最近のトラックバック

« 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その3 | トップページ | 臨時再掲載  「大阪都」の前に »

2011年3月25日 (金)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その4

序章/澤田柳吉なる洋琴弾きがシェーンベルクの音楽を日本初演したること(3)


前項、澤田柳吉の残したSP目録の続きから。

眞白き富士の嶺 三角錫子作詞 ガードン作曲  ノジサン 379(A) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
ママも知る通り(Voilo Sapete) マスカーニ作曲  トウキョウ 8731  原信子 澤田柳吉(ピアノ) (歌劇「カ    ヴァレリア・ルスティカーナ」 1918(大正7).12) *東京蓄音器
夕空晴れて フジサン 362(B) 山下禎子 澤田柳吉(ピアノ伴奏)
同上     ヒコーキ 2126B  同上
夜の調べ  フジサン(トウキョウ) 1379(B) 原信子 澤田柳吉(ピアノ) 1918(大正7).12 東京蓄音器
夜の調べ(Serenade) グノー作曲  トウキョウ 8731  原信子 澤田柳吉(ピアノ)
ローマンス  フジサン(東京) 1378(A) 原信子 澤田柳吉(ピアノ) (カヴァレリア」中の一節 1918(大正7).12 *富士山印 *東京蓄音器

以上、「日本の作曲家・演奏家 SPレコード総合目録」(木村喬 著・編纂、アナログ・ルネッサンス・クラブ 制作・公刊)からの引用でした。

澤田柳吉についてはSPファンのブログに、おもしろいエピソードをみつけました。
「。「日本一の洋琴家」といふ看板を引っさげて浅草オペラの舞台に立ったまではよいが、洋琴音楽を理解できぬ見物客から罵声を浴びせられ辞めてしまった。1923年の関東大震災の後、関西方面に移り、貴志康一とデュエットをするなどした」。
以上、浪漫亭随想録「SPレコードの60年」から。http://blog.goo.ne.jp/tenten_family6/e/a661466b1c27b6ef8ead2df7c084abe9

貴志康一は芦屋市伊勢町にいました。澤田柳吉も、ことによると貴志康一とともに芦屋浜を散歩したかも。貴志康一はレオ・シロタと仲が良かった、との話をご遺族からお聞きしていますが、意外なところで意外なつながりがあったものです。

ところで、前項のクリストファ・N・野澤氏の文の一節に「1909年にリサイタルを開いており、日本人のピアニストでは最初といわれている」とあります。その前にはなかったのか。幸田延先生は? と調べるうちに、ある一冊の本に出会いました。

『日本洋楽外史』野村光一・中島健蔵・三善清達(ラジオ技術社)。副題は「日本楽壇長老による体験的洋楽の歴史」。初版は昭和53年(1978年)7月15日。
「ステレオ芸術編集部」の提案をうけて、当時のNHK洋楽チーフ・ディレクターの三善清達氏が当時の長老お二人に話を引き出されました。野村光一氏は明治28年(1895年)生まれ。中島健蔵氏は明治36年(1903年)生まれ。野村氏は幸田延の演奏を聴いておられる。座談会形式で、この本は進められます。つぎのように。


当時は「例えばリサイタルといっても一人だけのものではなくて、どれもジョイント・リサイタルみたいだった。普通の音楽会というと一つ一つ演奏家がみんな違うんだよ。声楽もあればピアノもあり、ヴァイオリンもあればコーラスもあるといった具合にね(中島健蔵)」。

「幸田延さんが明治29年に帰朝された時の演奏会のプログラムを見ますと、まずメンデルスゾーンのヴァイオリンですよね。それから独唱としてブラームスの《五月の夜》を歌っているんですね。そうするとヴァイオリンから歌まで、どれもおやりになった……(三善清達)」。


明治廿九年五月「音楽学校同声会」プログラム(幸田延帰朝紹介)
1.洋琴聯弾 ボアエルデュー氏作《才女》 内田菊子、由比くめ子
2.唱歌 ウェッベ氏作曲 鳥居忱氏作歌 《那須与一》 会員
3.バイオリン独奏 メンデルスゾーン氏作 《コンサルト第一部》 幸田延子
4.三曲合奏 峰崎勾当作 《吾妻獅子》
5.風琴独奏 バハ氏作 《コンサルト》 島崎赤太郎
6.音楽四部合奏 ヘイデン氏作 《第一部》 第一バイオリン 幸田延子、ほか
7.クラリネット独奏 モザート氏作 《ラーゲトー》 吉本光蔵
8.洋琴独奏 ビートーベン氏作 《ムーンライトソナタ》 遠山甲子
9.独唱歌(ドイツ語) 甲 シューベルト氏作 《死と娘》 乙 ブラームス氏作 《五月の夜》 幸田延子
10.バイオリン独奏 バハ氏作 《フーゲ》 幸田幸子ほか6人
11.唱歌 甲 シューマン氏作 《夢》 乙 ヘイデン氏作 《春の夕景》 会員
12.三曲合奏 《岡安砧》 筝 今井慶松、ほか  


幸田延のウィーン留学を勧めたのは、有名なヴァイオリニスト ヘルメスベルガーの弟子のディードリッヒだった。ほかにも日本に西洋音楽を伝えたケーベル、ユンケル、ペツォルド夫人らの名が挙がり、話はやがて当時の聴衆のことに移ります。

「あの頃の聴衆の一つの特徴は社交界だったということだよ。何となく音楽会へ行くという習慣を外国生活して持っている連中のね(中島健蔵)」。
「鹿鳴館の名残りという感じもあったんですか?(三善清達)」。

「僕は鹿鳴館時代の聴衆を多少知っていたけど、その連中音楽なんてまるっきり判りゃしないんだよ、ひどいものだった。要するに社交ですよちっとも面白くないけど、これも文明開化だからって(中島健蔵)」。

「つまるところ、文明開化のアトモスフィアに一つの余興を添えるために西洋音楽があったということなんだな。鹿鳴館の場合はそれでいいと思う(野村光一)」。


そんな空気がまだ残る日本で、澤田柳吉はシェーンベルクを演奏したのです。彼に楽譜を提供した大田黒元雄について、いよいよ始めます。次回の更新のときに。


 

  
 

« 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その3 | トップページ | 臨時再掲載  「大阪都」の前に »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その4:

« 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その3 | トップページ | 臨時再掲載  「大阪都」の前に »

twitter

  • twitter
2024年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ