最近のトラックバック

« 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その1 | トップページ | 臨時のお知らせ »

2011年3月 7日 (月)

大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その2

序章/澤田柳吉なる洋琴弾きがシェーンベルクの音楽を日本初演したること


カンディンスキーは存命中に日本に呼ばれようとした(関東大震災により実現せず、でしたが)事実を知ったとき、日本の美術界には「西洋との同時代性」を意識していた人たちがいたんだ、と痛快に思いました。
じゃ、シェーンベルクはどうだったんだろう、と調べ始めたのが本項の発端です。


日本の現代音楽について詳しく書いてある本として、『日本戦後音楽史』(平凡社)を持っています。上巻が1945-1973。下巻が1973-2000。それぞれ500数十ページに及ぶ大冊で、初版は2007年2月20日です(上巻)。日本戦後音楽史研究会=編。佐野光司(代表)、石田一志、片山杜秀、後藤暢子、高久暁、長木誠司、楢崎洋子、沼野雄司、水野みか子、村田真穂各氏による力作です。


ところが。
上巻240頁に始まる「十二音技法受容前史―戦前期におけるシェーンベルク受容の概要」をひもとけば、僕の知っていることも知らないこともくまなく書いてある、と期待したのですが、その最初の行「日本におけるシェーンベルクの活動や作品の紹介は、1920年代初頭、年号で言えば大正時代の末期から始まっていた」からして、歴史的事実とは異なります。


大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』こそが日本で初めて「未来派の新人」としてシェーンベルクを日本に紹介した文献であり、のみならず、大田黒氏は欧州で彼の作品を実際に聴き、楽譜を持ち帰りもしたのです。同書の初版は、大正4年5月4日。西暦1915年ですから、『日本戦後音楽史』の当該記述は「1910年代半ば、年号で言えば大正時代の初期から」と改めなければ精確とはいえません。


そして242頁。「記録に残された最初期のシェーンベルク作品の演奏は、1925年に東京で『未来派音楽』として演奏された≪三つのピアノ曲.≫作品11であろう」という記述。どうして演奏者名を書かないのか。こういう本では演奏者の名前を記しておくのが歴史への敬意であるのに、それを失している。いずれにしても、これも事実とは違います。最近になって、次のような新聞記事が出ました。


資料が奏でる日本音楽
近代音楽館で、収集・整理に携わり20年以上 林淑姫
2010/10/28付日本経済新聞 朝刊

「えっ、『赤とんぼ』の作曲者って分かってるんですかあ?民謡かと思ってた」。日本近代音楽館を見学に訪れた、ある学生の言葉である。
人々に長く歌い継がれ、すっかり馴染(なじ)んだ歌は往々にして作者の存在を隠す。とすれば1927年に発表された「赤とんぼ」の「民謡」説は、作者にとって勲章のようなもの。近代日本を代表する作曲家、山田耕筰もあの世でほほ笑んでいることだろう。
 近代日本の音楽は歌から始まったが、歌に終始したわけでは無論ない。第2次大戦前に限っても、オペラあり、管弦楽曲あり。ピアノ曲も室内楽も数知れずある。しかし演奏機会が多くなければ、次第に忘れ去られる。

 歌以外の楽譜出版は稀

 楽譜が出版されていれば事情も多少変わるが、楽譜出版が成熟していなかった戦前の日本の場合には、歌以外の出版は稀(まれ)だった。思い出す手立ては、発表当時の手書き楽譜だけ。それが失われれば諦(あきら)めるほかない。
 明治に導入された西洋音楽。その音楽に表現をかけた日本の作曲家たちが、いかに貪欲(どんよく)に学び、自身の音楽を創(つく)ろうとしたか。音楽を愛する人々がモーツァルトやベートーベンばかりでなく、内外の同時代の音楽にどれほど熱い関心を寄せ、自分たちの音楽を育てようとしていたか。それらを語る資料にどうしたら接することができるか。

 87年秋、遠山音楽財団附属図書館(66年開設)を改組して創設された日本近代音楽館は、長く望まれながら、なかなか実現に至らなかったこの空白の領野を埋めた。日本の近代・現代音楽を専門とする唯一の資料館として、手稿を含む楽譜を中心に種々の関係資料(雑誌、書籍、録音物、演奏会プログラム、文書類など)を収集・整理して広く一般に公開し、研究や演奏、出版など多様な利用に応えてきた。
 蔵書総数はおよそ50万。山田耕筰、伊福部昭から戦後世代の芥川也寸志、黛敏郎、武満徹に至る作曲家を中心とした記念コレクションも百二十余を数える。

厚意と理解支えに

 創設から20年以上にわたって、音楽評論家の遠山一行氏が運営する財団法人日本近代音楽財団のもとで活動を続けてきた。だが、今夏、明治学院大学に所蔵資料を寄贈し、今後の運営を託すことになった。高齢になられた遠山先生の、近代音楽館の将来を熟慮された上での決断である。
 私は遠山館長のもとで創設時から近代音楽館にかかわり、終盤は事務局長を務めた。その仕事を振り返れば「楽しかった」の一言に尽きる。

 資料を寄せてくださる方々の厚意と理解に支えられた20年。熱心に楽譜を探す演奏家、一枚の紙片に目を輝かせる研究者、思い出の童謡を確かめてうれしそうに帰って行く一般の閲覧者たちに励まされて過ごしてきた。苦心も苦労もなかったとは言わないが。
 手書き資料の整理に適当なお手本が見当たらず、やむを得ず考案した目録法。増加の一途をたどる資料の群れ、その中に分け入り、ためつすがめつ見て整理する毎日。古い資料はしばしば埃(ほこり)とカビをまき散らす。カブレてかゆい顔や腕をさすり、「ホコリ高き仕事」とぼやく。

 十人十色というが、作曲家たちの手稿はさまざま。既に整理した作曲家の目録法がそのままでは通用しない。目録にすべき要素が人によって微妙に違うのである。基礎データは共通させなければならないが、あとは工夫。細心の注意を払って作曲家の特徴をつかむ。
 音楽館が創設されたころから、戦後の音楽をけん引してきた作曲家の他界が続いた。楽譜や関係資料を託された者の責任は重い、と思う。

 海外へのアンテナ高く

 楽譜ばかりではない。日本の音楽活動を語る資(史)料は多種多様。思わぬ資料が“紙くず”の山からひょっこり顔を出すこともある。

 例えば、14年11月14日に開催された演奏会の小さなプログラム。20世紀の大作曲家シェーンベルクの無調のピアノ曲が本邦初演されたことを告げている。作品はその数年前に発表されたばかり。楽譜提供者は大田黒元雄、演奏者は沢田柳吉。海外の新しい音楽に向けられたアンテナの高さに改めて驚かされる。

 資(史)料が日本の音楽の歩んだ道を語る。その語りに無心に耳を傾ける。それが資料に携わることの極意かもしれない。
 明治学院大ではいま、運び入れた資料や機構の整備に大わらわである。苦労を察しつつ、新しい日本近代音楽館の活動に期待したい。なにがしかの助言ができれば幸いである。

(りん・しゅくき=明治学院大学客員教授)


この記事にあるごとく、澤田柳吉が大田黒元雄が持ち帰った楽譜によってシェーンベルクを(おそらくは作品11か。これは明治学院大学へ行って、資料を見せていただければ分かることです。芦屋に住む僕としては、なかなか東京へ行く機会がないことが歯がゆいばかりです)日本で初めて弾きました。

それにしても、『日本戦後音楽史』の当該項目の筆者は、どうして「日本近代音楽館」を訪ねることをしなかったのか。そこへ行って調べれば、澤田柳吉が1914年にシェーンベルクを日本で初めて弾いたことが明らかになったはずなのに。そして、日本のシェーンベルク受容に大田黒元雄が大きな功績をのこしたことも判ったはずなのに。

« 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その1 | トップページ | 臨時のお知らせ »

コメント

あれほどの大著なのですから誤りがあるのも当然です。まず出版社に連絡しましょう。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その2:

« 大田黒元雄著『バッハよりシェーンベルヒ』 その1 | トップページ | 臨時のお知らせ »

twitter

  • twitter
2021年7月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ