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2011年3月

2011年3月25日 (金)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その4

序章/澤田柳吉なる洋琴弾きがシェーンベルクの音楽を日本初演したること(3)


前項、澤田柳吉の残したSP目録の続きから。

眞白き富士の嶺 三角錫子作詞 ガードン作曲  ノジサン 379(A) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
ママも知る通り(Voilo Sapete) マスカーニ作曲  トウキョウ 8731  原信子 澤田柳吉(ピアノ) (歌劇「カ    ヴァレリア・ルスティカーナ」 1918(大正7).12) *東京蓄音器
夕空晴れて フジサン 362(B) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
同上     ヒコーキ 2126B  同上
夜の調べ  フジサン(トウキョウ) 1379(B) 原信子 澤田柳吉(ピアノ) 1918(大正7).12 東京蓄音器
夜の調べ(Serenade) グノー作曲  トウキョウ 8731  原信子 澤田柳吉(ピアノ)
ローマンス  フジサン(東京) 1378(A) 原信子 澤田柳吉(ピアノ) (カヴァレリア」中の一節 1918(大正7).12 *富士山印 *東京蓄音器

以上、「日本の作曲家・演奏家 SPレコード総合目録」(木村喬 著・編纂、アナログ・ルネッサンス・クラブ 制作・公刊)からの引用でした。

澤田柳吉についてはSPファンのブログに、おもしろいエピソードをみつけました。
「。「日本一の洋琴家」といふ看板を引っさげて浅草オペラの舞台に立ったまではよいが、洋琴音楽を理解できぬ見物客から罵声を浴びせられ辞めてしまった。1923年の関東大震災の後、関西方面に移り、貴志康一とデュエットをするなどした」。
以上、浪漫亭随想録「SPレコードの60年」から。http://blog.goo.ne.jp/tenten_family6/e/a661466b1c27b6ef8ead2df7c084abe9

貴志康一は芦屋市伊勢町にいました。澤田柳吉も、ことによると貴志康一とともに芦屋浜を散歩したかも。貴志康一はレオ・シロタと仲が良かった、との話をご遺族からお聞きしていますが、意外なところで意外なつながりがあったものです。

ところで、前項のクリストファ・N・野澤氏の文の一節に「1909年にリサイタルを開いており、日本人のピアニストでは最初といわれている」とあります。その前にはなかったのか。幸田延先生は? と調べるうちに、ある一冊の本に出会いました。

『日本洋楽外史』野村光一・中島健蔵・三善清達(ラジオ技術社)。副題は「日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史」。初版は昭和53年(1978年)7月15日。
「ステレオ芸術編集部」の提案をうけて、当時のNHK洋楽チーフ・ディレクターの三善清達氏が当時の長老お二人に話を引き出されました。野村光一氏は明治28年(1895年)生まれ。中島健蔵氏は明治36年(1903年)生まれ。野村氏は幸田延の演奏を聴いておられる。座談会形式で、この本は進められます。つぎのように。


当時は「例えばリサイタルといっても一人だけのものではなくて、どれもジョイント・リサイタルみたいだった。普通の音楽会というと一つ一つ演奏家がみんな違うんだよ。声楽もあればピアノもあり、ヴァイオリンもあればコーラスもあるといった具合にね(中島健蔵)」。

「幸田延さんが明治29年に帰朝された時の演奏会のプログラムを見ますと、まずメンデルスゾーンのヴァイオリンですよね。それから独唱としてブラームスの《五月の夜》を歌っているんですね。そうするとヴァイオリンから歌まで、どれもおやりになった……(三善清達)」。


明治廿九年五月「音楽学校同声会」プログラム(幸田延帰朝紹介)
1.洋琴聯弾 ボアエルデュー氏作《才女》 内田菊子、由比くめ子
2.唱歌 ウェッベ氏作曲 鳥居忱氏作歌 《那須与一》 会員
3.バイオリン独奏 メンデルスゾーン氏作 《コンサルト第一部》 幸田延子
4.三曲合奏 峰崎勾当作 《吾妻獅子》
5.風琴独奏 バハ氏作 《コンサルト》 島崎赤太郎
6.音楽四部合奏 ヘイデン氏作 《第一部》 第一バイオリン 幸田延子、ほか
7.クラリネット独奏 モザート氏作 《ラーゲトー》 吉本光蔵
8.洋琴独奏 ビートーベン氏作 《ムーンライトソナタ》 遠山甲子
9.独唱歌(ドイツ語) 甲 シューベルト氏作 《死と娘》 乙 ブラームス氏作 《五月の夜》 幸田延子
10.バイオリン独奏 バハ氏作 《フーゲ》 幸田幸子ほか6人
11.唱歌 甲 シューマン氏作 《夢》 乙 ヘイデン氏作 《春の夕景》 会員
12.三曲合奏 《岡安砧》 筝 今井慶松、ほか  


幸田延のウィーン留学を勧めたのは、有名なヴァイオリニスト ヘルメスベルガーの弟子のディードリッヒだった。ほかにも日本に西洋音楽を伝えたケーベル、ユンケル、ペツォルド夫人らの名が挙がり、話はやがて当時の聴衆のことに移ります。

「あの頃の聴衆の一つの特徴は社交界だったということだよ。何となく音楽会へ行くという習慣を外国生活して持っている連中のね(中島健蔵)」。
「鹿鳴館の名残りという感じもあったんですか?(三善清達)」。

「僕は鹿鳴館時代の聴衆を多少知っていたけど、その連中音楽なんてまるっきり判りゃしないんだよ、ひどいものだった。要するに社交ですよちっとも面白くないけど、これも文明開化だからって(中島健蔵)」。

「つまるところ、文明開化のアトモスフィアに一つの余興を添えるために西洋音楽があったということなんだな。鹿鳴館の場合はそれでいいと思う(野村光一)」。


そんな空気がまだ残る日本で、澤田柳吉はシェーンベルクを演奏したのです。彼に楽譜を提供した大田黒元雄について、いよいよ始めます。次回の更新のときに。


 

  
 

2011年3月18日 (金)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その3

序章/澤田柳吉なる洋琴弾きがシェーンベルクの音楽を日本初演したること(2)


日本で初めてシェーンベルクを演奏した澤田柳吉は、1886年(明治19年)3月13日、東京に生まれました。1906年(明治39年)20歳で 東京音樂學校研究科修了。同期には久野久(子)がいました。SPレコードは二人の「月光ソナタ」が残っていますが、久野久(子)のSPは、その「月光」だけです。

日本の西洋音楽受容の最初期の明治教育では、1880年から1882年までアメリカ人メーソンが「小学唱歌集」などを編纂するなど貢献し、1883年からは彼の後任にドイツ人エッケルトを招きました。まだ「音楽取調掛」の時代です。東京音楽学校になったのは、やっと1887年になってからです。ドイツ音楽がその後は主流になって行きます。ベートーヴェンはドイツ音楽の輝ける巨星であり、若い澤田柳吉も久野久(子)も懸命に練習を重ねたことでしょう。


澤田柳吉の師が、まだわからない頃、下のような記述を下書きしていました。

≪澤田柳吉の先生について明記された資料をいまだ探しあぐねています。久野久(子)については、幸田延が山田耕筰や久野久(子)を育てたことが判明しています。幸田延は露伴の妹。澤田と久野の先輩ピアニストであり、日本人として初めてクラシック音楽をつくった作曲家でもありました。幸田延<1870(明治3年)-1946年(昭和21年)>は、まず音楽取調掛伝習生として学び、1889年からアメリカ、ドイツ、オーストリアに留学。1895年、帰国して東京音楽学校教授に就任しました。澤田柳吉も彼女の薫陶を受けたかどうか。≫


ところが、前回の記述以降、「ローム・ミュージックファンデーション SPレコード復刻CD集」の中に澤田柳吉の「月光」をみつけ(日本SP名盤復刻選集Ⅲ)、分厚い解説書の中のクリストファ・N・野澤氏の鮮やかな解説の中に従来のあらゆる資料(ネット上のファン・ブログを含む)では見られなかった「澤田柳吉の師」の名前が記されていたのです。長い年月をSPとともに歩んでこられたクリストファ・N・野澤氏には深い感謝。


その解説書から全文を引きます。

「ピアニスト澤田柳吉(1886~1936)は、東京に生まれ、東京音楽学校でヘルマン・ハイドリヒ、ルドルフ・ディトリヒなどの指導を受けた我が国ピアノ界の草分けの一人である。1909年にリサイタルを開いており、日本人のピアニストでは最初といわれている。1923年、関東大震災後、本拠を大阪に移し、演奏活動の他、音楽研究所を主宰した。

古くは1890年代後半から、洋楽と邦楽の両面にわたって、器楽の合奏、声楽や器楽の伴奏など、多くのレコードに関係しているが、注目すべきは、日本のピアニストとして初めてベートーヴェンやショパン、メンデルスゾーンなどのピアノ曲を録音したことである。

ベートーヴェンのソナタは、《悲愴》ソナタの第1楽章(1918年頃)に始まり、同曲の第3楽章(1924年1月発売)、《月光》ソナタ全曲(1925年1月発売)と続く。これらはいずれも機械式録音時代のものだが、本CDに収録した2回目の録音は1931年5月発売で、電気録音初期のものである。19世紀に生まれ、国内のみで研鑽を積んだ日本の演奏家が、当時として十分に研究し尽くして表現した演奏として興味がある」。

その原盤は、ニットー 10031/2(1931年録音)。ニットーとは日東蓄音機株式会社。
ちなみに澤田柳吉は、ドイツの大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴヴェングラーと同年生まれです。

「月光」のほか、彼の残したSPの数々を挙げておきましょう。「日本の作曲家・演奏家 SPレコード総合目録」から。木村喬 著・編纂、アナログ・ルネッサンス・クラブ 制作・公刊。(これは貴重な仕事です。ごく最近公刊された資料ですが、「SPレコード」誌百号達成記念事業として出されたものです。95号時点での報告では全国で、わずか43部しか頒布されていません。多くが個人。その中に著名な学者も評論家もいません。

施設や大学では、旧遠山財団「日本近代音楽館」(現在は明治学院大学)、日本ウエストミンスター、国立音楽大学附属図書館、早稲田大学演劇博物館、名古屋芸術大学附属図書館のみ。この寂しさ! 日本の西洋音楽の土壌、根幹がこの大冊にはあるというのに。民間の愛好家個人が多くの時間と労力をかけた仕事の価値は、測り知れないというのに!

ことによると、いまや「草の根」にしか「本物」の凄味を輝かせる学問の場はなくなってしまったのかも知れない。このような「文献学」は学問の「基礎」にほかならないことが、たとえば東京大学の美学あたりの人ならば分かってるだろう。まあいいや(笑)。これを揃えない不幸な諸大学の人も、どこの日本の大学にも係わりのない幸いな人も、澤田柳吉が残したSPは上記「月光」のほかは次の通りです。


哀悼の歌 フジサン 379(A) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
アルカンタラの一節 フジサン 1374(A) 原信子 同(1919)
梅にも春 ニッポノホン 2313(A) 澤田柳吉 横山國太郎 遠藤和一
園遊會 フジサン 361(A) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
同    ヒコーキ 2126A       同
荒城の月 フジサン 362(B)    同
同    ヒコーキ2126B       同
故郷の廃家  ニッポノホン 2310(B) 原信子 澤田柳吉(ピアノ)
天然の美 フジサン 361(A) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
同    ヒコーキ2126A
ドナウ川の漣 フジサン380(B) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
パテチック・ソナタ フジサン 1390(A)、1391(B) (引用者注:ベートーヴェン作曲「悲愴」ソナタ)
埴生の宿 ニッポノホン 2309(A) 原信子 澤田柳吉(ピアノ)
春雨 同 2314(B) 澤田柳吉 横山國太郎 遠藤和一
ハンティング・ソング メンデルスゾーン作曲  ニットー 1029A 澤田柳吉
ポロネイズ ショパン作曲 ニットー 1029A 澤田柳吉

などなど。まだあるのですが、目が疲れてきたので続きは後日。次回の更新のときに。
幸田延の日本最初の「洋楽」あるいは当時の「現代音楽」は、1895年に作曲した「ヴァイオリン・ソナタ」変ホ長調(3楽章、未完)と1897年の「ヴァイオリン・ソナタ」ニ短調(1楽章のみ)です。全音楽譜出版社から出ています。http://www.zen-on.co.jp/disp/CSfLastGoodsPage_001.jsp?GOODS_NO=14569&dispNo=001001001001002


2011年3月13日 (日)

臨時のお知らせ

芦屋・山村サロンで「東北地方太平洋沖地震 チャリティ・コンサート」を開きます。

サックスの野田燎さんと僕は、ともに阪神淡路大震災に被災しました。震災直後に「ともに立ち上がる」ためのチャリティ・コンサートを開いたことも、今回なまなましく思い出します。

【 特 別 公 演 】
東 北 地 方 太 平 洋 沖 地 震 チ ャ リ テ ィ ー コ ン サ ー ト

出演/野田燎(サックス)、山本京子(ピアノ)、他

2011年3月11日、日本は「東北・関東大震災」というかつて体験しなかった規模の地震・津波災害に見舞われました。現地は未だ救援の手さえ届かない地域もあります。
このようなとき、阪神淡路大震災を体験した私たちにできることのひとつは、私たちの志あるお金を集めて被災地へ届けることです。サックスの野田燎さんも被災から立ち上がって「音楽療法」を確立した音楽家です。生命の深源へ届く音楽の祈りが、被災地まで響きわたりますように。
曲目は、広く知られた名曲・名旋律ばかりです。

2011年 3月20日(日)
開場/午後1時半 開演/午後2時
※入場無料/義援金を募ります。金額自由

主催・会場・お問合せ/芦屋 山村サロン
JR芦屋駅前 ラポルテ本館3階  ☎0797-38-2585

お知らせの文面は以上ですが、3月25日にはイェルク・デムス氏のリサイタルも行われます。
http://www.y-salon.com/event.htm


野田燎氏についての紹介文まで、今日の話し合いで緊急に作った告知ちらしには載せられませんでした。
「山村サロン会報 Vol.42」から転載します。


「力と手段と表現と」というテーマは、音楽家/野田燎さんについて語るときにも、非常に多くのモティーフを与えてくれます。変節が変節でなく、一本の筋道を行くための変容であり、1948年生まれ、還暦を過ぎられた今、ながれる川筋は、より水量を豊かにして「結局はひとつ」の音楽を奏でておられます。

最近では「音楽運動療法」の先生として、その療法が成果をあげた井上智史さんとともに、2009年9月9日放送のフジテレビ系列「ベストハウス123」に出演されたことが「全国発信」の登場でした。しかし、若い頃のサックス奏者/作曲家としての野田燎さんを覚えておられる方には、驚き以外のなにものでもなかったのではないでしょうか。

かつて野田さんは、飛ぶ鳥を落とす勢いの若手サックス奏者/作曲家でした。今も「現代音楽のスペシャリスト」として、「有名な独奏曲 インプロヴィゼイション」の作曲者としての彼を語るサックス・ファンがいます。

野田燎さんは1972年大阪音大を卒業後、米国ノースウェスタン大学院へ留学。のち渡仏しボルドー音楽院で学び、1974年「フランス作曲家協会賞(管弦楽曲)」受賞。1975年仏政府公認作曲家演奏家資格取得。以後パリに住み、欧州各地の音楽祭や放送に出演。日本でもNHK・FMや、民放「題名のない音楽会」(当時は黛敏郎氏が司会)にたびたび出演。教師としてもパリ音楽院、バーゼル音楽院、ノースウェスタン大学など欧米の大学から招かれており、パリの現代音楽センター IRCAM には、日本の現代サクソフォーン作品を紹介するために招かれました。
また作曲では、仏国文化省、教育省委嘱によるバレエ、劇、視聴覚教育などの教育作品の上演、NHK放送文化基金講演助成や、フランス放送局ならびにパリ市近代美術館委嘱作品『清経』を上演。その後、ニューヨークとモントリオールの上演。1987~88年の米国、仏国での公演は「ニューヨークタイムズ」「ル・モンド」両紙で高く評価されました。

帰国は1986年でした。奇しくも山村サロンを開いた年です。三宅榛名さんと高橋悠治さんで幕を明けたサロンは、ほどなく私と同じく現代音楽が好きな人を寄せて、鬼塚正勝さんの企画で「ETWAS NEUES Ⅳ 吉岡紘子 + 三木稔」が開かれました。ゲストに呼ばれたのが『ベロ出しチョンマ』のバリトン/山田健司さんと、『秋の曲』のソプラノ・サックス/野田燎さんなのでした。1990年1月9日です。

当時の「会報」で、私はこんなことを書いています。 「野田燎氏は、もともと尺八のために書かれた曲をソプラノサックスで吹かれました。はじめからおわりまで、音色と楽器の限りをこえて、ただ美しい響きに場内は満たされました。楽器を感じさせない音楽」。

野田燎さんを聴くのは、それが初めてのことでした。以後、私は独自に働きかけて彼を「バッハ・シリーズ」などにお招きすることになります。しかし、その頃すでに彼は徐々に着実に、彼の「音楽運動療法」を完成させていきます。震災前年の1994年11月24日、私も手伝いに行った『病める不死鳥』公演を大阪・いずみホールでやったあと、震災後には1995年9月23日にサロンで『立ちあがるためのコンサート』。その後いくつかのコンサートを開き、野田燎さんが初めて療法の著しい成果をあげた井上智史さんのために『井上智史 書と絵画展』を開いたのは、1998年12月18~20日のことでした。

震災以後、野田さんは震災直後、生埋めになった人びとを素手で引き出され、そのなかにはもう助かりようのない人たちもいて精神に打撃を受けます。睡眠障害と自己の無力感にさいなまれ「音楽家の生き方」を問う毎日が続いたといいます。
そんなとき、ふとサックスを手にとり『サマータイム』を吹くと「自ら吹き、聴き、音の美しさに打たれ、身体中の悲しみを涙で流し落としました。サックスのすばらしさとともに音楽家である自分に誇りと喜びが蘇ってきました。この間の苦しい体験を生かすのは音楽運動療法の実践だと悟りました。音楽家がひとりの命を救えるならば、拍手喝采を受けるステージよりも生き甲斐がある」。

そして2008年1月27日、サクソフォン・ソロ・リサイタル『戦いと平和』で、野田燎さんはサロンに復帰されます。2月17日以降、原則として毎月『野田ファミリー・コンサート』が開かれることにもなりました。かつての「現代音楽の寵児」としての諸々はもう、どうでもいい。音楽家としてのステージを駆け登ることにもなんの興味もない。いっぱいのお客さんを前にしての拍手喝采などは、もういらない。もはや動かない生き方を定めた野田さんは、いっそすがすがしくもありました。

彼の音楽家としての力はまさに巨人的なものがあり、サックス一本で、大オーケストラに負けない迫力と人の心に浸透していく最高の音楽が奏でられます。なによりも、そのサックスが障害を負うひとりひとりの人生を救ってきた。音楽の不思議は、演奏行為しだいで生き死にしますが「音楽運動療法」の研究と実践をつうじて、野田燎さんば「自分を生かし、ひとを生かす」音楽への一本の道を探り当てられました。
復帰後も折にふれて「現代音楽」時代の作品を吹かれます。ミニマル・ミュージックが作曲家としての基本にあります。やはり、とても美しい。

野田ファミリーとは、「音楽運動療法」に関わる若い音楽家、また大阪芸大の学生たちによるアンサンブルで、いずれのコンサートにも野田さんの「教師」としての力が及び、場数をかさねるごとに練れてきています。それにしても「音楽運動療法家」の医学博士でもある野田燎さんが企画されるこのシリーズ、ときには野田さんのソロ・リサイタルもあるこの音楽会シリーズは、私にはいろいろな意味で重要な意味があると思えてなりません。ほかに書く人もいないので、私が書いておきます。


「山村サロン会報」の最新のものもHP載せました。ご紹介まで。(上の項はこの一覧の中のVol.42です)。
http://www.y-salon.com/review.htm


近々「大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』」を再開します。
澤田柳吉について、いろいろと調べました。いま少しのお待ちをば。

2011年3月 7日 (月)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その2

序章/澤田柳吉なる洋琴弾きがシェーンベルクの音楽を日本初演したること


カンディンスキーは存命中に日本に呼ばれようとした(関東大震災により実現せず、でしたが)事実を知ったとき、日本の美術界には「西洋との同時代性」を意識していた人たちがいたんだ、と痛快に思いました。
じゃ、シェーンベルクはどうだったんだろう、と調べ始めたのが本項の発端です。


日本の現代音楽について詳しく書いてある本として、『日本戦後音楽史』(平凡社)を持っています。上巻が1945-1973。下巻が1973-2000。それぞれ500数十ページに及ぶ大冊で、初版は2007年2月20日です(上巻)。日本戦後音楽史研究会=編。佐野光司(代表)、石田一志、片山杜秀、後藤暢子、高久暁、長木誠司、楢崎洋子、沼野雄司、水野みか子、村田真穂各氏による力作です。


ところが。
上巻240頁に始まる「十二音技法受容前史―戦前期におけるシェーンベルク受容の概要」をひもとけば、僕の知っていることも知らないこともくまなく書いてある、と期待したのですが、その最初の行「日本におけるシェーンベルクの活動や作品の紹介は、1920年代初頭、年号で言えば大正時代の末期から始まっていた」からして、歴史的事実とは異なります。


大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』こそが日本で初めて「未来派の新人」としてシェーンベルクを日本に紹介した文献であり、のみならず、大田黒氏は欧州で彼の作品を実際に聴き、楽譜を持ち帰りもしたのです。同書の初版は、大正4年5月4日。西暦1915年ですから、『日本戦後音楽史』の当該記述は「1910年代半ば、年号で言えば大正時代の初期から」と改めなければ精確とはいえません。


そして242頁。「記録に残された最初期のシェーンベルク作品の演奏は、1925年に東京で『未来派音楽』として演奏された≪三つのピアノ曲.≫作品11であろう」という記述。どうして演奏者名を書かないのか。こういう本では演奏者の名前を記しておくのが歴史への敬意であるのに、それを失している。いずれにしても、これも事実とは違います。最近になって、次のような新聞記事が出ました。


資料が奏でる日本音楽
近代音楽館で、収集・整理に携わり20年以上 林淑姫
2010/10/28付日本経済新聞 朝刊

「えっ、『赤とんぼ』の作曲者って分かってるんですかあ?民謡かと思ってた」。日本近代音楽館を見学に訪れた、ある学生の言葉である。
人々に長く歌い継がれ、すっかり馴染(なじ)んだ歌は往々にして作者の存在を隠す。とすれば1927年に発表された「赤とんぼ」の「民謡」説は、作者にとって勲章のようなもの。近代日本を代表する作曲家、山田耕筰もあの世でほほ笑んでいることだろう。
 近代日本の音楽は歌から始まったが、歌に終始したわけでは無論ない。第2次大戦前に限っても、オペラあり、管弦楽曲あり。ピアノ曲も室内楽も数知れずある。しかし演奏機会が多くなければ、次第に忘れ去られる。

 歌以外の楽譜出版は稀

 楽譜が出版されていれば事情も多少変わるが、楽譜出版が成熟していなかった戦前の日本の場合には、歌以外の出版は稀(まれ)だった。思い出す手立ては、発表当時の手書き楽譜だけ。それが失われれば諦(あきら)めるほかない。
 明治に導入された西洋音楽。その音楽に表現をかけた日本の作曲家たちが、いかに貪欲(どんよく)に学び、自身の音楽を創(つく)ろうとしたか。音楽を愛する人々がモーツァルトやベートーベンばかりでなく、内外の同時代の音楽にどれほど熱い関心を寄せ、自分たちの音楽を育てようとしていたか。それらを語る資料にどうしたら接することができるか。

 87年秋、遠山音楽財団附属図書館(66年開設)を改組して創設された日本近代音楽館は、長く望まれながら、なかなか実現に至らなかったこの空白の領野を埋めた。日本の近代・現代音楽を専門とする唯一の資料館として、手稿を含む楽譜を中心に種々の関係資料(雑誌、書籍、録音物、演奏会プログラム、文書類など)を収集・整理して広く一般に公開し、研究や演奏、出版など多様な利用に応えてきた。
 蔵書総数はおよそ50万。山田耕筰、伊福部昭から戦後世代の芥川也寸志、黛敏郎、武満徹に至る作曲家を中心とした記念コレクションも百二十余を数える。

厚意と理解支えに

 創設から20年以上にわたって、音楽評論家の遠山一行氏が運営する財団法人日本近代音楽財団のもとで活動を続けてきた。だが、今夏、明治学院大学に所蔵資料を寄贈し、今後の運営を託すことになった。高齢になられた遠山先生の、近代音楽館の将来を熟慮された上での決断である。
 私は遠山館長のもとで創設時から近代音楽館にかかわり、終盤は事務局長を務めた。その仕事を振り返れば「楽しかった」の一言に尽きる。

 資料を寄せてくださる方々の厚意と理解に支えられた20年。熱心に楽譜を探す演奏家、一枚の紙片に目を輝かせる研究者、思い出の童謡を確かめてうれしそうに帰って行く一般の閲覧者たちに励まされて過ごしてきた。苦心も苦労もなかったとは言わないが。
 手書き資料の整理に適当なお手本が見当たらず、やむを得ず考案した目録法。増加の一途をたどる資料の群れ、その中に分け入り、ためつすがめつ見て整理する毎日。古い資料はしばしば埃(ほこり)とカビをまき散らす。カブレてかゆい顔や腕をさすり、「ホコリ高き仕事」とぼやく。

 十人十色というが、作曲家たちの手稿はさまざま。既に整理した作曲家の目録法がそのままでは通用しない。目録にすべき要素が人によって微妙に違うのである。基礎データは共通させなければならないが、あとは工夫。細心の注意を払って作曲家の特徴をつかむ。
 音楽館が創設されたころから、戦後の音楽をけん引してきた作曲家の他界が続いた。楽譜や関係資料を託された者の責任は重い、と思う。

 海外へのアンテナ高く

 楽譜ばかりではない。日本の音楽活動を語る資(史)料は多種多様。思わぬ資料が“紙くず”の山からひょっこり顔を出すこともある。

 例えば、14年11月14日に開催された演奏会の小さなプログラム。20世紀の大作曲家シェーンベルクの無調のピアノ曲が本邦初演されたことを告げている。作品はその数年前に発表されたばかり。楽譜提供者は大田黒元雄、演奏者は沢田柳吉。海外の新しい音楽に向けられたアンテナの高さに改めて驚かされる。

 資(史)料が日本の音楽の歩んだ道を語る。その語りに無心に耳を傾ける。それが資料に携わることの極意かもしれない。
 明治学院大ではいま、運び入れた資料や機構の整備に大わらわである。苦労を察しつつ、新しい日本近代音楽館の活動に期待したい。なにがしかの助言ができれば幸いである。

(りん・しゅくき=明治学院大学客員教授)


この記事にあるごとく、澤田柳吉が大田黒元雄が持ち帰った楽譜によってシェーンベルクを(おそらくは作品11か。これは明治学院大学へ行って、資料を見せていただければ分かることです。芦屋に住む僕としては、なかなか東京へ行く機会がないことが歯がゆいばかりです)日本で初めて弾きました。

それにしても、『日本戦後音楽史』の当該項目の筆者は、どうして「日本近代音楽館」を訪ねることをしなかったのか。そこへ行って調べれば、澤田柳吉が1914年にシェーンベルクを日本で初めて弾いたことが明らかになったはずなのに。そして、日本のシェーンベルク受容に大田黒元雄が大きな功績をのこしたことも判ったはずなのに。

2011年3月 3日 (木)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その1

まず口絵。

外装はこの通りです。背表紙の文字もオリジナルなのか、所有者の手書きなのか判然としません。
前項に掲げた再販予告では「古典派の巨人バッハから未来派の新人シェーンベルヒ」という文字が見えましたが、シェーンベルクが「未来派の新人」だった頃に書かれていまに生き残った本は、この通りの「古書」です。


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ハードカヴァーの扉をめくると白紙一枚挟んで、本のタイトル。著者名、版元。所有者の蔵書印が押されています。

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献辞。

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そして、奥付。

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今夜はここまでにします。本の中身については、次回の更新のときに。

臨時ニュース 告知3点


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2011年3月 1日 (火)

「青騎士」について その36 付録2

さて、日本人がどのようにカンディンスキーを受け入れてきたか、の続編です。

日本人は、「明治末、大正初頭にいたって、ようやく西欧との同時代性の自覚に達した」と針生一郎氏は書いておられますが、こと美術に関してはその通りだったようです。他の分野においても、はたしてそうか。そのことは稿を改めて見ていきたく思います。今回は、ともかくはこの項目を追いかけます。

画家・田辺泰は「カンディンスキイの前には永遠の道が開かれている」と1922年、同時代を生きるカンディンスキーへの賛辞を閉じました。以下、針生一郎『カンディンスキーと日本』(カンディンスキー展目録 朝日新聞社 西武美術館 1976)から引用します。段々とカンディンスキーの影が薄くなるのです。


「この文章にもすでに、表現主義とダダイズムは我国近時の芸術界の流行語である、というような一節がみえるが、日本のダダが運動となるには、敗戦後の敗戦後のベルリンに滞在してその余波にふれた、村山知義の帰国を待たなければならなかった。村山は大正12年(1923)5月、帰国最初の個展で」「人びとをおどろかせた」。
「ベルリン・ダダは1920年代に入ると、ドースブルク、リシツキー、モンドリアン、バウハウスの一群などの構成主義と接近するが、村山の主張にカンディンスキーの影響はほとんどみとめられない」。


「だが、大正13年5月、アルス社から出た一氏義良の『立体派・未来派・表現派』には19世紀ブルジョア芸術の成立と解体からはじまって、後期印象派、フォーヴ、立体派、未来派、表現派の展開がたどられ、ダダイズムがその帰結とされている。ここには、アヴァンギャルド芸術とプロレタリア芸術とが、まだ決定的に分裂する以前の理論が典型的にうかがわれる」。


「だが、内容はあまりに概説的で、カンディンスキーの芸術の独自な分析などみるべくもない。
『かくして大戦前にはすでにほとんどドイツの画壇は表現派化せられんとしてゐたが、戦争の勃発するに及んでドイツ人の攻撃的精神と相まって、ますます意力的なもの、奮闘的なものとなって行った。

そして、戦中フランツ・マルクその他有為なる中堅的人物が失はれたが、ついで戦後におけるドイツの混乱状態に入っては、さきの表現派的の傾向は一層強烈なものとなった。それと共に、革命後の新勢力と、国の内外からの圧迫と去勢と、宗教的もしくは神秘的的方面への逃避と、およびダダイズム的自滅の気運とが入り乱れて、表現派はドイツを風靡するのみならず」「ついに革命の新機運に乗じてロシアに抜くべからざる表現派の根拠を飢えつけた』。

仲田定之助も『みづゑ』大正14年(1925)6、7月号に、『国立バウハウス』を書いて、その教師としてのカンディンスキーの横顔にふれている」。


針生氏の記述は続いてバウハウス時代のカンディンスキーに移ります。バウハウスを「文化ボルシェヴィズムの巣窟」と解体され、ナチスに追われてドイツを脱出するところまで。
この部分で針生氏はシェーンベルクの音楽の印象を語っています。カンディンスキーのバウハウス時代の作風の変遷をたどりつつ、こんなふうに。

「そこでは、合理的、意識的な構築がつよまればつよまるほど、そのはてにますます非合理で謎めいたもの、魔術的な陶酔と生命の跳躍がうかび上る。彼の友人シェーンベルクの厳格な音楽(ママ。音楽理論か <引用者注>にもとづく音楽が、ぶきみな狂気と夢魔の深淵をかいまみせるように、幾何学的な形態、冷静だがゆたかな色調、明晰な緊張をはらんだ構築が、ときにフーガのように壮大で、ときにソナタのように優美だとしても、その底につねに超感覚的な共鳴音をひびかせている」。


そして、カンディンスキーはパリへ行きます。「パリでは、はじめ、だれもカンディンスキーを知らなかった」(ニーナ・カンディンスキー)。最晩年のカンディンスキーの作品に、針生氏は「天体望遠鏡と顕微鏡が合体し、合理性と魔術が交錯するようなこの世界に、わたしは彼の生涯の探究を綜合した、沈黙の巨大な交響楽がひめられているのを感ずる」と。そしてその時代。


「ナチス・ドイツと同盟してファシズムの道を歩んだ日本では、亡命者カンディンスキーの消息はタブーであった。にもかかわらず、麻生三郎、長谷川三郎、鶴岡政男ら1930年代の青年画家たちのあいだに、カンディンスキーの『絶対』をめざす抽象絵画の理念は、危険をはらんだ黒い啓示のように語りつたえられていたらしい。

日中戦争中の昭和13年(1938)6月の『アトリエ』には、彼の『わが木版画』という文章と三点の版画が、何の注釈もなしに大島博光訳でのっている。
『曾つて画家が文章―たとへそれが手紙であってさへも―を書くときは、画家はなにか≪横眼≫で見られてきた。…(略)…もしも、理論家がただ思索して描くことができないならば、画家はただ描いて思索してはならない、と考へられた時代である。…(略)…われわれをとりまき、われわれを綜合の自由に駆るところの多くの事実(<事象>ともいへよう)のうへに眼を閉じてゐることは不幸であり、不注意である。道を塞がうとする人々に至っては更にこまったものである』。


針生一郎氏の文章の結びには、「カンディンスキーは1944年、ドイツ占領下のフランスで死んだが、その仕事の全貌と死をわたしたちは久しく知らなかった。1950年代以後、彼の著書『芸術における精神的なもの』『点・線・面』『芸術と芸術家』があいついで翻訳され、ようやくわたしたちはこの作家の透徹した思索の全体をうけとめることができた。

だが、この一世紀のあいだ、日本人はもっぱら複製をとおしてのみカンディンスキーを理解してきたのであって、1920年代、30年代のアヴァンギャルド運動にも、その一点で一知半解、隔靴掻痒のおもむきがつきまとっている。今回ニーナ夫人所蔵の代表作品を陳列するカンディンスキー展が、このような一世紀の近代日本美術史の、ゆがみをただす機会になることを祈っている」。


これで「青騎士」正編、後日談、補遺、付録、36回に及んだシリーズは幕を閉じます。
シェーンベルクが日本に入ってきたときは、どうだったの?
はい。次回はそのこと。「大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』」が幕を開けます。

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