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2011年5月

2011年5月30日 (月)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その9

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(2)


目次を掲げます。大田黒元雄が本書に採りあげた60人の作曲家の名前です。

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バッハ、ヘンデル、グルック、ハイドン、モツァルト、ケルビニ、ベートーヴェン、ウェーベル(ウェーバー)、チェルニー、シューベルト

マイエルベーヤ、ロシニ(ロッシーニ)、ドニゼッティ、ベリニ(ベルリーニ)、メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、リスト、ワグナー、ベルリオズ

ヴェルディ、グリンカ、ダルゴミジュスキイ、フランツ、グーノー、フランク、ブラームス、ビゼー、ルビンシュタイン、チャイコフスキイ

バラキレフ、クイ(キュイ)、ムーソルグスキイ、ボロディン、リムスキイ・コルサコフ、ドヴォルジャック、サン・サーン、マスネー、ブルッフ、グリーグ

フォーレー。ダンディ、フムパーディンク、エルガー、シャルパンティエー、ウォルフ、マスカニー、レオンカヴァロ、プチニ(プッチーニ)、アレンスキイ

デビュッシイ、シュトラウス、グラズーノフ、シベリウス、スクリアビン、チェレプニン、ラハマニノフ、コレリッジ・テイラー、ストラヴィンスキイ、シェーンベルヒ


以上の60名。大正4年初版の日本語で書かれた、西洋音楽の作曲家たちを紹介する本に並べられた名前です。現代の呼び方から余りにも遠いものは、括弧でくくったごとくです。現代では放送局などで統一された片仮名表記があるようですが、当時はまだそのようなものはなく、あるいは大田黒元雄のロンドン留学時に耳にした「耳の記憶」が彼の片仮名表記に反映されていたのかも知れません。


彼自身「自序」に記したように「世界は日々に進み、且つ變って行く」。
だから、ここに記された作曲家の中にも、現代では聴かれなくなっている人の名前もあります。しかし、いずれの日にか、また復活するかもしれません。不易と流行、あるいは時間による淘汰。わずか100年足らずの時間の経過のなかに、いろいろなことを思います。


また、この本の巻末には「附録」として「本文掲載以外の百楽家」として、60名から漏れた作曲家の名前と短い紹介文が掲載されています。それは実に363頁「アルベニス」から391頁「ゾロタレフ」に及ぶ大部なもので、当時22歳から23歳にかけての大田黒元雄の若者の情熱と誠実を感じます。

「本文掲載以外の百楽家」の中にある名前に、ブルックナーが。「近代の墺国に出た有名な楽人。九種の交響楽を出した。そしてワグナーの崇拝家であった」。ブゾーニは「伊太利のフローレンスの近くに生れた。現今一流の洋琴家。且つ最も新らしい形式の作曲家で、或る人からは、未来派作曲家の一人とも見られて居る」。

シャミナードは「有名な仏蘭西の女流音楽家。軽快な繊細な洋琴曲が最も博く知られて居る。
そして、グスタフ・マーラー。「ボヘミヤの人。交響楽の作家として有名である。其の作品では交響楽の「夏の朝の夢」(Ein Sommermorgentraum) 「自然の生活」(Naturleben) などと名附けられたものが優れて居る」。


執筆時尊名中だったモーリス・ラヴェル。「現代仏蘭西の名作曲家。印象派の作家として、デビュシイに次ぐ。多数の管弦楽曲、洋琴曲、歌などがあり、其の中舞踊『ダフニスとクロエ』(Daphnis et Chloe)、管弦楽曲『ラプソディ・エスパニョル』(Rhapsodie Espagnole)、洋琴曲『ヴァルスノーブル・エ・サンチマンタル』(Valses nobles et sentimentales)が知られている」。


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2011年5月24日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その8

第3章 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』(1)
 


大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』は1915年(大正4年)、山野楽器店から初版が出されました。英国留学から帰ったばかりの大田黒元雄は、22歳から書き始めて23歳で上梓しました。これから紹介していく画像は、大正10年3版の音楽と文学発行、東京堂書店発売のものです。

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まず「自序」。正字を略字にして、仮名遣いはそのままに引用します。但し詰音は「つ」ではなく「っ」に。

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「数多い古楽の音楽家の中から、自分は六十人を選んで、此の本の中に記した。けれども若し委しい事を書けば、此の様な本一冊では、此等の人々の唯一人に就てでさへ、充分ではない。従って自分は此の本の中に總てを書かうとは思はなかった。唯、此れに依って此等の大家の楽風、生涯並びに歴史的位置に関する概念を、読者に与ふる事を目的とした。

自分はバッハを起点とした。それは此の本が、音楽歴史の説述を目的としたものでないために、此の大家以前の人々に就て、限りある紙面を費す必要を認めなかったからである。
 
自分が此れの稿を起したのは昨年の末であった。そしてショパン、ワグナーあたりから以後、即ち近代楽の作家就ては比較的委しい事を書いた。此れは一つには古典楽の大家の評伝は、いくらでも外国書の中に求める事が出来るから、此の様な小さな本の中に左程書く必要がないと思ったからで、又一つには近代楽を好む自分の傾向が、自然とかういう結果を生んだのである。

此の本は、著者たる自分の浅学と、紙数の制限された点からとで、不満足なものと成ってしまった。けれども自分の友人は、此れの執筆中此の本が、我が国の音楽界に処女地を開拓するものだと云って、自分を奨励してくれた。


自分は此の本に決して満足しては居ない。然し我が国の西洋音楽に関する一般の智識の状態は、先きの友人の奨励の言葉が、あながち非常な誇張でない様な憐れむべきものである。自分は音楽の専門家ではない。けれども此の国に於ける西洋音楽の発達に就ては、此の後も出来るだけ努力したいと思っている。自分は更に研究の後其の結果を発表する日の来るのを待って居る。けれどもそれは恐らく数年の後であらう。従って目下は此の本で我慢して居るより仕方がない。


唯自分としては、此の本を作るに就て、音楽上の智識、特にいろいろの楽家の歴史的関係に就ての智識が、余程博くなった様に思ふ。此の点に於て、此れの出版は自分に取って決して無益な仕事ではなかった。

世界は日々に進み、且つ変っていく。それがために、すべての価値が、此の小さな本から失はれるような日が来たとしても、猶此の『バッハよりシェーンベルヒ』は、自分の二十二歳から三歳へ掛けての労作として、自分一人に対しては、記念深いものとして残るであらう。

大正四年三月

東京府下大森に於て    著者」


この「自序」のなかで、大田黒元雄は「自分の友人は、此れの執筆中此の本が、我が国の音楽界に処女地を開拓するものだと云って、自分を奨励してくれた」と書いています。「自序」の前に「献辞」があります。友の名が記されています。「此の書を鍋島卯八君に」。

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今回は、これにて。続きはまた、次回更新時に。

2011年5月17日 (火)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その7

第2章 太田黒元雄とは、そも如何なる人物なりしか(3)


「プロコフィエフの日本滞在記」が幸いなことにWEB上で読むことができます。
http://blog.goo.ne.jp/sprkfv/c/06cf3089ece06266c27f3d4b19db1984


訳者・サブリナ・エレオノーラ/豊田菜穂子両氏と監修・中村喜和(来日ロシア人研究会代表)氏に感謝申し上げます。


この日記が発表された経緯については、上記の「プロコフィエフ日記前置き」をご覧いただくといいでしょう。
「作曲家のセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)は、革命後の1918年、極東ロシア・日本を経由し、アメリカに渡りました」という文章ではじまります。日記自体は1918年5月15日のイルクーツクから書かれていますが、同年5月31日「敦賀上陸」から8月2日「日本最後の日」まで、ほぼ毎日綴られています。


前項に出てくる「客が来ませんでしたね。学生もいない。だから帝国劇場ガラアキさ」(野村光一)の結果に終わったプロコフィエフのピアノ独奏コンサートは7月6日。プロコフィエフは日記にこう記しています。


「朝はまあまあの気分で、少々用心してコンサートに出かけた。実務をこなすように淡々と弾いた。聴衆はとても少なかった(土曜の午後1時15分、しかも暑い)が、なんとか売れてよかった。客の大半が日本人で、とても礼儀正しく聞いていた。拍手は少なく、例外は技巧的な曲だけ。不協和音にはあまり当惑していなかった。というのも、まったく異質な音に慣れている日本人にとって、我々の協和音と不協和音の違いなどあまり感じないのだろう」。


プロコフィエフの当時の日本人の聴衆についての言葉が興味深いです。「協和音と不協和音の違いなどあまり感じないのだろう」。

『世界的大作曲家大洋琴家 セルギー・プロコフィエフ氏 ピアノ大演奏會』のプログラムは、自作「第一ソナタ」「前奏曲」「エチュード第四」「ガヴォット」「トッカタ」、ショパンの「第三バラード」「エチュード三曲」、自作「第三ソナタ」「批難」「物語」「絶望」「悪魔的の暗示」。
入場料は、特等=参円 一等=弐円五拾銭 二等=弐円 三等=壱円 四等=五拾銭の5段階でした。


コンサートは7日も行われました。初日の4日前、7月2日「大田黒先生」は、プロコフィエフが大田黒元雄に会ったときの様子がしたためられています。

「日本人ジャーナリストと日本料理店で昼食をとった。帝国劇場の支配人が、宣伝の意味もあって設定したのだ。大田黒〔元雄、1893~1979、音楽評論家〕が音楽や私について書いた本。これがマスコミに非常によい印象を与えた。大田黒先生はロシア音楽にきわめて精通しており、私たちは食事の間じゅう(英語で)話に花を咲かせた。食事は膝を曲げて座る日本式。芸者衆が踊り、客一人につき若くてきれいな日本女性二人がそばに座った。とても楽しかった」。


6月30日に「コンサート告知」が出ていますから、開催決定後に帝国劇場支配人が出会いをセットしたことになります。そして7月12日「徳川侯爵」は、プロコフィエフが德川頼貞に初めて会ったときの話です。

「東京に行き、徳川侯爵のところで昼食をとった。若くて非常に面白い日本人で、西洋音楽にとても入れ込んでいる。日本の貴族とはどんなものか、興味をもって見たが、侯爵はまったくもってヨーロッパ的な人物で、じつに魅力的で飾り気がなく、東洋をまるで感じなかった」。

德川頼貞は新作を委嘱するのですが、プロコフィエフは完成させることができませんでした。日本最後の日に電話で德川頼貞は「彼は私の作曲が間に合わなかっことを大層残念がり、私との文通を望んだ」。


「プロコフィエフの日本滞在記」を読む限り、大田黒元雄と徳川頼貞は少なくともプロコフィエフを前にして、同席したことはなかったようです。アプローチも全然違います。文筆を奮って懸命にプロコフィエフら若い作曲家を日本に紹介しようとしていた大田黒元雄と、西洋風の貴族らしくパトロンとして振舞おうとした德川頼貞と。しかし、時代は刻々と移り変わって行ったのです。


プロコフィエフはアメリカに渡り、更にパリへも行き、20年近くを海外で過ごします。1936年ソヴィエトへ帰国。1953年3月5日に62歳で亡くなります。その日はスターリンが亡くなった日でもありました。

大田黒元雄や徳川頼貞らがヨーロッパへ留学した時代、山田耕筰もまた「バレエ・リュス」でニジンスキーを見るなどのめざましい音楽体験を重ねていました。彼のこともいずれ語ることがあるかと思います。

2011年5月13日 (金)

横井和子 演奏会記録

横井和子先生の演奏活動60周年のおりに、先生は頻繁に山村サロンへお越しになり、過去の演奏会のテープをお持ちになりました。「記念のCDを私家盤でつくりたいんだけど、あなたはどれがいいと思う?」ということでした。そのときに、紙片を一枚頂いたのがそのままになっています。

昭和17年から昭和53年までの先生の演奏活動の手書きのA4の紙。
これも埋もれたままにしておくことはないので、ここに写しておくことにします。原文のままです。


「横井和子 演奏会記録 昭和17年―53年」

昭和17年2月   読売新聞社主催 新人演奏会  リスト:メフィスト・ワルツ
   24年8月   甲南大学講堂 リサイタル ベートーヴェン:熱情  ラヴェル:水の戯れ 他
      9月   朝比奈隆指揮 関響  グリーグ:協奏曲  伊丹電機
   26年4月   NHK(全中) コープランド:ソナタ  グリフス:作品7など
      9月     〃      リスト:ヴェネチア ナポリ  バルトーク:ソナタ
     11月   朝比奈隆指揮 関響  リスト:ハンガリー幻想曲  朝日会館
     12月   山田和男指揮 大阪放送管弦楽団  シューマン:協奏曲  NHK
   27年1月   朝日会館リサイタル  小林福子:ソナタ  シューマン:幻想小曲集  
                   ベートーヴェン:告別ソナタ  バルトーク:ソナタ


  28年11月   現代音楽研究所  松下眞一:ピアノのための3楽章 
                       メシアン:世の終わりのための4重奏曲
   29年~    ガスビルホール ABCホールに於て約10回 現代作品特に邦人作品の紹介
31年にかけて   平尾貴四男 高田三郎 中田喜直 小林福子 大沢寿人 山田和男 
            奥村一 松下眞一 松永通温 中村茂孝 田中正史 他  
            ウェーベルン:変奏曲 トムソン:練習曲集  ジョリベ:マナ 等


  32年2月    産経 ベートーヴェン
           日本人作品によるリサイタル NJB
  35年2月    毎日ホール リサイタル ガルッピ:ソナタ シューベルト:さすらい人幻想曲 松下眞一:可測な時間と位相的時間 等


  36年9月    ABCホール ショスタコーヴィチ:ピアノ5重奏曲 
                   プーランク:管とピアノのための6重奏曲
  37年7月    日立ホール リサイタル シューマンの夕:ソナタ作品22 
                        ダヴィッド同盟舞曲集 ロマンツェ等
  39年9月    毎日ホール リサイタル ベートーヴェン:田園ソナタ  チャイコフスキー:ソナタ ヒンデミット:ソナタ第3番
  40年6月    リサイタル バルトーク:ソナタ  スメタナ:ボヘミアの思い出 等


  40年10月   “大阪の秋”現代音楽祭に出演  バルトーク:戸外にて  アレグロ・バルバロ
  41年10月          〃            徳永秀則:ピアノのための3つの小品
  42年10月    〃 朝比奈隆指揮大フィル    バチェビッツ:ピアノ協奏曲
  43年9月    リサイタル  モーツァルト:K331 リスト:フェネレイユ  コンソレーション 等
     10月   “大阪の秋”現代音楽祭  川田文忠:ピアノのためのソナチネ
  44年10月          〃        福島和夫:風の輪

  45年6月    若杉弘指揮 読売日本交響楽団 ベートーヴェン:協奏曲変ホ長調(1784)WoO.4 神戸
     12月   リサイタル ベートーヴェンの夕:ソナタ作品2-3  49-1,2  作品111 モーツァルトサロン
  46年10月   “大阪の秋”現代音楽祭  佐藤功太郎指揮 大フィル 
                            クチャラー:ピアノとオーケストラのための“映像”

  
  47年3月    音楽生活30周年記念 毎日ホール 渡辺暁雄指揮 京響
           シューマン:協奏曲  リスト:第2番協奏曲
     10月   “大阪の秋”現代音楽祭  ラムブレヒト:ペイパース 富阪滋トランペットと協演
     12月   モーツァルトサロン 日本人作曲家によるリサイタル
                       辻井英世:エグザレゾン 徳永秀則 小林福子 高田三郎
  48年11月   “大阪の秋”現代音楽祭  辻井英世:エグザレゾン
  49年10月         〃         松下眞一:打楽器とピアノのための“カンツォーナ・ダ・ソナーレ”
          
    
  50年4月    レコーディング 東芝EMI  シューマン:幻想小曲集  子供の情景  アラベスク
  51年10月   フェスティバルホール  マルコフスキー指揮日フィル ベートーヴェン:第5番“皇帝”
  52年3月    姫路、福知山  マツラ指揮 日フィル ベートーヴェン:第3、第5協奏曲
     7月    厚生年金中ホール 延原武春指揮 テレマン・アンサンブル モーツァルト:K466
  53年4月    京都芸術文化会館  モーツァルト・リサイタル:K280、353、545、331 等

 以上です。今回は「記録」をとどめておくために。 
  
 

2011年5月10日 (火)

横井和子先生のこと

「国内現役最高齢、芦屋在住91歳 ピアニスト横井和子」の縦見出しで、横井和子先生の演奏活動70周年を祝うCDが初リリースされたことが「神戸新聞」に掲載されました。カラー写真も付されています。2011年5月6日付、夕刊です。

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横井和子先生について、僕はしばしば「山村サロン」会報を通じて書いてきました。今でもWEBで検索すると「山村サロンHP」の昔の紺色バックのページが初めの方に出て参ります。これを機会に本ブログに転載することにします。「YAMAMURA SALON REVIEW  2002 後期」から引用します。今回は表題をつけておきます。もちろん誤植の訂正と補筆・加筆の上。これを定稿とします。

「横井和子先生のこと」

今年は前半に集中的に「新ヴィーン楽派」とその周辺を調べなおしていたこともあり、戦争と芸術、芸術家について考えつづけた1年でもありました。人生がいきなりへし折られる。そうでなくても、ねじ曲げられる。外出禁止令が出ていたにもかかわらず、煙草を吸いに出たところを射殺されたアントン・ヴェーベルン!                          

ユダヤ人のシェーンベルクは、ろくな仕事にもありつけぬままにアメリカへ亡命しなければならなかったし、同じくユダヤ人の指揮者ブルーノ・ヴァルターは、近い親類をナチスのガス室で殺されました。もっとも、戦争が奪うのは芸術家の人生ばかりではなく、あらゆる市民の生活を奪うもの。むごさは等しくありますが、志なかばに倒れた芸術家の無念さ、かなしさが、私にはとりわけ痛切に響きます。                            

ショスタコーヴィチはスターリンのソヴィエト連邦を生き延びました。まわりでは才能ある音楽家がどんどん弾圧され、殺されていました。ショスタコーヴィチは「私の作品は彼らへの墓碑銘だ」と洩らしていました。 

日本のチェリスト、赤松稔の名を知る人はどれだけいるでしょうか。また、彼の演奏を記憶にとどめられる方が、何人いらっしゃるでしょう。1942年、彼はピアニストの横井和子さんと結婚し、幸せな生活も束の間、1944年ビルマで戦死を遂げました。

2002年10月10日、大阪いずみホールで、音楽生活60周年記念の「横井和子 ピアノ・コンサート」が開かれました。私は、横井先生に師事された秦はるひさんの中学時代の同窓生であり、サロンで秦さんの演奏会を開くうちに、折々先生にお目にかかり、お話を伺う機会に恵まれることになりました。

お若いときから当時の「現代音楽」を弾かれ、とくに同時代を生きる日本人の新作初演(松下眞一: 《可測な時間と位相的時間》(1957-60)を含む)を積極的になさっていたことは、現代の若いピアニストには是非見習ってほしい姿勢だと思います。

音楽生活60周年記念「横井和子 ピアノ・コンサート」では高田三郎の『前奏曲集』より「Ⅱ.風に踊る陽の光」と「Ⅲ.藍色の谿間」と、奥村一の『ピアノのためのカプリッチョ」がとりあげられました。いずれも「手書きの楽譜を直接弾いた」とプログラムノートに書かれています。透徹した美しい響きに、音彩があざやかに描かれています。そして、まぎれもなく日本の音の響きがありました。

ガルッピの「ソナタ ニ長調」やスメタナのピアノ独奏曲の数々(ボヘミアン・ダンス イ長調,ポルカ イ短調,ボヘミアの思い出 変ホ長調)も、横井先生のほかに聴かせてくれるピアニストはいません。誰も知らない隠れた名品を聴く喜びは大きいです。もちろんショパンも。「バラード第3番」などよく知られた名曲の数々を弾かれて存分に楽しませていただきました。後程お伺いしたお話では「ガルッピ、いいでしょ。やっぱり音楽はもともとイタリアなのよ。ドイツじゃないのよ」。また「スメタナのピアノ曲ももっと弾かれればいいのに。日本のなんか演歌みたいで懐かしい節が出てくるのよ」ということでした。

コンサートの後半に日下部吉彦さんとの対談があり、戦時の思い出が語られました。

1942年12月、東京音楽学校を安宅賞を得て卒業。1942年1月、赤松稔と結婚。2月、宝塚大劇場でデビュー。11月、夫出征。1943年8月、長男誕生。1944年2月、夫ビルマにて戦死。激流のような日々です!戦後はご愛息を赤松家に託し、離れて住まなければならなかった、ともお聞きしました。しかし、音楽活動の上でのご活躍ぶりのめざましさは、皆様もご存じのごとくです。

60周年記念のCDも場内で頒布されていました。先生が手元に持っておられた全てのテープを聴きなおし、その中から私が選ばせていただき先生にご承諾いただいた、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」と「第4番」が収められています。音の状態も良く、気韻の高い素晴らしい演奏です。

先生はご自分の演奏の「レコード化」には全然関心を持たれなかった、といわれます。それは本当にそうだったのでしょう。しかし、それでは私たちの「音楽の宝」が「ついに記録されなかった宝」として、本当に聴こえなくなってしまう。あのときの頻繁にサロンを訪れられた日々に、私と横井先生は記録された過去の演奏を通じて「命がけの対話」を交わしていたように思います。

赤松稔さんとの結婚生活は短いものでした。「ブラームスのチェロ・ソナタを二人で演奏したかった」とおっしゃった言葉には胸がつまりました。若い二人の芸術家の夢は叶いませんでしたが、その夢は二人の音楽を知る、当時の無数のファンの夢でもあったのです。

2011年5月 2日 (月)

東日本大震災被災者への緊急提言 ─ 阪神淡路大震災の被災者から その3

この「緊急提言」については、このブログの3項目前をご覧ください。4月12日付です。
山村サロンHPでも見れます。http://www.y-salon.com/


昨日取材を受けて、今日早速記事になった「神戸新聞」2011年5月2日付「朝刊」を掲げます。


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「神戸新聞」はその社屋、社員、印刷所自体が被災した新聞社であり、「阪神淡路大震災」当時から被災者の声を生々しく伝えてきました。今回の「東日本大震災」に関しての「阪神」関連各グループの意見、要望がここに紹介されています。現行の「被災者生活再建支援法」の支援金配布がまだまだ進まない現状を踏まえて。


まず、関西学院大学教授の室崎益輝教授は「避難所は非人間的な環境。1~2週間が限度だ。支援金は再建へと立ちあがる意欲、生きる力を引き出す。専門家を送り込むなどして一刻も早く支給しなければ」と訴える。


次に「兵庫県震災復興研究センター」、関西学院大災害復興制度研究所の要望と提言。
しんがりに僕らの出した「緊急提言」のこと。
いずれにしても「阪神」被災の体験者は、やはり共通した思いがありました。


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