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2011年6月

2011年6月28日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その11

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(4)


「バッハ」以降の諸作曲家は、ヘンデル、グルック、ハイドン、モツァルト、ケルビニ、と続いて、ベートーヴェンへ到ります。ベートーヴェンの大田黒元雄の記述について詳しく書いておきたいので、ヘンデルからケルビニまでの5人の紹介文については簡単にまとめておきます。

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ヘンデル。冒頭の文章から、当時(大正4年初版の本ですの)日本の音楽ファン(それはまだ、とても数少ない!)がヘンデルの「何」を知っていたのかを伺わせます。
「其の『ラルゴ』に依って最も我が国に親しみを有するヘンデルは、バッハと相並んで現在の音楽の親とも云はれる」。

バッハを「音楽の父」。ヘンデルを「音楽の母」。1704年、ハンブルクで歌劇『アルミラ』が成功して、ハンブルク滞在中に親しかった友人マテソンと決闘。一命を取りとめて3年後、イタリアへ渡り3年の長きにわたって「其の地の歌劇を研究した」。その結果「此の伊太利旅行は彼の音楽の雄壮な且つ大膽(だいたん…引用者注)なところに、旋律の美しさにすぐれた伊太利風の影響を加えた點(てん)に於て、極めて効果の多い、有意義なものであった」。

イタリアで3年間も勉強も実作もして研鑽を積んだことは、そのように押さえられています。
その後、ヘンデルはハノーヴァーの楽長になります。休暇中に「倫敦」(ロンドン)へ行き、ヘンリー・パーセル歿後15年にあたる頃のイギリスには大曲をつくる作曲家はおらず、ヘンデルは歌劇を作ることを求められます。2週間ほどで『リナルド』を完成。英国で大成功。国王ジョージのテムズ川遊びのために『水上の音楽』を作曲。


という具合に手際よくまとめられています。結びは「ヘンデルはバッハと違って劇音楽者であった。そして彼の野心は始め歌劇に集っていた。彼の音楽は偉大な荘厳な、鮮明な趣に富んでいた」。「彼の聖楽は始め劇的で、バッハの如くに礼拝的(リタータジカル とルビ。liturgical)のものではなかったが、彼の有する音楽の性質はよく聖楽に適し、而かも歌劇に於けるものとは違って、卓越した歌詞(リブレット、とルビ)を求める事が出来た」。

結びはこうです。
「要するに彼は音楽の親である。聖楽が世界に存する間、『メシアー』(現在の読み方は『メサイア』)が唄はれる間、『ラルゴ』が奏せられる間、ヘンデルの名は人々の脳裏から消える事はあるまい」。

「メサイア」全曲の日本における演奏ですが、「初演は不明」とされていますが、記録に残っているものとしては、1951年(昭和26年)12月に朝日新聞社主催による「芸大メサイア」が日比谷公会堂で開かれています。なんとまあ。大田黒元雄、野村光一に加えて、あらえびすの諸氏にとっては、待ちかねた『メサイア』の実演だったにちがいありません。

また、SPでは1927年(昭和2年)録音のビーチャム盤が最初に出た『メサイア』だったので、当然『バッハよりシェーンベルヒ』の時代には、日本人は『メシアー』についてはその「噂」を聞くだけだったのです。
『ラルゴ』は歌劇『セルセ』のなかの有名な『オンブラ・マイ・フ』のことです。歌曲として、かの時代から歌い継がれてきて、現代のソプラノ歌手も舞台にとりあげています。

グルックについて、大田黒元雄はやはり冒頭の2、3行で簡潔に描写しています。
「グルックは歌劇の改革者として知られる。彼は真の芸術的歌劇の創造者である。彼の改革は彼の歌劇といふものに対する芸術的主張の実現である。彼は歌劇といふものに劇的の力と真実とを与へた。そして従来の歌劇といふものの有してゐなかった最高の力と美と且つ詩趣とを持った歌劇と云ふものを創造して、多くの後進に多大な衝動を与へた」。

簡単に済ますはずが、簡単には済みませんでした。この調子では「シェーンベルヒ」に辿りつくのはいつの日になるやら。次回はスピード・アップします。

2011年6月22日 (水)

横井和子先生のこと 2

横井和子先生の「デビューCD」についての新聞記事が、「毎日新聞」でもカラー写真つきで掲載されました。芦屋在住ということで、紙の新聞は「大阪版」だけかも知れませんが、WEBの上では全国に配信されています。

http://mainichi.jp/kansai/news/20110614ddf041200025000c.html

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ジャケットはこういうもので、もう発売されています。

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僕が横井和子先生が好きなのは、戦前から戦後にかけての教育者/演奏家として活躍されてきた時代に、西洋古典音楽の紹介、普及に努めてこられたと同時に、同時代を生きる日本の作曲家の作品を積極的に演奏されてきたことがあります。松下眞一の作品のひとつは彼女が初演しました。

ピアノが弾ける、という力を横井和子先生は、同世代の、同時代の日本の作曲家たちにも惜しみなく捧げられて、演奏家はなにをすべきか、という問いへの鮮やかな回答の足跡をこのCDにも刻まれています。
いずれも「手書きの楽譜」だったと語られました。高田三郎「前奏曲」より『風に踊る陽の光』は作曲家の夫人、高田留奈子さんによって初演されましたが、いまも先生の愛奏曲になっています。また奥村一『ピアノのためのカプリツィオ』が採りあげられています。

横井先生に薫陶を受けたピアニスト、秦はるひさんと僕は芦屋市立山手中学校の同窓生でした。サロンを開いてから秦さんにもしばしば演奏会をしていただいていますが、彼女もまた、日本の同時代を生きる作曲家を大切にし、初演ピアニストとしての活動を続けています。


90歳を迎えられて微笑まれる横井和子さんの「デビューCD」はガルッピで始まる。「音楽はイタリアなのよ。ドイツじゃないのよ」。そしてシューマン「アラベスク」とベートーヴェン「月光」を経て、高田三郎と奥村一が弾かれます。そしてスメタナの2曲。「スメタナもいいピアノ曲あるんですよ。われわれ日本人の、なんか演歌みたいな節がある」。これらの曲、彼女のほかには誰も弾きません。ラスト3曲は誰でも知ってるシューマン「トロイメライ」。みんなが好きなショパンの「ワルツ」と「ノクターン」です。


秦はるひさんは、このCDが録音された2010年3月17日、カザルスホールで先生の演奏を聴かれました。ただちに「すばらしかった!」と連絡がありました。僕はサロンのイベントが重なって行けなくて、歯噛みをする思いでした。先生は寡黙な音楽家でした。しかし、かつて松下眞一が活躍した「大阪の秋」の常連メンバーだった時代のご活躍ぶりなどは、いま「現代音楽」に係わる人たちには忘れてほしくないことです。


先生は「録音や、レコードに残すなんてことは興味がなかったの」と、僕には言われました。しかし、私家盤だけではなくて、こうして広くお店で売られるCDができてよかった、と心から思います。なぜなら先生の演奏は、僕があらゆる言葉を尽くして皆さんに説明しても到底追いつけないものだからです。


「レコード芸術」2011年5月号(音楽之友社)に、このCDの批評が掲載されています。おそらくは世人がどう言おうが「聴く人の心こころに任せおきて」という心境でいられることでしょう。「わたしは音楽をこう弾きました。あとはあなたたちの問題です」と。先生の厳しさって、凄いよ。


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2011年6月14日 (火)

大井浩明・ピアノリサイタル2011 in 芦屋(全3回)

1986年11月に芦屋に山村サロンを開館させ、いろいろなことができる空間の中で、僕がいちばんやりたかったのは現代音楽のコンサートでした。高橋悠治さんと三宅榛名さんをお呼びしたのが、サロンでのまず最初の現代音楽。そのうちにそんな場所がある、と噂が広がり、特に宣伝しなくても「匂い」を嗅ぎつけるファンが集まるようになりました。

大井浩明さんは、あのころはまだ学生でした。三宅榛名さんのコンサートが夜にある日の昼下がり、のそりとサロンに現れたのでした。交流はその日に始まります。あれから僕は震災に遭い、彼はスイスのベルンに赴きました。そして再会後の彼のサロンでの活躍ぶりは「山村サロン 会報」に折々に記してある通りです。
http://www.y-salon.com/review.htm

ずいぶん端折って書いてるのは、過去のことを振り返るのではなく、もうじきサロンで繰り広げられる『大井浩明・ピアノリサイタル2011 in 芦屋(全3回)』についてお知らせしたいからです。幸い今日6.14付夕刊で「朝日新聞」が紹介記事を掲載して下さっています。

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【第1回公演】
2011年6月18日(土)18時開演/17時30分開場  (※)森本英希(フルート助演)
●P.ブーレーズ(1925- ):《ソナチネ》(1946)(※)、《第1ソナタ》(1946)、《第2ソナタ》(1948)、《第3ソナタ》(1956~57)
●田村文生(1968- ):《きんこんかん Ding Dong Ding》 (2011、委嘱初演)
●山路敦司(1968- ):《通俗歌曲と舞曲 第一集より From "Popular Songs and Dances Vol.1"》(2011、委嘱初演)
●夏田昌和(1968- ):ガムラフォニーII (2009)
●望月京(1969- ):メビウス・リング(2003)


山村サロン
〒659-0093 芦屋市船戸町4-1-301 (ラポルテ本館3F)
[JR芦屋駅下車、改札を右折、直進して陸橋を渡り、その方向のままラポルテ本館に入り、エスカレーターを1階ぶんのぼった正面。所要時間2~3分]

チケット:全自由席 前売り¥2500 当日¥3000
3回通しパスポート ¥7000
予約/問い合わせ●山村サロン
TEL 0797-38-2585 FAX 0797-38-5252
アドレスは、yamamura@y-salon.com

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大井浩明さんのブログを覗かれると、さらに興味津々の内容に溢れていますから、是非。
http://ooipiano.exblog.jp/


2011年6月 5日 (日)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その10

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(3)


本文を読んでいきましょう。巻頭にはバッハ。ここには20世紀初頭の当時になお支配的だった、ドイツ中心の音楽美学、バッハが「音楽の父」である、とされています。現代のわれわれは「そんなことないよ。シュッツもモンテヴェルディもいるじゃん!」と突っ込みを入れることができますが、それも20世紀後半以来の音盤(LPステレオ)期の収録曲のレパートリーの拡大と、古楽や古楽器演奏に関しての研究と実践の飛躍的な成果があってこそです。生き生きとした演奏で「古楽」を楽しめる。記譜法がバッハの時代にようやく定まったのは確かですが、それならばいわば「記譜法の父」にすぎなくて、彼の前にも音楽はあり、バッハの中にはイタリアの音楽から学び取ったものがたくさんあります。


以下、本書より引用します。
「バッハ
絵画建築等の傑作は仮令二千年以前の作でも、猶(なお)今日芸術品として鑑賞するに足りるのに反して、音楽には不思議にも此の事がない。或る批評家は芸術品として価値を附する事の出来る音楽の生れたのは、僅々二百三十年程以前に現れたバッハ、ヘンデル両大家の偉業の発表以後であるとまで極言して居る。

バッハは普通に『音楽の父』と呼ばれる。ヘンデルが聖楽(オラトリオ)の創作に影響を与えたのに対して、バッハは彼以後の音楽といふものに最も純な影響を与へた。従って彼以後の大音楽家で彼の影響を受けないものはないと云ってもよい」。

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たしかにSPの時代(1900年から1940年代)は、一般の愛好家の世界にバッハが広められた「バッハ・ルネサンス」の時代だったといえるでしょう。古楽では「グレゴリオ聖歌」のSPがあったことを手持ちのSPの中から確認していますが、中世やルネサンスの音楽はSPレコード時代には知るかぎりでは見当たりません。(ご存知の方はご教示下さいますように)。


バッハに関しては豊かでした。カザルスの「無伴奏チェロ組曲」。ランドフスカのチェンバロによる「平均律2巻」や「ゴルトベルク変奏曲」など。シュヴァイツァーの「トッカータとフーガ」などのオルガン曲。エトヴィン・フィッシャーのピアノによる「平均律2巻」、ハイフェッツの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」。
SPの時代は「スター演奏家」の時代であり、SPもまだ普及し始めだった本書から四半世紀を経た『名曲決定盤』(あらえびす著 中公文庫)には、SPの名盤を演奏家ごとに紹介する形で編まれています。


西洋音楽の啓蒙普及に、まず役立つのは公衆の面前で演奏する演奏家の魅力です。SPの草創期には世界に名を轟かせていたソプラノ歌手、ネリー・メルバやテナー歌手、エンリコ・カルーソーらの歌声が自宅の蓄音機で聴けることになり、蓄音機と(高級機から普及機まで)とSPレコードの普及を推し進めました。米国ビクターのマスコットは「蓄音機からきこえる主人の声に耳を傾ける犬」です。「His Master`s Voice」。その通り、エジソンは人間の声を録音再生できる機械を作ろうとしたのが始めなので、初期のSPレコードは声楽のレパートリーが充実していて音もいい。


その次に音が良かったのは、人間の声と似たような音域の弦楽器です。チェロ、そしてヴァイオリン。レナーやカペーの弦楽四重奏も美しい。ピアノが若い頃のアルトゥール・ルービンシュタインがピアノ曲を試しに吹き込んだとき「なんだこれは。ぴあのじゃなくてバンジョーみたいじゃないか!」と吐き捨てました。彼は長生きしてLPステレオに名盤を残していますから幸運な生涯を生き切りました。


閑話休題。
大田黒元雄が本書を出したのは大正4年(1915年)。まだカルーソーやメルバの全盛期であって、一般のファンがバッハを聴くのは極めて難しい時代でした。その後、人気も実力もある名演奏家のSPレコードによって徐々にバッハの音楽が広がっていきます。最も大衆的な形でやってみせたのが、レオポルド・ストコフスキーです。彼はリストの「ハンガリー狂詩曲第2番」とともにバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」をオーケストラで演奏しました。
大田黒さんも生きられたのは1893年から1979年と長生きされましたから、LPステレオのバッハを楽しまれたことと思います。ヴァルヒァやカール・リヒター、そしてレオンハルトが動き出して、グレン・グールドが出現して。


結びの部分を引用しておきます。
「個人としてのバッハは厳粛の中に親切と諧謔とを蔵してゐたと云ふ。作曲家としてのみ知られる彼は、前に述べた如く風琴家(オルガン奏者―引用者注)としても亦(また)異常な技倆を現はした。殊に彼に就て記憶さるべき事は、風琴の奏法を彼が革新した事である。彼以前の風琴演奏者が親指や薬指を用いなかったのに反して、彼は総ての指を動かすことを始めた。従って或る意味に於て彼は又「洋琴演奏法の父」とも見られる。

時代に依って音楽に対する思想も変化する。而(し)かも猶バッハは常に『音楽家のための音楽家』として日輪の如くに輝いて居る。シューマンは嘗て『宗教が其の開祖に負ふと同様の大なる負担を、音楽はバッハに対して有して居』」とまで云った。『音楽の父バッハ』の名は永久に忘れられないことであらう」。


付記。
戦後の昭和22年(1947年)に大田黒元雄は『西洋音楽物語』を音楽之友社から出しています。その本では音楽の歴史は「古代」から語り始められます。古代ギリシアからグレゴリオ聖歌。そして「中世初期」「中世後期」へ。その中にはパウル・ベッカーの説も紹介されています。「十七世紀の音楽」でモンテヴェルディやシュッツらが紹介されて、次章「十八世紀前半」にようやくヘンデルとバッハが登場します。


蛇足。
バッハ以降をわれわれの「近代音楽」と捉えるスパンは、ありそうです。しかし、そのことについては、またいつか。それではまた、次回更新時に。


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