた『ショスタコーヴィチの証言』は「偽書」とされますが、その中に彼の教える学生だったショスタコーヴィチが見たグラズノフ像が面白いものでした。グラズノフ先生は、上着の内ポケットにウォッカを仕込んでチューブでちびちび吸われていた、という。

「1884年には、ワイマールでリストが彼の第一交響楽の指揮をした。此れに依ってグラズーノフの名は西欧羅巴(にしヨーロッパ)に知られた」。
「1897年には其の第四の交響楽が倫敦(ロンドン)で発表され、同95年のシカゴ博覧会には特に行進曲と合唱曲とを作った」。
「彼の第七の交響楽は1903年に発表され、やがて剣橋牛津両大学からは名誉博士の称号を彼に贈った」。

さて、明治に生きた先人たちは海外の国名や都市名をことごとく漢字表記してきましたが、ここに剣橋牛津なる面妖な漢字熟語が出てまいりました。これを読むには頓智が必要です。
剣橋は、けん・はし。はしだけを英語で言うとブリッジ。ケン・ブリッジとなりケンブリッジ大学のことになります。
牛津は、うし・つ。二つとも英語で言えば、オックス・フォードで、オックスフォード大学、というお笑い。

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シベリウス。1865‐1957(この本―1915年初版―が書かれたときには存命)。
「シベリウスは北欧フィンランドの有する最大の作曲家である」。
「彼は己れを広告する事を好まない。そして常に世間から離れて居る。政府から与えられる年金は彼に平静な生活を許す」。「しかも彼の作曲は次第に世界的の名誉を得て行く」。

「シベリウスはまだ五十歳を越えない。今後の彼がその収穫の益々多く且つ貴(たっと)くして、フィンランドのグリーグと成る事を、自分は希望してやまない」。


スクリアビン。1872‐1915(この本―1915年初版―が書かれた年に没)。
「音楽革命者としてのスクリアビンの名は、此頃大分我が国にも伝えられた。事実彼は露西亜に於いてのみならず、今日の世界の音楽界での最も注目すべき人物である」。

「スクリアビンの音楽は最初から創造的であったが、其の前半の作品は非常にショパンに類似して居る」。
第三の交響楽に「次いであらわれたものに、交響楽詩『入神の詩』(The Poem of Ecstasy)―<引用者注/現在では『法悦の詩』と呼ばれています>―がある。スクリアビンが色彩と音響との結合に注目し始めたのは、此の曲の製作中であったと云われて居る」。

「次いで発表された」「最も有名な『火の詩』と呼ばれる『プロメセウス』(注/Prometheus 現代では『プロメテウス』)は、「倫敦(ロンドン)では1913年始めて演奏された時、二回繰り返されたのにもかかわらず、殆(ほと)んど何人も了解する事が出来なかったと云われて居る。スクリアビンは此の曲に至って、其の独特のハーモニイの極致に達した。そして此れに依って霊智学(セオソフィー、Theosophy)の音楽的表現と、並びに色彩と音響との結合とを試みた」。

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以下の行文は『その『プロメセウス』の1913年ロンドン初演に臨席した日本人の記録として重要なので、全文採録します。

「自分は昨年の三月倫敦で此の曲の演奏を聴いた。其の時は作家スクリアビン自身が洋琴(ピアノ)の部分を受持った。曲は最初の混沌たるステージを過ぎて、人間の自覚がやがてうつされる。其の中に、或いは怒り、或いは悲しみ、或いは喜びという様な諸種の感情が蜂起して、混乱し衝突する。そして聴者は唯其の驚くべき各種の音の混乱の渦中に忘然と残された。実際たった一度聴いただけでは、以上の様に云うより仕方がない。今覚えて居るのは、最初の混沌たる低い絃の一斉に奏するトレモロと、やがて嵐の如くに起る各種の音と、トロンボーンの響きと、純な喜びを現わすような美しいヴァイオリンの調べとである」。


「スクリアビンの此の曲に用いた新しいハーモニイから得られる音は、余り快いものではない。寧(むし)ろ不安な感じを持って居る。作家の主張によれば独奏洋琴の部分は一個の人間をあらわし、管弦楽は人間の受けるすべての影響というものを表現して居るのだという。しかもスクリアビンの主張は以上にとどまらず、彼は特別の神秘的和絃(注/現代では「神秘和音」)というものを九度と増五度の音から得て、此れは青みがかったリラの色に伴われて、真の感じの始めて出るものだと云った」。


「スクリアビンはピアニストとしても極めて優れた技量を持つ。彼の黒に近い褐色の髪の毛と、長くひねり上げた口髭と、寧ろ蒼白な顔色とは、一種沈痛な、そして威厳ある感じを人に与える。
あの『プロメセウス』の演奏中、時々目を上げて指揮者のバトンを眺めた時の鋭い、しかも緊張した彼の顔つきは、未だに明らかに自分の脳裡に描く事が出来るのである」。


「神秘和音」については、①四度音程を六個堆積した和音、②属九の和音の第5音を下行変質し付加第6音を加えた和音、というのが現代の解説書に見る定義です。これで足りなければ、ご教示下さいますように。
次回はチェレプニン、ラフマニノフ。では、次回更新時に。


2011年11月 9日 (水)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その26

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(18)


シュトラウス(リヒャルト・シュトラウス)。 1864-1949(この本―1915年初版―が書かれたときには存命)。
「ここに十人の音楽愛好者が居た場合、現今最大の作曲家は誰かという問題に対して、彼らの中九人までは、シュトラウスと答えるであろう。彼は実にワグナーの後継者として恥かしからぬ天才である」。

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という書き出しですが、シュトラウスの人生はまだ過半をすぎたばかり。なお34年の年輪を経て「交響詩」の作曲家とはまるで違った相貌を見せることになるのですが、1915年時点の大田黒元雄の記述も手放しの賞賛だけではありません。作品紹介を終えた後に1908年『サロメ』初演後に書かれたアーネスト・ニューマンの批評が引用されています。彼の見る長所も短所も指摘されていますが、物足りぬこととして、「彼に欠けて居るのは『感情』ではなくて、最大の芸術家に見る、総べての能力の『平衡』という事である。彼の性情には、過度に陥るところがある」。

『伊太利より』、『マクベス』、『ドン・ジュアン』と作られた順に紹介は進められますが、『死と成仏』(現代は『死と変容』。内容としては「成仏」でも間違っていません)においては「総てが極めて純な感じを持って居る。多くの批評家が、此の作家の作中最も藝術的平衡を得て居ると云って賞賛するのは、此の曲である」。「此の曲が、シュトラウスの大病の後に作られたという事は最も興味が深い」。「特に死と生の恐ろしい戦いや、美しい少年時代の追憶、栄光あるアポセラシス等は最も聴者に深い感銘を与える」。

『ティル・オイレンシュピーゲル』は「最も明快なものである」と簡単に。
そして『ツァラツストラはかく云えり』。現代ではスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』(1968)のメインタイトルに開始部分が使われたために、少なくともその部分だけは知らない人はいません。しかし、1915年当時は「シュトラウスの作品の中でも、此の作は最も褒貶の多いものである。実際今日のところでは、此の曲が成功して居るとは云い難い」。

余談ですが、映画にはカラヤン/ウィーンの英国デッカ盤が使用されたとのこと。しかしエンド・クレジットには演奏者名はなく、曲名だけになっていました。また、他の部分にもキューブリックのセンスは光ります。ジョルジ・リゲティの『アトモスフェール』、『レクイエム』、『ルクス・エテルナ』『アヴァンテュール』など。それに加えてヨハン・シュトラウスJr.の『美しき青きドナウ』ですよ!
リゲティのファンの皆さんも是非一度ご覧下さい。

『ドン・キホーテ』。『英雄の生涯』。二曲とも「描写の巧妙さ」や「作曲法の大胆な且つ卓越した事」が書かれています。そして『家庭交響曲』。「日常の家庭の生活というものを、音楽を以て描写しようと試みた。けれどもシュトラウスの音楽はあまりにも理知的で、且つ此の様な曲を作る上には、其の音楽の過大、過重な事が失敗の原因と成った」。

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そして「歌劇」に移ります。『グントラム』、『火の欠乏』を経て、『サロメ』(1906)に「至っては此れを歌劇と呼ぶよりは、楽劇という方が当って居ると自分は思う」。「彼は此の作にライトモティーフを最も意味深く取り扱った。彼はヒロインたるサロメの心理を描写する事に最も努めた。ワイルドの書いたサロメは決して二千年も前の空漠たる古の世界の女ではない。鋭い感情を持った、狂激な、しかも美と詩と恋とに生きる女である」。
「『サロメ』は決して旋律に富んだ楽劇ではない。けれども其の音楽には極めて美しく、且つ意味深い感じを有して居る」。

『エレクトラ』(1908)は「『サロメ』程の評判を得ずに終った」。ところが「其の次の『薔薇の騎士』(1910)に至って、其の作風は一変した」。「前の二つの楽劇と比べては絶対的に相違して居ると云ってもよい」。これは「ワグナーの『マイスタージンガー』が新しい歌劇であるのと同様の意味で、新しい歌劇である」。

「『サロメ』や『エレクトラ』では、総ての人が真剣に動いて、全体が緊張し切って居る。ところが、『薔薇の騎士』を見て得る感じは、モリエールの喜劇に見る様な、どこか間の延びた可笑味(おかしみ)である。笑うも、憤るも、人は、皆現代を遠くに見た空気の中に動いて居る」。
「音楽から云っても、此の歌劇の中心と成って居るのは、美しい旋律に富んだ長閑(のどか)なワルツである。『薔薇の騎士』はシュトラウスの歌劇中最も成功した。事実ワグナー以後独逸(ドイツ)で作られた中での、最も傑出したものの一つである」。

『ナキソスのアリアドネ』(1913)は「歌劇と演劇を結合しようとした極めて野心の多い試みであったが、余り好評を得ずして終ってしまった。此れはシュトラウスの最も新しい歌劇である」。
以下、先に引用したアーネスト・ニューマンの批評の紹介と、シュトラウスの今後への期待が述べられます。
「自分は更に此の作家が多くの考究の後、ニューマンの云う『心の平衡』を得て、其の驚くべき楽想を発露し、以て偉大な芸術品のいくつかを創造する事を、世界の音楽のために、希望してやまないものである」。


1915年の日本人が書いたリヒャルト・シュトラウス。
『ナクソス島のアリアドネ』も力の脱けた名品だと思いますが、彼はその後、『影のない女』(1917)、『インテルメッツォ』(1923)、『アラベラ』(1932)、『無口な女』(1935)、『ダフネ』(1937)、『カプリッチョ』(1941)など、その度に新しい試みを加えた歌劇を生みだしていくことになります。ことに美しいのは弦楽六重奏で始まる『カプリッチョ』でしょうか。

歌劇に限らず、歌曲に付された管弦楽も美しさの限りです。『最後の四つの歌』(1948)。なにか「交響詩」を書いていた頃とは別人の如くです。『朝』『憩え、わが魂』『小川』『子守唄』『献呈』『東方の三博士』なども同様。不要な身振りが一切なく、こけおどしも過度の饒舌もありません。
器楽の作品にも晩年には忘れがたい名作があります。『二重小協奏曲』(1947)と『オーボエ協奏曲』(1945/1948改訂)。これらはいずれも1949年に世を去るシュトラウスの辞世の音楽。

次はグラズノフ、シベリウス。それではまた次回更新時に。

 

2011年11月 4日 (金)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その25

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(17)


デビュシイ(ドビュッシー)。1863‐1918(この本―1915年初版―が書かれたときには存命)。
「彼の出現は実に音楽の歴史に特筆すべきものである。彼は従前の音楽の有して居なかった新しい境地を其の天分に依って創造し、音楽の世界に新しい一つの土地を築いたのである」。
「美術に印象派、未来派等の生じた様に、音楽に於いても同名の流派が現われた」。「音楽でも未来派の微力なのに対して、印象派は偉大な勢力を持ち始め、仏蘭西(フランス)音楽と云えば、今日では印象派の音楽の事を指さすと思われる程に成って居る。此の革命的の新楽派を樹立したのが、クロード・デビュシイである」。

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彼の音楽は、自由な、形式に拘泥しない、詩的な、清新な、夢の様な、気分的な、センチメンタルに走らずして繊細な音楽である」。
「デビュシイは其の気分の表現上或る特種のハーモニイを採った。自然諧調(ナチュラルハーモニイ)が即ち此れである。彼は此れに依って、幾多の新しく珍しい霊妙な音を得た。そして其等の音の殆んど全部は彼以前の音楽に聴かれなかったものである。人は新しい音楽殊(こと)にそれが前人の用いなかった音を用いて居ると聞けば、或る奇怪な音の連鎖を創造するかも知れない」。


「けれども事実は全く此れに反して彼の作りだす音は、何(いず)れも一種心地よい且つ晴朗な感じのする、曲の気分に適合したものである。彼の独特の和絃は、丁度協和音と不協和音の境界を進んで行く。そして作家自身は此れを其の何れともして用いて居る」。
「彼の音楽は実に不思議な美を持つ。そして限りなきが如くに湧いて来る」。「自分は彼の音楽を聴く時、果てしなく湧き上がる深山の雲を連想せずには居られない。常に同じ様で、しかも常に変化し、常に新たである。其の雲の様な音楽は聴く人をつつんで快く軽い驚きを感ぜしめ、若しくは魔睡に陥らしめる。そして此の雲の中には神秘の香いが漂う」。


「デビュシイは」「其の音楽上、従来の音楽特に彼以前の繊細で感傷的且つ因襲的な仏蘭西音楽というものからは、何等の利益をも受けて居ない。彼の作曲上影響を受けたのは、此等先人の音楽ではなくて、寧(むし)ろボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ等の詩や、マネー、セザンヌなどの絵であった」。


作品の紹介に先立つ作曲家の概説部分に、熱がこもっています。これが日本で初めてドビュッシーが紹介された文章です。日本ではドイツ音楽中心のアカデミズムが当然のことながら一般ファンをも覆っていて、異端とされていた「フランス印象派」の「クロード・アシル・デビュシイ」。

1915年12月18日(本書発行は同年5月7日)、大田黒元雄は意気投合していた野村光一、堀内敬三らとともに、東京・大森の大田黒邸でサロン・コンサートを開きます。「デビュシイの夕 第一回」の当夜のプログラムでは、堀内敬三のピアノでグリーグ「春に寄す」、フォーレ「ゆりかご」(歌曲)、ドビュッシー「ロマンス」(歌曲)、野村光一のピアノでドビュッシー「小さな羊飼い」、イリンスキー「子守唄」が演奏され、大田黒元雄は以下の曲目をピアノで弾いています。シンディング「春の囁き」、スクリアビン「前奏曲」Op.11-15 レント/ Op.11-16 ミステリオーゾ、シベリウス「ワルツ」、ドビュッシー「ワルツ」、「マズルカ」「牧神の午後への前奏曲(ピアノ・ソロ版)」、「『版画』より「雨の庭」、「亜麻色の髪の乙女」、「沈める寺」。

その後書物としては、訳書のドビユツシイ『ムッシュ・クロッシュ・アンティディレッタント ドビユツシイ音楽評論集』(第一書房、1931年)と、著書の『ドビュツシイ』(第一書房、1933年)を出版しています。


閑話休題。
『バッハよりシェーンベルヒ』のデビュシイの記述に戻ります。
作品の紹介文中、「牧神」でニジンスキーが同時代のダンサーとして出てきている(山田耕筰は、彼のダンスを見ています)のは当然のこととして、なによりも驚いたのは、歌劇『ペレアスとメリザンド』についての文です。まだこの曲のレコードのかけらもない時代に舞台に接し、その「一回性」の中で彼は完璧にその言葉も音楽も味わっていた!

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「デビュシイは、此歌劇を全く其独創の方法に依って作った。全曲は一種のデクラメーションとも云うべき、宣叙体を以て、極めて自由に役割の人々に歌われる。管弦楽の方は繊細で、しかも極く簡単に書かれて居る。彼は此の場合管弦楽を交響楽詩としての束縛をせずに、唯最も意味深い背景として用い、歌手の自由を助ける事につとめた。デビュシイ自身は、此作に音楽的感情と劇中人物の感情の二つを調和させようとしたと云って居る」。


「『ペレアスとメリザンド』の音楽は到るところ美しい。然し特に数個の例を挙げれば、先ず第二幕の古い泉の傍に二人の恋人の語るところ、城の窓の所に夜遅く此の二人の逢うところ、最後の園中のあいびきなどが此れである。更に云えば、序幕の終りに、ペレアスとメリザンドとジェネヴィエヴの三人が、港を出る船を眺めながら嵐の近づいて来るのを予知して語り合う間に、水夫達の不思議な合唱の聞こえて来るあたり、メリザンドの臨終の音楽など、何(いず)れも驚くべき深さと美しさとを持った印象の強いものである。ローレンス・ギルマンは、此れをワグナー以後の最大の楽劇と云った」。

次はリヒャルト・シュトラウスです。それではまた、次回更新時に。

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