「青騎士」について その34 補遺3
シェーンベルクとカンディンスキーの往復書簡は、これまでにシェーンベルクの手紙の紹介は終わりましたが、カンディンスキーの手紙の最後のものは、まだだったからです。ひとまずは、それを読んでください。とても長いので、複数回になりました。今回はその第3回目。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)から引用します。
「あるいはまたここでは、やってもむだなほど、古いポスターの撤去が見られます―いつか雨が片づけてくれるでしょう―そこであなたは、一年前に行なわれた音楽会を知らせる、外見に新鮮な一枚のポスターを目にすることができます。
あなたはまた、バスの車掌に彼の受け持つ線の発着時間表を尋ねると、「それは変わりましてネ」という返事を受け取ります。しかしそれがどのように変わったのかについては、ほとんど誰からも聞けないでしょう。
人は腹を立て、笑い、そして満足します。そのような事態は、正真正銘のドイツ人にとっては命取りになるでしょう。
親愛なシェーンベルクさん、あなたはまだ、わたしたちが―あのシュタルンベルク湖畔で―知り合ったときの様子を思い出せますか。わたしは汽船に乗って、短い皮ズボンをはいて到着し、一種の白黒版画の光景に出会いました―あなたは白づくめの服を着ていて、ただ顔だけが深い黒に陰っていたのです。
そしてそのあとムルナウでの夏のこと。ずっと昔のこの時のことを思い出すと、わたしたちの当時の同時代人たちはみな大きなため息をついて、「うるわしい時代だった」といいます。
それは実際うるわしいものでした、うるわしいより以上のものでした。
あの時代はどんなにすばらしく生命が脈打ち、わたしたちは間近い精神の勝利をどんなものになるかと期待していました。今日もなお、確信に充ち溢れて、それを期待しています。ただ、それにはまだ長い、長い時間がかかることをわたしは心得ています。
あなたがわたしから聞きたいと願っておられたわたしのお知らせは、長くてこまごましたものになってしまいました。その「お返し」を待っています。その間、あなたの奥さんにもたくさんの心からの挨拶を申し上げます、わたしの妻も同様によろしくと申しています。
あなたのカンディンスキー
そうです!アメリカへ行けたら、すばらしいでしょう―ただ訪問の形ででも。数年来それを計画しています。少なからぬ費用のことはともかくとして、今までのところいつもいろいろと障害がおきてきました。こちらへ移住した最初の二、三年は、やっと訪れた自由を仕事のためにできるだけ無制限に享受し、思う存分に利用するため、パリをけっして離れないようにしようと思っていました。しかし一度アメリカを見たいという夢は、ずっとつづいて残っています」。
この後、シェーンベルクからの返書はなく、またカンディンスキーから出されたシェーンベルクへの手紙もなく、したがって、これをもって『シェーンベルク/カンディンスキー往復書簡』は終結します。初めて知りあったときの様子の、いかにも画家らしい描写。『青騎士』の時代への熱い追憶。日付は1936年7月1日でした。
1934年、ヒンデンブルク大統領死去後、ヒトラーは国家元首に就任。1935年、ニュールンベルク法、制定。「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」の総称で、この法律でナチス・ドイツはユダヤ人から公民権を奪い取ったのでした。
1936年はレニ・リーフェンシュタールが記録映画をつくった「ベルリン・オリンピック」開催。翌1937年、ヒトラーは戦争計画を固め、翌1938年、オーストリア併合。ウィーン・フィルの指揮者でもあったブルーノ・ワルターは同フィルとの録音をマーラーの「交響曲第9番」を最後に、パリへ逃げます。しかしやはり一時避難先にすぎず、結局はアメリカが安住の地になったことは、シェーンベルクと同じです。シェーンベルクは1933年に渡米。
カンディンスキーは、おさらいですが、1933年ナチの弾圧により「バウハウス」閉鎖。それにより失職。ただちにパリへ移動します。翌1934年から作品のタイトルをフランス語で記すようになります。1935年、コート・ダジュールに夏を過ごす。1936年、ピサ、フィレンツェに旅行。「コンポジシオンⅨ」を制作。カンディンスキーは「自由」でした。
1937年、パリ万博にピカソが「ゲルニカ」を出品した年ですが、ナチス・ドイツはカンディンスキーの作品を57点没収します。「退廃芸術」の烙印を押されて、ドイツ各地の美術館で巡回展示されました。のち、「処分」。
カンディンスキーは1939年にフランス市民権を得ます。翌1940年、ナチス・ドイツ軍侵入当時、ピレネー山中に2か月間引きこもりました。そして1944年、「穏やかな飛翔」を絶筆にして、12月13日に亡くなりました。8月の連合軍によるパリ解放のあとでしたが、1945年のヒトラーの死とナチス・ドイツの敗北は知らずに。また、アメリカへは行くことなく。
カンディンスキーの大きな展覧会が日本で初めて開かれたのは、1976年のことでした。西武タカツキでの図録がいま手元にありますが、当時お元気だったニーナ夫人の書いた「夫カンディンスキー」という文章が載っています。
「1922年の8月にワイマールに住んでいたカンディンスキーは、近代美術の講演をするために日本から招待を受けました」。
なんと、そんなことが! それについて詳しく書いてると長くなりすぎるので、続きは次回更新のときに。
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