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2011年2月

2011年2月23日 (水)

「青騎士」について その35 付録1

前項の、

「カンディンスキーの大きな展覧会が日本で初めて開かれたのは、1976年のことでした。西武タカツキでの図録がいま手元にありますが、当時お元気だったニーナ夫人の書いた「夫カンディンスキー」という文章が載っています。
『1922年の8月にワイマールに住んでいたカンディンスキーは、近代美術の講演をするために日本から招待を受けました』。
なんと、そんなことが! それについて詳しく書いてると長くなりすぎるので、続きは次回更新のときに」。

の続きです。カンディンスキーの日本での受容について、ですがシェーンベルクの同じことも併せて書こうと思ってました。しかし、シェーンベルクについては、本に書いてあることが「本当にそうなのか」調べてから書くことにします。『日本戦後音楽史』(平凡社)が基本書だと思うのですが。


さて、1976年の「カンディンスキー展」の目録(朝日新聞社 西武美術館)には、まず当時の駐日フランス大使ブリュネ氏のメッセージ、パリ国立近代美術館長ラセーニュ氏の「先駆者・カンディンスキー」、続いて前掲ニーナ未亡人の文章「夫カンディンスキーのこと」が掲載。

カラー図版12枚(紙の表に一点ずつで裏は白紙です)を挟んで、日本人の文章。まずカンディンスキー研究の第一人者、西田秀穂氏の「カンディンスキーの芸術と思想と」が掲載されます。(巻末の詳細な年譜と主要文献目録も西田氏の編まれたもの)。次に詩人・大岡信氏の「カンディンスキー頌」。彼はパリ郊外ヌイイ・シュル・セーヌのカンディンスキー夫人宅(カンディンスキー歿後の)を訪問したことがあったのです。


そして、針生一郎氏の「カンディンスキーと日本」という文章があり、カンディンスキーの日本での受容について詳しく書かれています。その部分、ざっとカンディンスキーの生涯を「青騎士」までたどったあと、こう始まります。


「ところで、明治初年以来西欧文明の古典から現代までを、ごちゃまぜにとりいれていた日本は、明治末、大正初頭にいたって、ようやく西欧との同時代性の自覚に達した。
カンディンスキーの名がはじめて日本に紹介されたのは、わたしの知るかぎり、大正2年(1913)木下杢太郎が『美術新報』に連載した<洋画における非自然主義的傾向>というエッセイによってである。


このエッセイは岸田劉生、萬鉄五郎、高村光太郎、斎藤与里らの「フューザン会」に対する批評からはじまり、印象派、後期印象派からカンディンスキーらの表現主義と、ピカソ、ブラックらのキュビニスムにいたる流れを、詳細に解説したものである。


すでに表現主義の父といわれるムンクは、ベックリン、ホドラー、クリンゲルなど北方の幻想絵画とともに、雑誌『白樺』によってしばしば紹介されていた。そして、表現主義はキュビスムや未来派と明確な区別なしに、何よりもムンクへの傾倒にみちびかれて、フューザン会、草土社、二科会、創作版画などの青年画家たちのあいだで、合言葉となっていった。


とりわけ、ムンクの木版画の強い表現力に啓発されて、創作版画にうちこみ、竹久夢二と協同して詩や装幀にも手をそめていた恩地孝四郎は、カンディンスキーの抽象芸術をもっとも早く、もっとも正確にうけとめた一人だろう。
大正3年(1914)、彼が美校時代の友人田中恭吉、藤森静雄とともに創刊した、詩と版画の同人誌『月映』には、黒白の空間の亀裂のあいだに眼が一つのぞいているような、日本最初の抽象絵画が数多く発表されている」。


そして記述は第一次大戦勃発後のカンディンスキーの足取りをたどって、バウハウスに赴くところまで。
「第一次大戦後の好景気を背景として、ヨーロッパ最新の芸術思潮は堰を切ったように日本になだれこんできた。大正11年(1922)2月の『みづゑ』には、画家の田辺泰が『カンディンスキイの芸術思想』という文章を発表している。彼は『芸術における精神的なもの』にもとづいて、『印象』『即興』『コンポジシオン』を芸術発展の三段階になぞらえていう。


『具体的にいへば、セザンヌ、ゴッホ、ピカソの絵も其の背景は外部の世界であるが故に単音律である。然るにカンディンスキイは其の根抵を内部の自我に基いて居るが故に、彼の理想は交響楽的である。
彼の論に従へば、単音律的の芸術は其の技巧を全部抜きにして、只だ単純な線と、原始的な形体とにした表現法迄進化はしたものの、此の先の世界は行きつまって居る。
硬化した芸術は死んだ芸術である。単音律の芸術は或る程度迄の発達はする事が出来るが、其れが無限に広まって行く事は出来ない。カンディンスキーの前には永遠の道が開かれて居る』。


この文章が発表されて半年ほど経った1922年8月、バウハウスにいたカンディンスキーは日本から招待を受けました。そのことを書いたニーナ夫人の文章にも、針生一郎氏の文章にも「誰が」「どういう団体が」彼を日本へ呼ぼうとしたのかは書かれていません。しかし、針生氏の文章で当時の日本画壇の様子はよくわかります。『叫び』のムンクが支持されていたことなど、僕としてはうれしい。恩地孝四郎の作品も好きです。


ちなみにカンディンスキーは、ついに日本に来られませんでした。
理由は、ニーナ夫人の文章を引きます。
「活動をはじめたばかりのバウハウスを去ることが出来ないので、彼はこの旅行を1年後に行うことを約束しました。残念なことに数ヶ月後に大地震がおこり、多くの災害が発生し、この計画の実現が不可能になりました」。

……今夜はここまで。やっぱり、長くなるな(笑)。続きは次回更新のときに。

2011年2月17日 (木)

「青騎士」について その34 補遺3

シェーンベルクとカンディンスキーの往復書簡は、これまでにシェーンベルクの手紙の紹介は終わりましたが、カンディンスキーの手紙の最後のものは、まだだったからです。ひとまずは、それを読んでください。とても長いので、複数回になりました。今回はその第3回目。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)から引用します。


「あるいはまたここでは、やってもむだなほど、古いポスターの撤去が見られます―いつか雨が片づけてくれるでしょう―そこであなたは、一年前に行なわれた音楽会を知らせる、外見に新鮮な一枚のポスターを目にすることができます。

あなたはまた、バスの車掌に彼の受け持つ線の発着時間表を尋ねると、「それは変わりましてネ」という返事を受け取ります。しかしそれがどのように変わったのかについては、ほとんど誰からも聞けないでしょう。
人は腹を立て、笑い、そして満足します。そのような事態は、正真正銘のドイツ人にとっては命取りになるでしょう。


親愛なシェーンベルクさん、あなたはまだ、わたしたちが―あのシュタルンベルク湖畔で―知り合ったときの様子を思い出せますか。わたしは汽船に乗って、短い皮ズボンをはいて到着し、一種の白黒版画の光景に出会いました―あなたは白づくめの服を着ていて、ただ顔だけが深い黒に陰っていたのです。

そしてそのあとムルナウでの夏のこと。ずっと昔のこの時のことを思い出すと、わたしたちの当時の同時代人たちはみな大きなため息をついて、「うるわしい時代だった」といいます。

それは実際うるわしいものでした、うるわしいより以上のものでした。
あの時代はどんなにすばらしく生命が脈打ち、わたしたちは間近い精神の勝利をどんなものになるかと期待していました。今日もなお、確信に充ち溢れて、それを期待しています。ただ、それにはまだ長い、長い時間がかかることをわたしは心得ています。


あなたがわたしから聞きたいと願っておられたわたしのお知らせは、長くてこまごましたものになってしまいました。その「お返し」を待っています。その間、あなたの奥さんにもたくさんの心からの挨拶を申し上げます、わたしの妻も同様によろしくと申しています。

                              あなたのカンディンスキー

そうです!アメリカへ行けたら、すばらしいでしょう―ただ訪問の形ででも。数年来それを計画しています。少なからぬ費用のことはともかくとして、今までのところいつもいろいろと障害がおきてきました。こちらへ移住した最初の二、三年は、やっと訪れた自由を仕事のためにできるだけ無制限に享受し、思う存分に利用するため、パリをけっして離れないようにしようと思っていました。しかし一度アメリカを見たいという夢は、ずっとつづいて残っています」。


この後、シェーンベルクからの返書はなく、またカンディンスキーから出されたシェーンベルクへの手紙もなく、したがって、これをもって『シェーンベルク/カンディンスキー往復書簡』は終結します。初めて知りあったときの様子の、いかにも画家らしい描写。『青騎士』の時代への熱い追憶。日付は1936年7月1日でした。

1934年、ヒンデンブルク大統領死去後、ヒトラーは国家元首に就任。1935年、ニュールンベルク法、制定。「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」の総称で、この法律でナチス・ドイツはユダヤ人から公民権を奪い取ったのでした。

1936年はレニ・リーフェンシュタールが記録映画をつくった「ベルリン・オリンピック」開催。翌1937年、ヒトラーは戦争計画を固め、翌1938年、オーストリア併合。ウィーン・フィルの指揮者でもあったブルーノ・ワルターは同フィルとの録音をマーラーの「交響曲第9番」を最後に、パリへ逃げます。しかしやはり一時避難先にすぎず、結局はアメリカが安住の地になったことは、シェーンベルクと同じです。シェーンベルクは1933年に渡米。


カンディンスキーは、おさらいですが、1933年ナチの弾圧により「バウハウス」閉鎖。それにより失職。ただちにパリへ移動します。翌1934年から作品のタイトルをフランス語で記すようになります。1935年、コート・ダジュールに夏を過ごす。1936年、ピサ、フィレンツェに旅行。「コンポジシオンⅨ」を制作。カンディンスキーは「自由」でした。

1937年、パリ万博にピカソが「ゲルニカ」を出品した年ですが、ナチス・ドイツはカンディンスキーの作品を57点没収します。「退廃芸術」の烙印を押されて、ドイツ各地の美術館で巡回展示されました。のち、「処分」。

カンディンスキーは1939年にフランス市民権を得ます。翌1940年、ナチス・ドイツ軍侵入当時、ピレネー山中に2か月間引きこもりました。そして1944年、「穏やかな飛翔」を絶筆にして、12月13日に亡くなりました。8月の連合軍によるパリ解放のあとでしたが、1945年のヒトラーの死とナチス・ドイツの敗北は知らずに。また、アメリカへは行くことなく。


カンディンスキーの大きな展覧会が日本で初めて開かれたのは、1976年のことでした。西武タカツキでの図録がいま手元にありますが、当時お元気だったニーナ夫人の書いた「夫カンディンスキー」という文章が載っています。

「1922年の8月にワイマールに住んでいたカンディンスキーは、近代美術の講演をするために日本から招待を受けました」。
なんと、そんなことが! それについて詳しく書いてると長くなりすぎるので、続きは次回更新のときに。

2011年2月14日 (月)

「青騎士」について その33 補遺2

シェーンベルクとカンディンスキーの往復書簡は、これまでにシェーンベルクの手紙の紹介は終わりましたが、カンディンスキーの手紙の最後のものは、まだだったからです。ひとまずは、それを読んでください。とても長いので、一回では終わりそうにありません。今回はその第2回目。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)から引用します。


「とくにパリでは、必ずしもさけられないもっとほかの不利な面があります。わたしたちはここではかなりひっそりと暮らしています、つまりとくにわたしはできるだけ『芸術上のかけ引き』からも、また親密すぎる仲間づきあいからも遠ざかろうと努めています。しかし芸術上のかけ引きはブヨのようなものです。

それというのもそれは取るにたりない小さなものではなくて、とても小うるさく、どんなに小さな鍵穴でもくぐり抜けるという困った能力をもっているからです、仲間づきあいのほうは……あなたにお知らせする必要もないでしょう。しかしわたしたちは、とても気心の合った、しかもひじょうに国際的な、親密なサークルをもっています。そのほかにもたくさんの外国人に会うことができ、かれらは観光シーズンに(ちょうど今夏です)パリへやってきますが、時たま有益で好ましい人たちもいます。


こちらでは仕事がとてもしやすく、それはパリの『明るい面』です。二種類の色彩―物理的な色と精神的な色が―ここでは両者ともとても刺激的です。精神的な色彩のもとにわたしが理解しているのは、なにも直接こちらの絵画のことではなくて、むしろパリの精神的雰囲気です。それが何でできていて、その本質は何かということは、神のみぞ知るというわけで、誰にもわかりません。


定義できないのです。ここでさまざまなものが入り乱れ、並存しているさまは、『スラヴ魂』に照応しています。いかなる国においても、ここでフランスの『お巡りさん』から聞けるような、『ムシュー、それはばかげています、しかしそれはそれにもかかわらずそのとおりなのです』というふうな警察条例の説明はおそらく聞けないでしょう。ここではすべてが―最古の伝統と前衛的なものとが―同時的に並んで生きています。


フランス人は、『平穏であれ』と願うことと革命を起こすこととを同時に欲するのです。
フランス人は、ものすごく猛り立ったかと思うと、そのあとすぐ深くて情趣豊かになりうるのです。


そしてこのことはあらゆることがらに反映されています―混乱―並存。
あなたはパリの街をよくご存知でしょう。内面的なものは外部にもはっきり反映されています、たとえばいわゆる『瀟洒(しょうしゃ)な』通りに並ぶ家々の(それは必ずしも「家々」とと呼ばれるものではなく、何といったらよいかわからないのですが)途方もない対立にも十分あらわれています―宮殿とそのすぐそばに『魔女小屋』があり、それはゆっくりと、しかし数年来確実に崩壊しています」。


「あるいはまたここでは、」とパリの描写が続きますが、今夜はここまで。
パリのロシア人画家、カンディンスキーの眺め、感じるパリは20世紀の初頭、世界の芸術家があつまり、大喝采と大ブーイングが渦巻く、最高に活気ある芸術の都でした。

まず1900年のパリ万博。西洋諸国に力を見せたい明治政府は、法隆寺金堂風の日本館を建造。御物を含む美術品を展示。また川上音二郎・貞奴夫妻が来演し、大人気となりレコード録音もされました(もちろんSP)。ピカソがパリへ出たのも1900年です。1901年、ロートレック没。1903年、ゴーギャン没。その年、パリで「サロン・ドートンヌ」創立。1905年、そこへ「野獣派」出品。ロシアで「血の日曜日」事件。1906年、セザンヌ没。

そして1909年5月19日、シャトレ座でディアギレフのロシア・バレエ団(バレエ・リュス)がパリで初公演を遂げます。バレエダンサーはヴァツラフ・ニジンスキー、アンナ・パブロワ、ミハイル・フォーキン、イダ・ルビンシュテインなどロシア人が占めますが、音楽に参加したのはロシア人のストラヴィンスキー、グラズノフ、プロコフィエフらに加えてドビュッシー、ラヴェル、サティらフランス人、スペイン人のファリャ、ドイツ人R/シュトラウスら。指揮者はモントゥー、アンゲルブレシュトらフランス人とスイス人のアンセルメら。

美術ではマティス、ルオー、ドラン、ピカソ、ブラック、ユトリロ、デ・キリコ、ローランサン。衣装はココ・シャネルも協力しています。


彼らの演目でもっとも物議をかもしたのは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」であることは間違いないでしょう。大ブーイング。観衆には音楽が理解できなかったのです。指揮者モントゥーの背中には生卵がぶつけられる始末。しかし楽屋に引き上げて、ディアギレフもストラヴィンスキーもモントゥーも「これだけ騒ぎを引き起こしたんだから大成功だ!」と大喜びだったそうです。


シェーンベルクにカンディンスキーは「あなたはパリの街をよくご存知でしょう」と、この手紙で書いています。シェーンベルクがパリに滞在したのは、1933年5月、ナチスに職を追われて明日がない心境のうちに、プロテスタントからユダヤ教に改宗した街でした。10月にはアメリカへ渡っています。この間、なにも作曲せず。彼がカンディンスキーの「パリの話」を楽しんで読めたかどうか。


あと一回で「カンディンスキーの最後の手紙」は終わります。それは次回の更新のときに。

2011年2月 9日 (水)

「青騎士」について その32 補遺1

前言を翻して、まだ続けることにしました。

シェーンベルクとカンディンスキーの往復書簡は、これまでにシェーンベルクの手紙の紹介は終わりましたが、カンディンスキーの手紙の最後のものは、まだだったからです。ひとまずは、それを読んでください。とても長いので、一回では終わりそうにありません。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)から引用します。


カンディンスキーよりシェーンベルク宛
ヌイイ・シュル・セイヌ(セイヌ) プールヴァール・ド・ラ・セイヌ135 フランス  1936年7月1日

「親愛なシェーンベルク様
ダンズ氏をとおしてあなたから簡単なお便りを受け取り、とてもよろこびました。

かれは二、三日前わたしを訪ねてきて、とても興味深い印象を残してくれました。わたしはまたかれの『ツァラトゥストラ』という本をもらい、すでにいくらか読みましたが(英語の本をたくさん読むのはわたしにとってそう簡単なことではありません)、そのさい何度もあなたの名前にぶつかって、性格づけがとてもうまくできていると思いました。


わたしはシャイアー夫人にあなたやあなたの安否を繰り返し問い合わせ、あなたが英語圏で輝かしい境遇にいらっしゃることを知って、ほんとうに心から喜びました。ダンズ氏は、かれが訪ねてくるより以前のその消息を確認して、あなたが今はカリフォルニアで音楽のある(よりよくいえば『あの』)独裁者だと、言っていました。すばらしい! わたしは、あなたご自身、親愛なあなたの奥さんも同様に、その使命に満足なさるよう願っています。


わたしたちは、あなたとわたしは、多年にわたりほんとうに『活動的な』人生を送ってきました―ただとび回ってばかりいたり、何度もとび出したりしました。わたしたちにも本来ならいくらか静けさを求める権利が少しはあるでしょう。控え目に『比較的な』静けさといっておきましょう。わたしの妻とわたしはパリへ来て、まもなく三年になりますが、ここでこの比較的な静けさを見つけようと願っていました。今は実際にそれを手にいれています、もっともその静けさはおそらく少しばかり比較的でありすぎますが。

『また旅じたくか?』と自らに問いかけた時機も二、三度ありました。わたし個人に関しては、すでに三度も荷造りをしました、そして今は『よいことはすべて3だ』と考えています―そこで……さてしかし残念ながらロシア人は、『四隅がなければ(農)家は建たない』といっています。そうだとすれば?


こちらへ来てから、わたしはすばらしい自由の感情をもちました。外と内と、二重の自由です、それというのもきっと、十四年間教育活動をして、そのあと突然直接的な義務をもはやもたなくなったからです。わたしの願望といえば、その自由を保ち、それをさらにもちつづけ、もはや失わないようにすることです。

しかし残念ながらそれもまた財布に依存しています。現在の危機以前のよい時代には、いささか『蓄え』もできて、今わたしたちは大部分その蓄えで暮らしています、目下の絵の売行きでは足りそうにないからです。そういうわけで『資本』が『食いつぶ』されていきます。
しかしわたしは、『正義』がいつか芸術家も想い出してくれるであろうと願っています。無防備な芸術家はストライキすらできないのです」。


「とくにパリでは」と、パリ論が続けられますが、以下は次回の更新のときに。


冒頭、「ダンズ氏をとおしてあなたから簡単なお便りを受け取り、とてもよろこびました」と書かれています。この「簡単なお便り」の内容は明らかにされていません。しかし、カンディンスキーを「とてもよろこ」ばせた言葉を、再びシェーンベルクは書いていたのです。

ダンズ氏とは原書注によれば、おそらくルイス・ダンズ。M.アーミテッジ編の論文集『アーノルド・シェーンベルク』
(ニューヨーク、1937年)に論文「シェーンベルク、避けがたいこと」を書いた、とあります。

シェーンベルクは1933年10月31日に、ボストンのモールキン音楽院教授職のためにニューヨークに到着。しかし厳しい冬に健康を害して1934年秋にロサンジェルスに移ります。1935年から1936年にかけて南カリフォルニア大学で教え、1936年にはカリフォルニア大学ロサンジェルス校の教授に迎えられます。ダンズはその頃のシェーンベルクの様子をカンディンスキーに伝えていました。

1926年からベルリンにいたときにはプロイセン芸術アカデミーの教授。1933年に職をナチスに追われてベルリンを脱出。パリへ一家で赴き、それまで1898年以来ルター派プロテスタントに属していた彼はユダヤ教への改宗を明らかにします。作品としては『モーゼとアロン』(1930-32 未完)以来、1936年にようやく『弦楽四重奏曲第4番』
作品37と『ヴァイオリン協奏曲』作品36が完成されます。『室内交響曲第2番』作品38は1939年。『ピアノ協奏曲』作品42は1942年。

その後、UCLAには1944年9月、70歳の定年まで勤めました。が、在職期間が短かったせいで年金は少なく、個人レッスンを続けなければなりませんでした。体調もベルリン時代に悪化させた喘息に加えて、糖尿病と視覚障害も悪化。1938年に『コル・ニドレ』作品39(ユダヤ教典礼文による語り手、合唱、オーケストラのための曲)、1942年に『ナポレオンへの頌歌』作品41(ナポレオン=ヒトラーへの痛烈な皮肉があります)、戦後には1947年『ワルシャワの生き残り』作品46(収容所に流れるユダヤの聖歌。シェーンベルクの姪はナチスに殺害された)。

そして合唱曲の連作、1949年『千年を三たび』作品50a。1950年『深き淵より』 作品.50bと『現代詩編』作品50c、未完。戦後の器楽曲では『弦楽三重奏曲』作品45が1946年。ヴァイオリンとピアノのための『ファンタジー』作品47が1949年に完成しています。没したのは1951年7月13日。カンディンスキーは1944年12月13日に亡くなっています。次回はカンディンスキーについての話を。

2011年2月 6日 (日)

「青騎士」について その31 後日談3

『シェーンベルクからカンディンスキーへの最後の手紙」を、この項「その23」から「その28」にわたって紹介してきました。1911年に開始された彼らの文通は、友情と連帯の熱い挨拶を交わしあう言葉に始まり、それは1923年のシェーンベルクからの一方的な絶縁状で終わりました。前回に続いて今回は「後日談」その3です。


「わたしが書いたもの、お望みなら、お読みください。しかし論争の返事を送ってよこさないよう、切にお願いします。わたしと同じ過ちを繰り返さないでください。わたしはあなたに次のように言うことによって、あなたをその誤りからふせぐよう試みます。

わたしはあなたを理解しないでしょう、理解できないのです。まだ二、三日前までは、わたしの論証であなたに印象を与えたいと、希望をもっていました。今日はもはやそんなことができるとは信じていませんし、弁護してきたことをほとんど品位の喪失と感じています。(中略)

わたしたちは長らくお目にかかっていません、いつ再会するかどうかも、まったくわかりません、しかしながらもしふたたびお会いする機会があったとき、わたしたちがお互いに目を閉じていなければならないとしたら、それは悲しいでしょう。それではわたしからの心からの挨拶をお受け取りください。

[シェーンベルクのこの手紙には署名がない] 」。(『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)。1923年5月4日付。メートリンクから。このブログその28。)


以上の言葉によりシェーンベルクから訣別を告げられたカンディンスキーは、1923年4月15日付でシェーンベルク。「ヴァイマル バウハウス」から手紙を出したきりでした。そこには、シェーンベルクには、つねに友でいようとするカンディンスキーの笑顔があり、自分もそこで芸術のために働くバウハウスで音楽を教えませんか、という友情に満ちた誘いが書かれていたのです。(その21)


ロシア革命と第一次大戦がないまぜになった数年間は、正確にいえばひんぱんに文通が交わされていた1911年―1914年から文通が復活した1922年7月の一往復の文通までが友情に満ちたものだったのが、いきなり1923年の「ヴァイマルへの誘い」「訣別宣言」のすれちがいになってしまったというわけなので、8年ないし9年の間ということになりますが、第一次大戦とロシア革命については「その20」にすでに書きました。
それに加えて、ドイツでの反ユダヤの潮流がまだ権力を握る前のヒトラーによって語られ始めたことが、シェーンベルクの「最後の手紙」には明らかになっていました。


ここではしばらく、カンディンスキーの「数年間」を追ってみたい。なぜなら、アルマ・マーラーのもたらした「噂」によってもたらされたシェーンベルクとの友情の瓦解は、どれほどの苦しみを彼にもたらしたか測り知れないからです。イリエナ・ハール=コッホは、こんなことを書いていますが。「カンディンスキーは、生涯を通じて正真正銘のコスモポリタンとして、あらゆる差別的な考え方から遠くへだたっていた」としながらも。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)。

「カンディンスキーの発言を再構成してみるまでもなく、両者の不和の客観的原因は、おそらくシェーンベルクとカンディンスキーとの互いに異なった経験の背景に見ることができるであろう、つまりカンディンスキーは、「ユダヤ人問題」(かれ自身その言葉に、留保つきで、引用符号をおいていた)についての、すでにオデッサの少年時代からなじんでいた、さげすんだ、一般化した言い方に、その宿命的な帰結をまだ認めていなかったが、

身をもってそれを体験していたシェーンベルクは、ヒットラーによる人種抹殺へのポイントの切り替えをすでに鋭敏に見抜いていた。当然いきりたったシェーンベルクは、―歴史的な広い展望の点で彼の友にまさっていて―それを習い覚えて後れを取り戻せる力をカンディンスキーに認めず、したがってかれとの交際を断ってしまった」。


カンディンスキーはシェーンベルクより8歳年上でした。1866年生まれ。モスクワに生まれ、5歳からの少年時代をオデッサで過ごし、モスクワ大学で法律と経済を学んだあと、ミュンヘンで彼が絵画に専心しはじめたのは1896年ですから、30歳になっていました。1910年、44歳の年に盟友フランツ・マルクと知り合い、『コンポジシオン』Ⅰ、Ⅱ、Ⅲを製作。『芸術における精神的なもの』を執筆し、すでに実作にも理論にも揺るがないものがありました。

翌1911年、マルクとともに「青騎士」グループ結成。『青騎士』にシェーンベルクを誘い、文通を開始。他にもパウル・クレー、アウグスト・マッケらと親交を結びます。12月から翌1月までミュンヘンで「青騎士展」開催。1912年1月、『芸術における精神的なもの』刊行。2月第2回「青騎士展」開催。5月年刊誌『青騎士』発刊。
1913年1月、ハンブルクで個展開催。新聞紙上に激しい批判記事が載る。3月「シュトルム」誌が擁護者たちの弁護論、手紙などを掲載。10月『回想』と詩版画集『響き』を出版。第1回ドイツ秋のサロン展他に出品ほか、シカゴ、ニューヨーク、ロンドン、アムステルダムで「巡回展」が開催。


そして1914年。4月、ミュンヘンを発ちムルナウへ。第1次大戦勃発のため、スイスへ。ロールシャッハ、ゴルダッハ、11月にはチューリヒへ。バルカン半島を経由してオデッサ、そしてモスクワへ帰ったのが12月21日。大戦には盟友のキルヒナー、マルク、マッケが動員召集され、9月26日にマッケが戦死しました。1915年、モスクワ、セント・ペテルスブルグに出品。油彩画の制作は一点もなし。1916年、ストックホルム、チューリヒ、オスロ、ベルリンに出品。『青騎士』のパートナーだったフランツ・マルクが3月4日に戦死しました。

1917年、ロシア革命。前年暮れにガブリエーレ・ミュンターと別れていたカンディンスキーは、ニーナ・アンドレイフスカヤと結婚。1918年、レーニンのソヴィエト政府の美術行政、人民教育委員会の委員になり、国立工芸工房の教授に任命される。11月、第一次大戦終結。

1919年、モスクワ絵画文化美術館の設立、各地の郷土博物館創設に参画他、モスクワ、ペテルグラードに出品。同年、ドイツではグロピウスがワイマールに「バウハウス」を創設。1920年、芸術文化研究所の設立に参画するも、提出した綱領が不採用になり辞職する。モスクワ、ニューヨークに出品。「青騎士」からはパウル・クレーとファイニンガーが「バウハウス」に招聘される。ヒトラーが「国家社会主義ドイツ労働党」を結成したのもこの年です。1917年からこの年までは「ロシア内戦」の時代。同年から翌1920年はポーランド・ソヴィエト戦争。

1921年、芸術科学アカデミーの創立に参画。しかし12月、ベルリンへ赴きます。次第にヨシフ・スターリンの力が強くなり、彼は前衛芸術を理解しませんでした。ヒトラーと同じように。1922年、カンディンスキーはバウハウスに招かれます。「フォルム・マイスター」として副学長に任じられました。この年にシェーンベルクは「12音階体系」を発表します。またスターリンがソヴィエト共産党書記長に就任、ムッソリーニがイタリアの政権をとったのもこの年です。

そして1923年、シェーンベルクの「最後の手紙」が届きます。
その後も「バウハウス」での仕事を続けながら、1926年60歳で『点・線・面』出版。大規模なカンディンスキー展をベルリン、デッサウ、ドレスデンで開催するなど、彼は彼の仕事を続けました。
しかし、1933年、ヒトラーがドイツ総統になり、バウハウス閉鎖。パリへ出発。
1937年、ナチス政府により作品57点を没収され「退廃芸術」の烙印を捺されました。マルクの『青い馬』についてヒトラーが「青い馬などはいない」と吐き捨てたのは有名です。ベックマン508点、キルヒナー639点、などなども。

晩年を迎えたカンディンスキーはシェーンベルクがいるアメリカへは行かず、彼が過ごした余生はフランスで。パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで1944年に生涯を閉じました。
シェーンベルクは、もう少し生き延びます。ナチス・ドイツの敗北を見届けて1951年まで。


まだ書き残したことがあるかも知れません。
でも、ひとまずは、ここで終わっていいじゃないかという気もします。
大長編「青騎士」について、通読してくださった方、ありがとうございました。

あと書くとすれば、ユダヤ人シェーンベルクの信仰と思想。彼が生きた時代までのヨーロッパ全土に広がっていた反ユダヤの思想、ナチス・ドイツを生んだ土壌、などについてですが、あまりにも重いテーマになっちゃう(笑)

2011年2月 1日 (火)

「青騎士」について その30 後日談2

『シェーンベルクからカンディンスキーへの最後の手紙」を、この項「その23」から「その28」にわたって紹介してきました。1911年に開始された彼らの文通は、友情と連帯の熱い挨拶を交わしあう言葉に始まり、それは1923年のシェーンベルクからの一方的な絶縁状で終わりました。前回に続いて今回は「後日談」その2です。


「最後の手紙」で驚くべきは、シェーンベルクの「ロシア革命」への同時代を生きた人間としての洞察と、やがてユダヤ人を襲うナチス・ドイツへの精確な予見でした。 
メートリンクから出された1923年5月4日付の書き出しは、こうでした。

「親愛なカンディンスキー

私の手紙があなたに衝撃を与えたと、あなたは書いてこられたので、わたしも書きます。実はそのことをカンディンスキーに期待していたのです、もっともわたしは、カンディンスキーのような人物の想像力が、もしその人がわたしの思っているカンディンスキーであるならば、必ず目の前に思い浮かべるにちがいないこと、そのことの百分の一もまだ言ってはいません。

たとえばまだ次のことを言ってはいないからです。わたしが路地を歩いていて、わたしがユダヤ人か、それともキリスト教徒かとあらゆる人びとからみつめられるとき、わたしはカンディンスキーやその他若干の人たちがきわ立たせている人間だと、すべての人にいうわけにはいきません。

他方あのヒットラーという男の意見は確かにかれらのような意見ではありません。そこでそのばあい、このような意見でさえ、たとえわたしが目の見えない乞食のようにその善意を板に書いて、誰でも読めるようにそれを胸につけようとしたとしても、たいして役にはたたないでしょう」。(『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)から引用)


「ヒットラー」という名前が出てきます。
ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP。ナチ党)が政権を握っていた1933年から1945年の間のドイツをいいますが、アドルフ・ヒトラーが権力の頂点に登りつめるまで、1923年はまだ10年も前のことだったのです。

それに手紙が書かれた5月は、1923年11月8日・ 9日にヒトラーやエーリヒ・ルーデンドルフら「ドイツ闘争連盟」がミュンヘンで起こしたヴァイマル共和国打倒のクーデター未遂事件「ミュンヘン一揆」もまだ起こされていないのです。ヒトラーの著書『わが闘争』も執筆(ルドルフ・ヘスによる口述筆記)が始められたのは翌1924年からであり、第1巻は1925年7月18日が初版の日付です。


ヒトラーは1919年9月12日、「ドイツ労働者党」の集会に参加しました。ここで党幹部アントン・ドレクスラーの目に留まり、ヒトラーは入党することになります。彼は次第に党活動に熱中し、1920年には軍をやめ党務に専念するようになりました。

ヒトラーの弁舌は興奮してくるとますます冴え、聴衆を引き込む弁舌をもつ彼は、優れたプロパガンダの才能を発揮します。その扇動的な演説によって多くの党員を獲得し、党の要人となったヒトラーは、退党をほのめかすなどして上層部に圧力をかけ、指導者原理(Führerprinzip)に基づく独裁を認めさせます。
党名を国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP、対抗勢力による通称ナチ)と改め1921年7月29日に第一議長となった。この頃からヒトラーは『Führer』(フューラー、総統や指導者と訳される)と呼ばれるようになります。


シェーンベルクの耳にはその頃からのヒトラーの言葉が届いていて、彼はその反ユダヤ主義とその行きつく先を見抜いていたのです。1933年のヒトラー政権の樹立とともに、シェーンベルクはベルリン芸術アカデミー教授の席を追われ、同年5月ベルリンを去って一家でフランスを経てアメリカに亡命しました。


ヒトラーとナチス・ドイツが、芸術と芸術家に何をしたかといえば「退廃芸術」という、近代美術を道徳的・人種的に堕落したもので、ドイツの社会や民族感情を害するものであるとして禁止するために打ち出した芸術観を打ち出したことが挙げられます。

音楽も「退廃音楽」。メンデルスゾーン、マーラー、シェーンベルク、シュレーカー、ワイル、ゴルトシュミットのようなユダヤ人の作曲家の作品。クルシェネクのようなアフリカ系アメリカ人起源のジャズを取り入れた作曲家の作品。
アイスラーのような社会主義者の作曲家の作品。パウル・ヒンデミットやアルバン・ベルクのような現代音楽の作品。アントン・ヴェーベルンは穏健なヒトラーの支持者だったにもかかわらず迫害を受けました。「山村サロン会報」で紹介したトカイヤーはナチスに殺されましたが、ベルトラン・ジローさんによって芦屋で彼の音楽は復活を遂げました。


文学でも1933年の政権奪取の後、プロイセン芸術院(芸術アカデミー)の文学部門から反ナチ的なトーマス・マンら小説家・詩人多数を追い出し、会員を一新させます。同年5月10日には、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスと大学生らによって「非ドイツ的著作物の焚刑」の名でドイツ各地で焚書が行われました。この間、僕のいちばん好きなドイツの文学者はエーリヒ・ケストナーです。拙著『宗教的人間』に彼のことは行を費やして書きました。


美術では、たとえばエゴン・シーレ。ウィーン美術アカデミーを二度にわたって不合格になったヒトラーは、世紀末芸術など新しい芸術運動に嫌悪感すら抱いていました。1歳年下で合格したエゴン・シーレらが自分と違いアカデミーに迎えられた事について憤りを抱き、後に独裁者となると徹底的に彼らやアカデミーを弾圧下に置きました。


私怨を抱く権力者の政策は徹底されたものになります。年数をかけて執拗なまでに。
まず画壇の巨匠マックス・リーバーマンをはじめユダヤ人芸術家らがその人種のゆえに追放され、ディックスやケーテ・コルヴィッツ(彼女の絵はすばらしい。むきだしの力があります)、ブルーノ・タウト(日本に亡命しました)らも早期に退会させたものの、「退廃的な」美術家や建築家がプロイセン芸術院から追放されたのは1937年7月のことになります。


カンディンスキーもまた「退廃芸術」の烙印を押されることになるのですが、そのことは、次回の更新のときに。


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