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2011年7月

2011年7月26日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その15

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(8)


ベートーヴェン以後をまとめておきます。大正4年の初版当時、日本の西洋音楽を牽引していたのは東京音楽学校であり、そこではドイツ音楽至上の価値観が支配していました。この書物を執筆したのは、大田黒がロンドン留学直後のことで、本の後半にドイツ音楽以外の音楽―ロシア音楽やフランス音楽、そしてスクリアビンやストラヴィンスキー、シェーンベルクらの現代音楽―をこころゆくまで書いています。


「それらの知識をまず持って帰ったのが大田黒でしょう。こういった音楽は当時の音楽学校ではまったくかえりみられなかったものなんだ、むしろ異端でさえあったわけですね。それで彼は『バッハよりシェーンベルヒ』という本を書いたりして、一生懸命広めようとしたんだな。これが日本の音楽畑に新しい運動を作る基礎をなしたということは絶対に否定できない」。(野村光一 『日本洋楽外史』ラジオ技術社刊)

「それまでの東京音楽学校がドイツ系だったというのはどの程度だったのですか」。(三善清達 同上)
「極端なドイツ系だよ。それは大変なものだった」。(中島健蔵 同上)
「そう。そしてそれを破ろうという気運が、戦争の影響もあって起こってきたのも事実です。(略)これら(フランス印象派、ロシア五人組、スクリアビン、ストラヴィンスキーらのアンティ・ドイツ派の音楽―引用者注)は上野(東京音楽学校のこと)のドイツ派にこり固まった連中には全然受けつけられなかったけれども、上野を出た若い人たちの新しい何ものかを求めようという気運が、小倉さん(小倉末子―引用者注)のドビュッシーとなり、山田耕筰先生の活躍につながるんでしょうね」。(野村光一 同上)


さらに戦争(第一次大戦)の影響もあったようです。
「そんな風で大体の素地が出来ていた頃に、戦争が始まって英米仏が勝っちゃった。となれば、フランスにとっついてしまうのは、これは当たり前なんだよ」。「フランスに親しみを覚えた若い音楽家で、例えばピアノの野辺地瓜丸や宅孝二、もう少し後で声楽の大田黒養二、作曲で池内友次郎などがパリへ行って、コンセルヴァトアールやエコール・ノルマルで勉強したんですよ」。(野村光一 同上)

「池内友次郎より前に井口基成がフランスへ留学するわけですね。それまでの音楽学校の系統だったら考えられないことなんだけど、そのきっかけは何だったんでしょうかね?」。(中島健蔵 同上)
「音楽学校では高折宮次先生のお弟子なんですがね、この先生がガリガリのドイツ派で、ベートーヴェン弾きで有名だったんですよ。ドイツへ留学してベルリンのホッホシューレでクロイツァーに学んだ人ですけど、その高折さんが『オレのいちばん素晴らしい弟子は井口だ。ズバ抜けた才能を持っている』というんですよ。その井口が学校を卒業して、どうしてもフランスへ行きたいといい出した。(略)上野派で謀叛を初めて起こしたのは井口基成だな」。
(野村光一 同上)


という具合に『バッハよりシェーンベルク』に蒔かれた種は若い作曲家や演奏家たちを芽吹かせ花も咲かせ、日本の「現代音楽」や西洋音楽の「演奏」を、さらに豊かにしていく力になったのです。以下、ベートーヴェン以後の作曲家たちの短い抜粋を続けます。


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ウェーベル(ウェーバー)。ベートーヴェンの後、「歌劇の方にも一人の天才が出て、其の憂国の観念から極めて国民的の作を出して、独逸音楽界のために気を吐いた。此の天才というのはウェーベルである」。
チェルニー。「レシェティツキイがリストに会った時、既に年老いた此の大家が猶(なお)驚くべき技巧を保って居たのに驚いて、其の理由を尋ねたところが、リストは毎日半時間以上づつチェルニーを弾いて居る為めだと答えたという話がある」。
シューベルト。「しかも其の一生はモツァルトの如く不遇なもので、彼自身『自分の音楽は自分の天才と貧困の産物である。そして自分の最も苦痛の状態にある時の作物を、世人は最も好むらしい」と語ったくらいである」。


マイエルベーヤ。「一般の世人の音楽に対する嗜好は年々に変って行く。若し現今の気運の儘(まま)で益々進んで行ったら、マイエルベーヤの歌劇などを上演する歌劇場は無く成ってしまうかも知れない。しかも彼の名は音楽上価値を持つ有名な戴冠式行進曲に依って、いつ迄も残るであろう」。
ロシニ(ロッシーニ)。「彼の音楽は何れも華麗で明快であった。しかもドニゼッティやベリニのものと違って遥かに熱と力とに優って居る。彼は事実天才であった。けれども当時の風習として彼も亦(また)余りにも濫作した」。「彼は当時の衆愚に適する様な作品をも出したので、技巧上異常な天才を持って居たが、其の作品の多くは今日重要な価値を有して居ない」。


ドニゼッティ。「ドニゼッティの歌劇は目下殆(ほと)んど興行はされないが、其等(それら)の中の美しい歌調は、多くの声楽家等に歌われて、人々に親しい物と成って居る」。
ベリニ(ベッリーニ)。「今日の様な新音楽の喜ばれる世界で、最も顧みられないものはロシニ、ベリニ、ドニゼッティ等の古い伊太利歌劇である」。「ワグナーの革新は此等(これら)の伊太利歌劇の流行の致命傷と成った。しかも彼がベリニの『ノルマ』を賞賛して居たという事は興味ある事と思われる」。


今回はここまでにします。当時の「古いイタリア歌劇」の有り様がよく分かります。当時の世界的風潮だったこと。歌劇場は興行的に成功する作品を優先しますし、すでにSレコードPはありましたが、12インチ片面盤の収録時間は4分半が限度です。アリア一曲でも入れば御の字で、ましてやオペラ全曲など夢のまた夢。
20世紀中盤になり、収録時間が飛躍的に増え、オペラ全曲がLPで出せる時代になりました。ソプラノ歌手 マリア・カラスの天才がベッリーニを『ノルマ』で甦らせました。彼女はまた、『ルチア』でドニゼッティを甦らせました。ロッシーニの『ランスへの旅』を甦らせたのは、指揮者 クラウディオ・アッバードでした。

続きはまた次回更新のときに。

2011年7月19日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その14

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(7)


「Durch Leiden Freude. (苦悩を突き抜けて歓喜へ!)」。

ベートーヴェン自身が書き残したなかに「不死の心をもっている我々人間は、唯苦悩と歓喜を経験するために生を授かった。そしてその中の誰かが、最も優れた者が苦悩をつきのけて歓喜を感受すると言えるようである」という言葉があり、ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』は、苦悩と戦って勝利を収めた英雄としての讃歌であり、この言葉「Durch Leiden Freude. (苦悩を突き抜けて歓喜へ!)」で締めくくられます。


ひとつのテーマに文章全体は強固に統一されていて、圧倒的な説得力を生み出しています。この小さな本『ベートーヴェンの生涯』を、ロマン・ロラン(1866-1944)は1903年に出しました。その後も彼はベートーヴェンについての評伝を書きつづけ、主著の一つになっています。当時の日本は明治36年。ロランと日本人の交流は、1918年(大正7年)、成瀬正一が、日本人として初めて、ロランを訪れたといわれ、1925年(大正14年)、高村光太郎、倉田百三、尾崎喜八、片山敏彦、高田博厚らが『ロマン・ロラン友の会』を作り、文通をした、ということです。手許にある岩波文庫は片山敏彦訳で、1938年(昭和13年)初版です。


大田黒元雄の『バッハよりシェーンベルヒ』([1915年、大正4年初版)のベートーヴェンの項に「ロマン・ロラン」が出てくることに軽い驚きを覚えたのは、彼は日本人の中では最初期のロマン・ロランの読者であり、その名前の紹介者だったからです。日本での「楽聖・ベートーヴェン」が最初の高まりを見せたのは、ベートーヴェン歿後100年の1927年(昭和2年。芥川龍之介が自殺した年でもあります)で、その頃には日本人の西洋音楽の演奏も段々とレパートリーが広がり、結成されて2年目の新交響楽団は「没後100年」を記念した交響曲の「ベートーヴェン連続演奏会」をやり遂げています。


日本での明治期のベートーヴェン演奏に力を尽くしたのは、まず1899年(明治32年)に東京音楽大学に赴任したアウグスト・ユンケル。そして後任として1913年(大正2年)に来日したグスタフ・クローンであった、と西原稔氏はその著『「楽聖」ベートーヴェンの誕生  近代国家が求めた音楽』(平凡社刊)で書かれています。この本の巻末には「表 明治・大正時代の東京音楽学校でのベートーヴェン演奏」があり、興味は尽きません。

明治29年(1896年)4月18日、遠山甲子が「ムーンライトソナタ」。同年11月8日、幸田幸と内田菊が「ヴァイオリンソナタ第5番」。それまでに2回連弾で参加していた滝廉太郎が、ピアノ独奏で「ロンドー」を弾いたのは明治31年6月11日。明治32年11月25,26日の「第3回定期演奏会」は豪華なものでした。研究生になった滝廉太郎が「ピアノソナタ」(残念ながらどのソナタかは分かりません)を弾き、「ヴァイオリンソナタ」(これも同じく)をアウグスト・ユンケルとフォン・コイベルが演奏しているのです!

フォン・コイベルとは、ラファエル・フォン・ケーベルのことです。ウムラウトの読み方の日本語表記では「ギョエテとは 俺のことかと ゲーテ言い」という川柳があったように Koeberは難しい。しかし、夏目漱石の耳には「ケーベル」と聞こえていて、彼の随筆『ケーベル先生』が、僕が初めてその人のことを読んだ文章でした。

ケーベル(1848-1922)は1893年(明治26年)6月に来日、1914年(大正3年)まで21年間東京大学に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学に加え美学・美術史も教えました。音楽家でもあり、モスクワ音楽院でチャイコフスキーに師事(!)。東京音楽学校でもピアノを教えていました。
ケーベルは、その後もしばしば出演しています。ピアノ独奏で「ムーンライトソナタ」を弾いたのは明治35年(1902年)5月6日のこと。

ちなみに前に書いた悲劇のピアニスト、久野久がこの表に出てくる初回は大正5年(1916年)12月3日「久野久子女史回復祝賀演奏会」で「アパショナータ」を弾いています。大正6年6月9日には「嬰ハ短調奏鳴楽 作品27-2」(月光)、大正7年12月8日には「悲愴」「月光」「ニ短調」「極光」「熱情」。「極光」というのは「ヴァルトシュタイン」の別名「オーロラ」を日本語でいった曲名です。そして大正12年[1923年)2月24日「久野教授告別演奏会」。「告別」「ハンマークラヴィーア」「作品110」「作品111」。そしてウィーン留学。ザウアー教授に「基礎からやりなおすように」と指導を受けたことに絶望し、1925年4月20日にホテルの屋上から投身自殺を遂げました。


閑話休題。大田黒元雄『バッハよりシェーンベルヒ』初版の時代に戻りましょう。
その時代、まだ訳書のない時代に、どんどん原書、あるいは英訳書を読破していき、日本の読者に紹介していった大田黒元雄のロマン・ロランの本は少なくとも3冊あります。『近世音楽の黎明』。『今日の音楽家』。『過ぎし日の音楽家』。少し後の時代にロマン・ロランを賛美する高村光太郎、倉田百三、尾崎喜八、片山敏彦、高田博厚らも、これらの本をむさぼるように読んだにちがいありません。もちろん『バッハヨリシェーンベルヒ』の「ベートーヴェンの項も。


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こんな文章で結ばれます。
「彼の音楽は古来の世界が有する、もっとも貴重な芸術品である。批評家ハッドンは此の楽人を評して、音楽界のカーライルという。ワグナーは嘗て彼の事を『最も勇敢に、且つ極端な独立を以て世界に面した人』と云った。
ベートーヴェンは心を以て其の偉業を樹立した。
再び云う。彼の音楽は彼の高潔な性格の反映である。
彼は耳に依らずして、心で音楽を聴いた。
そして彼の偉大な心の動きは音楽を極めて豊富なものとなした。彼の音楽は現今に至るまで音楽中の音楽として研究され、且つ彼の革新は近代音楽に対する大なる衝動であったと信じられて居る。彼は実に楽聖であった。
自分は彼を楽聖と呼ぶと同時にまた新らしい英雄の第一人として数えるものである」。


2011年7月12日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その13

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(6)


ベートーヴェンは本書の初版当時(大正4年、1915)には、大田黒元雄がこの項の結びの部分で書いたように「彼は実に楽聖であった」、という認識が一般的なものになっていました。
明治政府が現・東京芸術大学音楽学部の前身「音楽取調掛」をつくったときに、伊澤修二がアメリカから呼んだのはルーサー・ホワイティング・メーソンであり、彼らは学校教育で使う「唱歌」づくりが主な仕事でした。メーソンは1882年に日本を離れますが、1879年からプロイセン人、フランツ・エッケルトがやってきます。

ドイツの音楽史家、音楽美学者たちが「ドイツ中心音楽史観」を打ち出してきたのが、19世紀後半から20世紀前半にかけてのことで、これはいうまでもなくドイツ第三帝国「ナチス」によって最高潮に達しました。自民族中心主義の自己陶酔が、歴史を改ざんしてしまった例の一つです。

ところが、まずいことに西洋音楽について、まだまだ智識がなかった日本人は旧・東京音楽学校(現・芸大)の先生たちの説をそのまま受け入れるほかなかったのです。ドイツ音楽偏重は、いまもなお残っているようです。作曲家の「3B」とは「ドイツ」の作曲家の3Bであって、ドイツ中心主義で行けば「音楽の父」はバッハ」で、ベートーヴェンは「楽聖」であり、ブラームスは「ベートーヴェンの第十交響曲を書いた」。だからして諸君はこの3人の作曲家のみを尊しとなせ(笑)というような。ベートーヴェンの作品が教材として重要視され始め、演奏会のレパートリーとして定着したのもこの時代です。作曲家の設置は1931年に、ようやく実現しました。

(ただし、僕は決して3Bを軽んじてこういうことを書いているわけじゃありません。むしろ彼ら3人の音楽があったからシェーンベルクはいた、と思います。尊敬の念は尽きません。ただ彼らの音楽ばかりじゃなくて、大好きなイタリア・オペラやフランス音楽、ロシア音楽などを「劣る」とは思えないのです)。


じっさい日本の戦前の文献を見ても、最初にはにはベートーヴェンは「むーんらいと・そなた」の作曲者でしたが、明治後半から大正にかけて「楽聖」と呼ばれるようになってきました。大田黒元雄は本書には、当時の「東京音楽学校」では無視されていたロシア、フランスの近代・現代の作曲家を採りあげて、最終章の「シェーンベルヒ」へなだれ込んでいくのですが、「バッハ」から「ベートーヴェン」に至る道のりは、当時の一般に「音楽史的常識」に即して書いています。彼はパウル・ベッカーの『ベエトオヴェン』を訳していますし。


(ちなみに彼が後に訳した本の著者は、セシル・グレイ、ロマン・ロラン、ジョージ・ダイスン、コンスタント・ランバアト。ドビュッシーとストラヴィンスキーとワインガルトナーの本を訳し、『バッハ』はアンドレ・ピロ、『ハイドン』はミシェル・ブルネ、『モオツァルト』はシュウリッヒ、『ショパン』はマアドックを訳しています。その他にも、自分で書いた評伝『ドビュッシー』に『ワアグナア』。その他、エッセイ多数です)。


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引用します。

『洋楽に趣味を有する人でベートーヴェンの名を知らぬ者は恐らく無いであろう。彼は決してモツァルトの如き驚異の天才では無いが、其の努力の結果は古今の音楽を通じての傑作たる交響楽其他の作品と成って現われ、彼を古来の最大音楽家の一人として万人に認識させる様に成った。

勿論彼は異常な天才であったのには相違ないけれども、彼の成功は一面其の強烈な意志の力の働きに依って得られたものである。此の点から見ればベートーヴェンは単に音楽界の偉人のみならず、世界の人間の歴史上にあらわれた大英雄である。彼は総べての障害と戦って、強大な意志の力に依って遂に光明を得た。彼はあらゆる苦痛と戦って、遂に之れに打ち克ち以て、其の仕事を為し遂げた。

彼は実にロマン・ローランが云った様に心に依って偉大に成った人である。新らしい英雄である」。

はい。ロマン・ローラン(1866-1944)の名前が出てきました。彼が1903年に上梓した『ベートーヴェンの生涯』(Vie de Beethoven)ほど、日本人の「ベートーヴェン観」に決定的な影響を及ぼした本はないでしょう。
そのこととか、この項続きます。また次回更新のときに。

2011年7月 5日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その12

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(5)

 
グルックに続いてはハイドン。
「ハイドンの名は其の聖楽『創造』(現在は『天地創造』と呼ばれています―引用者注)によって高い」。
しかしながら、大正初頭の日本の聴衆はこの曲の全貌を知ることはできなかったし、頼みのSPレコードもありませんでした。しかしながら、次の指摘は的確です。

「其の得意としたのは、器楽にあった。彼は実に今日の交響楽(シンフヲニイ、とルビ)、ソナタ、弦楽四部曲(ストリングクヲーテット。とルビ)等の器楽形式の父とも云はれる。彼の此の方面に於ける熟練と天分とは、風琴(オルガン―引用者注)に於けるバッハに比すべきものであった」。


ハイドンの逸話も紹介されています。『天地創造』に関したもの。
「彼は(略)倫敦(ロンドン)でヘンデルの聖楽を聴く機会を得たが、特にウェストミンスター・アベイで『ハレルヤコーラス』を聞いた時には感極まって、子供の如くに涙を流し「ヘンデルは最大の楽人だ」と云った。此等より得た感銘に依って、遂に『創造』の製作に従ひ、遂に此れを完成した時、彼は『此の曲を作って居た間程自分が神を敬った事はない。毎日自分は神に新らしい力の附与を祈った』と云った相である。

その後『四季』を作ってから心身衰えた彼は千八百八年『創造』の演奏のあった際病躯を押して場に臨んだ。老作家の臨場に依って人々は皆懸命に此の演奏につとめ『其処に光ぞあらはれける』といふ一節に至ったが、この時ハイドンは感激のあまり天を指して『彼方より』と叫んだ。そして興奮の結果、演奏の終結前に人事不省と成って場外に運び去られた」。


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つぎは「モツァルト」。書き出しはこうです。
「ロシニ(ロッシーニ―引用者注)は嘗てモツァルトの事を語った際、モツァルトは最大の(グレーテスト、とルビ)音楽家ではない。彼は実に世界で唯一の音楽家である』と云った」。

以下、現代の音楽ファンも持っている、モーツアルトについての共通したイメージが描かれます。
「モツァルトは実際音楽の化身かと思はれる。太陽から光が流れ出る様に、彼の頭脳からは旋律が流れ出した。古来の音楽史上、彼の如き天才は求め難い。真の天才といふのは全く彼の様な人を云ふのであらう。

しかも彼は人間として、物質的には極めて貧しい生活を送り、且つ其の運命も亦悲惨であった。彼の臨終の場程悲愴な且つ悼ましい感じを有するものは、音楽史の記録に例が無いとさへ云はれる。
この様な不遇な且つ短かい生涯を送ったのにも関はらず、モツァルトの音楽は極めて温和な繊麗な美に富んで居る。彼の音楽は実際アーサー・シモンズが云った様に欲望を持たないで、唯美に満足し、且其れ自身であらうとしたものである。純粋な平和な光輝ある美がモツァルトの音楽の總べてであったと云ってもよい」。


小林秀雄が『モーツアルト』で「疾走する悲しみ」を書いたのは昭和21年(1946)、『創元』12月号でした。それまでは、大なり小なり大田黒が書いたような「モーツァルト像」が一般的でした。小林にしてもスタンダールのモツァルトは読んでいたにちがいありませんが(スタンダールはモーツァルトの死の直後、誰よりもはやく彼の永遠の名声を予言しました)、日本人の日本語によるモーツアルトを論じた本として記念碑的な作品でした。


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そして「ケルビニ」。ケルビーニについての書き出しはこうです。
「千八百年頃即ち十九世紀の初期に、音楽は益々発達をして居たのにもかかはらず、宗教楽といふものは著るしい衰えを来した。此の時にケルビニが生れて、此の頽勢を喰ひとめた」。

逸話がいいです。
「個人としてのケルビニは最も硬骨で己の芸術に対する自信が極めて深く、嘗てナポレオンが其の曲を非難したのに対して、烈しい返答を与えて平然として居たといふ逸話がある」。

そして、いよいよベートーヴェン。それはまた、次回更新のときに。

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