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2011年1月

2011年1月27日 (木)

「青騎士」について その29 後日談1

『シェーンベルクからカンディンスキーへの最後の手紙」を、この項「その23」から「その28」にわたって紹介してきました。1911年に開始された彼らの文通は、友情と連帯の熱い挨拶を交わしあう言葉に始まり、それは1923年のシェーンベルクからの一方的な絶縁状で終わりました。


カンディンスキーはこの長文の手紙に対する返信を出していません。
シェーンベルクへの手紙は、この後、1928年(5月?)18日にワシリーとニーナの夫婦連名で、ジュアン・レ・パンの「ラ・ジレル」から絵葉書が出されていますが、内容はこういうものです。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)からの引用です。


「実際、いずれにせよ『偶然』に運ばれて、わたしたちは同じ地方に来ています。元来はもっと大洋の近くへ行くつもりだったのですが、熱さとここの景色のよさに引きとめられて、ここに滞在しています。あなたとあなたの奥さんがこちらへ訪ねてきてくだされば、いかがでしょう。心からの挨拶を、
     あなたのカンディンスキー

ジュアン・レ・パンをご存じですか。ご存じなければ、あなたはぜひ知っておく必要があります。もしわたしたちを訪ねてきてくだされば、とてもすばらしくなるでしょう。そのさいは前もってお知らせください。
     あなたのニーナ・カンディンスキー」


『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)には「往復書簡」のほかにも史料が含まれていて、その他にイリエナ・ハール=コッホの「カンディンスキーとシェーンベルク」という論考が収められています。そこに驚くべき事実が記されています。シェーンベルクとカンディンスキーの仲を引き裂いたのは誰か。アルマです。


「アルマ・マーラー=ヴェルフェル(作曲家マーラー未亡人、画家ココシュカの恋人、建築家グローピウス夫人、最後に作家ヴェルフェル夫人)がカンディンスキー夫妻のユダヤ人敵視について回想録に書いていることは、ばかげており、両者を不和にさせたのは彼女自身だったのである。


カンディンスキーは、シェーンベルクの衝撃的な返信(1923年4月19日付。「その22」参照)を受けとったとき、途方にくれてそれをバウハウスの創立者で当時のアルマ・マーラーの夫であったヴァルター・グローピウスに見せた。カンディンスキーの未亡人ニーナはこう回想している。


『グローピウスはまっ青になって、それはアルマだ、と思わずいいました。かれはすぐさま、かれの妻がその事件を演出したことを理解しました。そしてかれの想像は正しかったのです、それというのもシェーンベルクは1923年5月にかれに情報を提供したアルマにこう書いているからです。≪もし君さえいなければ、ヴァイマルで(カンディンスキーによって)考えられていることをぼくも経験できたことでしょう。≫』

<引用者注:Erwin Stein編の“Arnord Schoenberg・Letters”(カリフォルニア大学)94頁にその手紙が掲載されています。1923年5月11日付。メートリンクから。英訳では“even without your telling me,the way they now think in Weimar.”です。この手紙の直前にカンディンスキーへの最後の2通。カンディンスキーへの全ての手紙が収められているわけではありませんが、シェーンベルクその人の言葉が相手を変えて読める点で、貴重な本の一冊です。>


多年にわたり、アルマ・マーラーは二人の友だちを引き裂き、その状態は1927年の夏までつづいたが、そのときカンディンスキーは妻のニーナとともにヴェルター湖畔のペルチャッハで休暇をすごしていた。


<ニーナの回想>『ある日の午後、わたしたちが湖畔を散歩していると、突然≪カンディンスキー! カンディンスキー!≫という声が聞こえてきました。それはシェーンベルクでした。
かれは、結婚したばかりの妻ゲルトルートといっしょで、夏休み中そこに滞在していたのでした。[……]かつてミュンヘンで友情を結んだ二人の友が、ここにふたたび相まみえたのです。


例のみじめな陰謀については一言も話に出ませんでしたし、二人はアルマ・マーラー=ヴェルフェルが世間に言い触らしたことなど忘れていました。長らく会わないうちに、シェーンベルクも、アルマがあらぬ噂を立てるためにいかがわしい評判を受けていることを、おそらく人伝てに聞き知っていたにちがいありません。』


しかしながら規則正しい手紙のやり取りはもはや行なわれなかった。」

ということですが、再会の夏の翌年、1928年にカンディンスキーから出されたのが、上に紹介した夫婦連名の絵葉書でした。それに対するシェーンベルクの返書はなく、以後はふたたびカンディンスキーから出された1936年7月1日付のフランスからのを最後に、二人の「往復書簡」は完全に閉じられます。

後日談は、まだ必要です。それはまたの更新のときに。

2011年1月21日 (金)

「青騎士」について その28

「青騎士について」その24から続いているシェーンベルクからカンディンスキーへの最後の手紙。
今回は、その5です。
初めて読まれる方は先の項からお読みください。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)からの引用です。
手紙は1923年5月4日付。メートリンクから。


「そうなればアインシュタインやマーラーやわたしやその他大勢の人たちももちろん処分されるでしょう。
しかし確実なことがひとつあります。
ユダヤ民族の伝統は、他民族よりずっと粘り強いあの基本的な諸要素の抵抗力のおかげで、全人類に対する保護も受けずに二千年もの間保たれてきましたが、全人類といえどもこの基本的な諸要素を根絶することはできないでしょう。


なぜならそれらの要素は、明らかに、神によってふり当てられた課題を満たしうるように形づくられているからです。
つまり亡命の中でも混じり合わず、くじけずに、身を保ちつづけ、ついに救済の時がやってくるのです!


反ユダヤ主義者は、けっきょくたいした炯眼(けいがん)もなく、共産主義者と同様に洞察力のとぼしい世界改良家です。ユートピアンはよい人間であり、実務家はよくない人間です。


これでおしまいにしなければなりません、タイプライターによる手紙書きで目が痛むからです。二、三日中断しなければならなかったのですが、今になって、道徳的、戦術的にとても大きな過ちをしていたことに気づきます、つまり、
わたしは論争していました! 弁護していました!


重要なのは、正と不正、真理と虚偽、認識と無知といったことではなく、権力の問題である、そのことを忘れていました。そしてその点では誰しも目が見えなくなるように思われます、愛におけると同様憎しみにおいても目が見えなくなるのです。


わたしは、論争したって何の役にもたたないことを忘れていました、わたしの言うことに対して人はまったく聞く耳をもたないからです、理解しようとする意志がなくて、他人の言うことを聞くまいとする意志があるだけだからです。


わたしが書いたもの、お望みなら、お読みください。しかし論争の返事を送ってよこさないよう、切にお願いします。わたしと同じ過ちを繰り返さないでください。わたしはあなたに次のように言うことによって、あなたをその誤りからふせぐよう試みます。


わたしはあなたを理解しないでしょう、理解できないのです。まだ二、三日前までは、わたしの論証であなたに印象を与えたいと、希望をもっていました。今日はもはやそんなことができるとは信じていませんし、弁護してきたことをほとんど品位の喪失と感じています。


あなたに返事を書きたいと思ったのは、新しい装いのなかにもわたしにとっては現にカンディンスキーが存在していること、かつてもったことのあるこのような尊敬の念を私が失ってはいないこと、そのようなことをあなたに示そうと思ったからです。


そしてもしあなたがわたしのかつての友カンディンスキーのために挨拶のことづてを引き受けてくだされば、わたしはよろこんで心からの温かい挨拶をいくらかあなたに託したいと思います、しかし次のようなメッセージをつけ加えないでおくわけにはいきません。


わたしたちは長らくお目にかかっていません、いつ再会するかどうかも、まったくわかりません、しかしながらもしふたたびお会いする機会があったとき、わたしたちがお互いに目を閉じていなければならないとしたら、それは悲しいでしょう。それではわたしからの心からの挨拶をお受け取りください。

[シェーンベルクのこの手紙には署名がない] 」。

以上でシェーンベルクからカンディンスキーへの「最後の手紙」は閉じられます。
この後、カンディンスキーは1928年と1936年に一通ずつ、シェーンベルクに手紙を出しています。それらのことや、再会を果たしたときのこと。後日談は、次回の更新のときに。

2011年1月18日 (火)

「青騎士」について その27

「青騎士について」その24から続いているシェーンベルクからカンディンスキーへの最後の手紙。
今回は、その4です。初めて読まれる方は先の項からお読みください。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)からの引用です。手紙は1923年5月4日付。メートリンクから。


「ユダヤ人たちは商人として商売をします。しかしかれらは、商売がたきにとってやっかいになってくると、攻撃されます、しかも商人としてではなく、ユダヤ人として攻撃されるのです。そのときかれらは何として自己防衛したらよいでしょうか。


かれらはそのときでさえ商人として自己防衛しさえすればよく、ユダヤ人としての防衛はただうわべだけのことだと、わたしは確信しています。つまりアーリア人である攻撃者も、たとえ別の言葉を使い、ねこかぶりの別の(いっそう当りのいい?)かたちを用いていても、攻撃を受けた者と、同じやり方で自己防衛をすると、確信しているのです。


そしてユダヤ人にとって問題なのは、キリスト教徒の商売がたきを打ち負かすことなどでは全然なくて、各人の商売がたきを打ち負かすことなのです。アーリア人にとってもそれと同じように各人の商売がたきが問題なのです、しかしかれらのあいだでは、目標に通じるどんな結合も、また別のどんな対立も、考えられるのです。


今日ではそれが人種になっていますが、いつかまたある時は、何が人種であるのか、わたしにはわからないのです。そしてカンディンスキーのような人がそのわからないところで関与している?


アメリカの大銀行が共産主義に資金を与えたといわれ、その事実は公式に否認されていません。
何故だか、知っていますか。フォード氏は、大銀行の状況ではそれが否認できないことを知っているでしょう。否認すれば、おそらく大銀行は、自分たちにとってもっとずっと不愉快なことを明るみに出すことになるでしょう。
なぜならば、それが真実なら、もうずっと以前に、人はそれが真実でないことを立証していたことでしょうから。


しかしわたしたちにはそれがわかっています! 実はそれがわたしたちの体験なのですから!


トロツキーとレーニンは痛ましい流血の惨事を起こしました(ところでそれは、世界史のいかなる革命においても避けられぬことでした!)、ひとつの、もちろん誤った理論を(しかしそれは、それ以前の革命の、世界に幸福をもたらそうとした多くの人びとの理論と同様に、善意のものだったのですが)、現実に変えるために。


それはいまわしいことことであり、罰せらるべきです、なぜならそのようなことにたずさわる人は過ちをおかしてはならないからです! しかし今やこれと同じ狂信でもって、まさしくそのように血を流して、たとえ反抗的であるとしても、やはり正しくない、また別の理論が(なぜならそれらはみな実際誤っているのであり、それらに対するわたしたちの信仰のみがそのつどそれらに、わたしたちをあざむくに十分な真理の微光を付与しているのですから)、そういう理論が実現されるならば、人間はよりよく、そしてより幸福になるでしょうか。


しかし反ユダヤ主義は、もしそれが暴力行為に赴くのでないとしたら、どこへ赴くのでしょうか。
それを想像するのは、ひじょうにむつかしいことではないでしょうか。あなたはおそらく、ユダヤ人から公権を奪い取ることに満足しているでしょう」。

今夜はここまで。
「そうなればアインシュタインやマーラーや私や」と続きます。以下は次回の更新のときに。

それにしてもロシア革命についての洞察、そしてやがて迫るナチス・ドイツの予見。その2点において凄いです。


2011年1月15日 (土)

「青騎士」について その26

前々項、前項に続いて、シェーンベルクからカンディンスキーに出された最後の手紙を掲載します。
あまりにも長大なものなので、今回は「その3」。初めて読む人は、前々項の頭からお読みください。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)からの引用です。1923年5月4日付。メートリンクから。


「そんなことは私には理解できません。とにかくそうしたことすべて、まじめな検証にたえられるものではありません。あなたは戦時中(引用者注:第一次大戦)、どんなに多く、それももっぱら公けに、嘘がつかれる、そのことに気づく機会がなかったのでしょうか。

公正な事実に向けられたわたしたちの頭脳にとって、真実への見通しはいつの時代でも閉ざされています。あなたはそのことを知らなかったのですか、それとも忘れてしまったのですか。


あなたはまた、何が災害にたいする気持の上のある特殊なあり方を呼び覚ましうるか、そのことをわすれてしまったのですか。平和なときは四人の死者を出した鉄道事故でも誰も彼もびっくりしたということ、それが戦時中になると、悲惨や苦痛や不安や成り行きを心に思い浮かべてみようとすらしないで、10万人もの死者の話を聞くことができたということを、あなたは知らないのですか。


それのみならず、敵にはできるだけ多くの死者が出ることを、しかも多ければ多いほどよいと、喜んでいる人びとがいたのです。わたしは平和主義者ではありません。戦争に反対することは、死に反対することと同じように見込みがありません。両者は避けがたいもので、ほんのわずかな部分しかわたしたちに左右されてはいないで、わたしたちではなく、もっと高次な力によって考え出される人類革新の方法の一部なのです。


それと同じように、今行われている社会構造の層の変動も、誰かある個人の負債勘定に記載されているものではありません。それは運命であり、必然的に行なわれるのです。
ブルジョワジーはすでにあまりにも理想的に仕向けられていて、もはや戦う力はなく、そのために人類の底辺から、みじめではあるが、しかしたくましい社会構成要素が、政治能力のある中産階級をふたたびつくりだすために、立ちあらわれてきています。

この階級は悪い紙に印刷された立派な本を買い求めて、飢えています。ほかのようにではなく、そうならざるをえないのです―それは無視できるでしょうか。


あなたはそれを阻もうとしています。そのことであなたはユダヤ人に責任をとらせたいとらせたいのですか。そんなことは理解できません。

すべてのユダヤ人が共産主義者でしょうか。
そんなことはないということをあなたはわたしと同様によくご存じです。わたしが共産主義者でないないのは、第一に配分を望まれている物がすべての人にまんべんなくゆきわたるほど十分あるわけではなく、かろうじて十分の一に満たないことを知っているからです。十分にあるもの(災難、病気、卑俗、無能などなど)は、いずれにせよみんなに配分されています。

第二に、主観的な幸せの感情は所有物によって左右されるのではなく、謎めいた質(たち)のものであり、人はそれをもっていたり、もっていなかったりするということを知っているからです。
それから第三に、大地は苦悩の谷であって、娯楽場ではなく、したがってすべての人びとが同じようにうまくいくということは、創造者の構想にもなく、またおそらく何らかの深遠な意味をもつものではまったくないからです。


今日必要とされるのは、科学的でジャーナリスティックなジャルゴン(引用者注:馬鹿げた、支離滅裂の、あるいは無意味な話、あるいはある職業、集団の内部でのみ通用する特殊語法。全く意味の解らない言葉を発するジャルゴン失語(jargonaphasia)という症状というのもあります)を使って何かナンセンスをいうことで、ひじょうに利口な人たちでさえそれを啓示と思うのです。

シオンの賢者―もちろん今日の映画や、科学、オペレッタ、キャバレーの作品が、要するにこの地球を今日精神的に動かしているものすべてが、そういうふうによばれるのです」。


(引用者注:「シオン賢者の議定書」では、捏造された「ユダヤ人による世界征服への陰謀」が事細かに描かれます。その一つとして支配者が民衆を愚かな存在にするための「3S政策」なるものが提案されます。SEX,SPORTS、SCREENの「3S]であり、これらに夢中になり疲れ果てて民衆は何も考えなくなる、という政策です。専制をもくろむ支配者は、民衆は愚かであればあるほど都合がいい。なにかものを考える人間、考えて陰謀を見抜く人間がいれば「国家の敵」としてしまうわけです。

『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門』Einleitung zu Arnold Schoenbergs "Begleitmusik zu einer Lichtspielscene"という映画があります。1972年(15分)。
監督はジャン=マリー・ストローブ ダニエル・ユイレ。ふつうは「ストローブ=ユイレ」と呼ばれています。撮影はレナート・ベルタ。アテネ・フランセによる紹介分は次の通りです。

「1923年に作曲家シェーンベルクが、友人の画家カンディンスキーの反ユダヤ主義的発言に対して書いた激烈な絶縁状の朗読に、シェーンベルクが架空の映画音楽として作曲した曲が重なる。1935年のブレヒトの反資本主義演説も引用される」。


その音楽は映画の題名の通り、《映画の一場面のための伴奏音楽》作品番号34 。1929-30年(シェーンベルク56歳)の作品です。サイレント映画のBGM用のストック楽譜を出版する会社からの依頼で作曲されました。12音技法を駆使した曲ですが、ベルリンのクロルオーパーでの初演は大きな喝采で迎えられました。

革新的な出し物をやっていた同劇場の監督は、1927年から閉鎖される1931年までオットー・クレンペラーでした。彼が初演したかどうかは今のところは不明ですが、大喝采にシェーンベルクはこぼしました。「作品はなんと聴衆の気に入ったようだ。曲の質が高くなかったということであろうか」。

あと、シェーンベルクは「キャバレー・ソング」も書いています。「3S政策」そのものが「ジャルゴン」なのですが、こんなことも踏まえた上でストローブ=ユイレの映画を見たい。明日、その映画ほか『今日から明日へ』と『モーゼとアロン』が収められたDVD2枚が到着予定です)。

手紙はまだまだ続きます。「その4」は次回の更新のときに。

2011年1月11日 (火)

「青騎士」について その25

前項に続いて、シェーンベルクからカンディンスキーに出された最後の手紙を掲載します。
あまりにも長大なものなので、今回は「その2」。初めて読む人は、前項からお読みください。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)からの引用です。


「そのばあい、あなたもそれに関与して、『わたしをユダヤ人として拒絶するのです。』
いったいわたしがあなたになにか助力を申し出たとでもいうのですか。あなたは、わたしと同じような者は誰でも拒絶できると思っているのですか。自分の価値を知っている者が、人の最もささいな特性にすぎないものをも批判する権利を、誰かある人に容認するとでも思っているのですか。

そんな権利があるとすれば、それをもっているのは、いったいどんな人でしょうか。その人はどの点でよりすぐれているのでしょうか。そうです、誰でもわたしを批判できます、わたしの背後で。そこには多くの場所があります。しかしわたしがそれを聞けば、誰でも無条件にわたしの抵抗にさらされるのです。


カンディンスキーのような人が、わたしが侮辱されるのをどうして容認できるのですか。わたしをわたしの当然な影響圏から追い出す、そういう可能性をつくろうとする策略にどうして加わることができるのですか。バルトロメーウスの夜(訳書注:1572年パリで旧教徒が約二千人のユグノー派を虐殺した事件)を目標にするような世界観とのたたかいを、どうしてやめることができるのですか。そんな夜の闇のなかでは、わたしは例外ですと小さい告知板に書いたって、人は読んでくれないでしょう!


わたしは、そのことでいつか話し合うことがあれば、それにふさわしい状況で、カンディンスキーの安全に影響を及ぼしている世界観を信じていると言うかもしれません、その他の政治的、経済的価値をまったく無視して。なぜならそうなれば、わたしの意見では、世間の人びとが百年かかってひろめる二、三のカンディンスキー族の正式の見解を世間のために維持している世界観だけが、私の意見ではその世界観だけが、わたしに役立つことになるからです。

そしてそうなればユダヤ人迫害をわたしはほかの人たちにやらせておくことになるでしょう。つまりそれに対してわたしが何もすることができなければ、どんなにいいでしょう!


たとえわたしがユダヤ人排斥運動の成り行きによって傷を負ったとしても、あなたはそれを気の毒な個々のケースと呼ぶでしょう。しかしなぜ人は、悪いユダヤ人に気の毒な個々のケースをみないで、ユダヤ人全体に特徴的なものをみるのでしょうか。
わたしの親密な弟子たちのなかで、敗戦(引用者注:第一次大戦)直後、ほとんどすべてのアーリア人は採掘現場に出ないで、楽な仕事をしていました。それに反してほとんどすべてのユダヤ人は採掘現場に出て、けがをしました。そのばあい個々のケースというのはどうなっているのでしょうか。


それは個々のケースなんかではありません、つまりけっして偶然的なものではありません。そうではなくて、まったく計画的です。その結果わたしは、最初、この国でふつうに行なわれているように、軽んじられた後、そのうえ今度は政治的策略によって遠回りをしなければならないのです。

もちろん、わたしの音楽を思想を不愉快に思っている人びとは、さしあたりわたしを厄介払いする可能性がよけいに現れることだけが楽しみでした。わたしにとって芸術上の成功などどうでもいいのです、そのことはあなたもご存じです。しかしわたしは侮辱を甘受できません!


わたしは共産主義と何のかかわりがあるでしょうか。今も、過去にも、わたしは共産主義者ではありません!
わたしはシオンの賢者たち(引用者注:『シオン賢者の議定書』のことをいっている。19世紀末から20世紀初めに露語版が出され1920年に英訳版が出て広まった。ユダヤ人による「秘密権力の世界征服計画書」であるが、ユダヤ人をおとしめるために作られた偽書であり、ナチスに深い影響を与えホロコーストを引き起こした根拠のひとつになった。『史上最悪の偽書』、『史上最低の偽造文書』。)[と何のかかわりがあるでしょうか。それはわたしにとって、おおよそ信じるに価するものを何ひとつ表わしていない千一夜話のなかのお伽話ののひとつの題名です。

本来ならわたしもシオンの賢者たちについて何か知る必要があるのではないでしょうか。それともあなたは、私の発見や知識や能力がユダヤ人の引き立てのおかげだと思っているのですか。あるいはアインシュタインの発見はシオンの賢者たちの委託に負っているのでしょうか」。


「そんなことはわたしには理解できません」と続きます。
以下は、次回の更新のときに。

2011年1月 9日 (日)

「青騎士」について その24

シェーンベルクがそれまでの友情を断ち切るような手紙を書いた後、カンディンスキーはそれでも友情を信じて好意にあふれた手紙を書き送りました。

そして再びシェーンベルクは長い手紙を書きます。これが最後のカンディンスキーへの手紙であり、以後は返書なきカンディンスキーの手紙が1928年と1936年に1通ずつあるだけです。あまりに長いので、要点のみ載せることも考えましたが、現在は『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)が入手しがたい状態にあるので、数回にわたって全文掲載することにします。同書からの引用です。


シェーンベルクよりカンディンスキー宛
「草案もなしに書きました。
メートリンク          1923年5月4日


親愛なカンディンスキー

私の手紙があなたに衝撃を与えたと、あなたは書いてこられたので、わたしも書きます。実はそのことをカンディンスキーに期待していたのです、もっともわたしは、カンディンスキーのような人物の想像力が、もしその人がわたしの思っているカンディンスキーであるならば、必ず目の前に思い浮かべるにちがいないこと、そのことの百分の一もまだ言ってはいません。

たとえばまだ次のことを言ってはいないからです。わたしが路地を歩いていて、わたしがユダヤ人か、それともキリスト教徒かとあらゆる人びとからみつめられるとき、わたしはカンディンスキーやその他若干の人たちがきわ立たせている人間だと、すべての人にいうわけにはいきません。


他方あのヒットラーという男の意見は確かにかれらのような意見ではありません。そこでそのばあい、このような意見でさえ、たとえわたしが目の見えない乞食のようにその善意を板に書いて、誰でも読めるようにそれを胸につけようとしたとしても、たいして役にはたたないでしょう。

カンディンスキーのような人には、そんなことを気づかう必要がないのではありませんか。実際に起こったこと、つまりわたしがある土地で五年間の仕事のための最初の夏を中断しなければならなくなり、仕事のための静けさを見つけることができなくなったこと(原注から:ザルツブルク州マットゼーに滞在中、シェーンベルクは当地の役場から、史料によってユダヤ人でないことを証明するよう要請された。ユダヤ人の場合はその地方の決定により、ただちに去らねばならないからである。彼はプロテスタントの照明をしたけれども、とてもいやな思いをしたので、マットゼーを去る決心をした。興奮のため多くの時間を失い、なかなか仕事にもどれなかった。)、カンディンスキーのような人にはそんなことを感じ取る必要がないのではありませんか。


ドイツ人はユダヤ人にがまんできないからです!
カンディンスキーのような人が、わたしとは別の人と近しい意見をもっていていいのでしょうか。しかしわたしの仕事の静けさを妨げることができるような人間たちと、ひとつの考えだけでも共通にしていいのでしょうか。それが、そのような人びとと共通にしうる考えなのですか。そしてそんな考えが正しいといえるのでしょうか。

カンディンスキーは幾何学すらかれらと共通にしてはいけないと、わたしは言っているのです!そんなのはカンディンスキーの立場ではありません。さもなければカンディンスキーはわたしにとって必要ではありません!


わたしは尋ねます。なぜユダヤ人は、ユダヤ人の悪徳商人と同じだなどといえるのでしょうか。それと同様に、アーリア人はアーリア人の最悪の構成分子と同じだなどと人はいうでしょうか。なぜ人はアーリア人をゲーテ、ショーペンハウアーその他同じような人物の物差しで評価するのでしょうか。なぜ人は、ユダヤ人がマーラー、アルテンベルク、シェーンベルクその他多数の人びとと同じだといわないのでしょうか。

あなたは、人間にたいしてある感情をおもちであれば、なぜ政治的策士になるのですか。とにかくどうして政治的策士には、人間をまったく計算にいれないで、ただ自分の党派の目標にだけ目を向けることが許されるのでしょうか。


それぞれのユダヤ人は、自分のかぎ鼻によって、自分自身の罪ばかりではなく、まさしくそこにはいないほかのすべてのかぎ鼻の罪を告白しています、しかしアーリア人の100人の犯罪者が集まっているとしても、人はかれらの鼻からアルコールにたいする特別な好みを読みとることができるだけで、その他の点では彼らを尊敬すべき人たちと思うでしょう」。

「そのばあい、あなたもそれに関与して、『わたしをユダヤ人として拒絶するのです』」、と続けられますが、今夜はここまで。全体の分量はこの4倍はありますから、少なくともあと3回は全文引用に費やされることになります。この手紙がシェーンベルクの書いた、もっとも苦渋に満ちた、血を吐く思いがこめられたものです。
以下は、次回更新のときに。


2011年1月 4日 (火)

「青騎士」について その23

2011年が明けました。おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

前項に続いて、シェーンベルクから一方的に訣別を言い渡されたカンディンスキーの反論の手紙を引きます。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)から。


「わたしはあなたを芸術家にして人間として、あるいはおそらく人間にして芸術家として愛しています。そのようなばあい、わたしは国籍のことなどすこしも考えていません―それにはきわめてむとんじゃくです。多年の間に保証されたわたしの友人のなかには(『友人』という言葉はわたしにとって大きな意味をもっています、めったに使わない言葉です)、ロシア人あるいはドイツ人よりもユダヤ人のほうが多いのです。わたしはそのうちのひとりと、わたしの高等中学時代から始まって、したがって四十年間も続いているゆるぎない関係をもっています。そのような関係は『墓場』までつづくでしょう。


わたしがあなたを―ドイツへ帰ってきたあと―ベルリンで見出せなかったときは、とても悲しい気持ちでした、長い歳月わたしたちの再会を楽しみにしていたからです。もしベルリンであなたと出会っていたら、たぶんわたしたちはたくさんの緊急な問題のなかで『ユダヤ人問題』についても話していたことでしょう。わたしはそれについてのあなたのご意見をよろこんで聞くでしょう。


『悪魔』が表層によじ登ってきて、自分の活動のためにおあつらえむきの頭と口を選び出すような時代があるものです。それぞれの国民が、一定の範囲で動くことのできる固有の性質をもっているので、『悪魔に取りつかれた』人間以外にも、時には『悪魔にとりつかれた』国民が生じます。

それもいやすことのできるひとつの病気です。この病気の間に、恐ろしい二つの性質が姿を現わします。否定的(破壊的)な力と、破壊的にも作用する虚偽です。たぶんあなたはわたしの言うことをわかってくださるでしょう?


ただその限りでのみ、『鍋』ということも話題になりえます。わたしたち二人は『鍋』のなかには属していません、ほかならぬわたしたちがたがいにひとつの鍋のなかにむりに自分をおしこめば、このうえなく悲しい姿となるでしょう。鍋のなかの生活に適していなくても、人は自分の国民について冷淡に、あるいは痛みをもって、しかしつねに客観的に熟慮し、その生まれつきの特性やそれの時代的な変化を調べることができます。

そのような問題については、ただ自由な人間たちの間で話題にしさえすればよいのです。不自由な人間たちはそのような問題を誤解し、その結果陰口が生じてきます。

あなたがわたしの言った言葉を伝え聞いたとき、なぜすぐわたしに手紙を書いてくれなかったのですか。あなたは、そのような言葉を認めないとわたしに書くこともできたはずです。


あなたは『今の』カンディンスキーについて、わたしがあなたをユダヤ人として拒否しているという恐ろしいイメージをもっています。しかしそれにもかかわらず、わたしはあなたに好意的な手紙を書き、そして一緒に仕事をするためにあなたにぜひこちらにきてほしいと思っていることをあなたに保証します!

親愛なシェーンベルクさん、『最終的に!』と言う前に、そのような『今の』カンディンスキーに敬意にみちた挨拶を送ることができるかどうか、よくお考えください。その場合はきっと、『侮蔑』の言葉は現われていないでしょう。


わたしたち、内面的にいくらか自由になりうる数少ない人間は、わたしたちの間にわるいくさびが打ち込まれるのを許しておくわけにはいきません。くさびを打ち込むような仕事はまた『凶の』仕事です。それに対して人は身を守らねばなりません。

あなたにわたしの気持を十分にはっきりと言い表わすことができたかどうか、わたしにはわかりません。ユダヤ人、ロシア人、ドイツ人、ヨーロッパ人であることは、大きな幸せではありません。よりよいのは人間です。しかしながらわたしたちは『超人(Ubermensch)』になろうと努めるべきです。それが少数者の義務です。


たとえあなたがわたしを引き裂いても、わたしは衷心からの挨拶と尊敬の言葉をあなたにおくります。

                                   カンディンスキー」


明察に満ちた見事な返信です。間もなくナチスの時代を迎えようとしていたユダヤ人は疑心暗鬼のなかにいた。しかしこの返書は決然たる理性と友情を表白したもので、カンディンスキーの人間性が現れているものです。あるいは「命をかけて」カンディンスキーはこの手紙をシェーンベルクに送った。

にもかかわらず、シェーンベルクのこの手紙に対する返書は酷薄をきわめたものでした。いったい何があったのでしょう。それらのことについては、次回更新のときに。

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