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2010年12月

2010年12月31日 (金)

年末年始は

ブログの年末年始のお休みのあいだは、どうぞtwitterへ!
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「青騎士」について その22

1923年4月15日付のカンディンスキーからシェーンベルクに宛てられた手紙は、第一次大戦とロシア革命の時代を潜り抜けてバウハウスに職を得て忙しく働くことになった(ということは、そこで成果を収めつつあった)カンディンスキーが、かつての「青騎士」の同志だったシェーンベルクにバウハウスの音楽学校の校長を務めないか、と呼びかける変わらぬ友情と誠意にあふれたものでした。


それに対するシェーンベルクのカンディンスキーへの返信は間髪を入れず出されました。1923年4月19日付。「ウィーン近郊メートリング ベルンハルト小路6」から。『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房からの引用します。


「親愛なるカンディンスキー様

あなたの手紙を一年前にもらっていたら、わたしの原理原則をすべて引っ込めていたことでしょう、やっと作曲できるという見通しも放棄して、ただまっしぐらに冒険にとびこんでいたでしょう。


実際告白しますが、まだ今日も一瞬ためらっていました。教育へのわたしの意欲はそれほど大きいのです、まだ今日も燃えつきやすい状態です。しかしそうはなりえません。


というのは、去年強いて教えられたことが、今やっとわかったからです。それを二度と忘れないでしょう。つまりわたしがドイツ人でもなく、ヨーロッパ人でもなく、実はおそらくほとんど人間ですらなくて(少なくともヨーロッパ人はかれらの種族の最も悪いものさえわたしよりも好んでいます)、ユダヤ人だということです。


わたしはユダヤ人に満足しています! 今日では、わたし自身を例外扱いにしてほしいなどともはや思っていません、わたしは、わたしがほかの人たちすべてとひとつの鍋に投げこまれることに、全然反対ではありません。
それというのも、(実はわたしにとって別に模範的ではない)反対側でもすべてがひとつの鍋のなかにあることを見てしまったからです。同じレベルにいるとわたしが信じていたある人がその鍋の共同社会を探し求めていたことをわたしは見てしまいました。


カンディンスキーという人もまた、ユダヤ人のふるまいに悪いことしか見ない、悪いふるまいのなかにユダヤ的なものしか見ない、とわたしは聞きました、そこでわたしは相互理解への道を放棄します。夢は過去のものとなりました。わたしたちは別の人間です。最終的に!


ですから、わたしがもう生活の維持に必要なことしかしないということを、あなたはおわかりでしょう。おそらくわたしたちの後の世代の人びとがふたたび夢を見ることができるようになるでしょう。わたしはそうなることをかれらのためにも、わたしのためにも願っていません。その反対に、もし目ざめを導きよせることがわたしにできたならば、大いに力をつくすでしょう。


わたしの心からの尊敬にみちた挨拶の点で、過去のカンディンスキーと今のカンディンスキーとが正義の感情によって分かれますように。  (シェーンベルクの手紙の写しには署名なし)」

これに対して、カンディンスキーはただちに返信を送ります。1923年4月24日付、バウハウスから。

「親愛なシェーンベルク様、わたしは昨日あなたのお手紙を受けとりましたが、それによって、ひじょうな衝撃を与えられ、心を傷つけられました。わたしたちが―ほかならぬわたしたちが―おたがいそんなふうに手紙を書けるなんて、以前だったらけっして想像もできなかったでしょう。


わたしが確かに考えたところでは、わたしたちのしっかりした、純粋に人間的な関係をゆさぶり、おそらく決定的にぶちこわすことに、興味をもっていたのは誰か、誰かにそんな興味があったのはなぜか、わたしにはわかりません。あなたは『最終的に!』と書いています。それが誰の役に立つのでしょうか?


わたしはあなたを芸術家にして人間として、あるいは人間にして芸術家として愛しています」

と、カンディンスキーは悲痛な思いを友に書きます。


以下は越年になると思われますが、次回の更新のときに。では、よいお年を!


2010年12月29日 (水)

「青騎士」について その21

1917年のロシア革命後、カンディンスキーは1918年にモスクワに戻りました。

そのころのソヴィエト連邦では「前衛芸術」はウラジミール・レーニンによって「革命的」として認められており、カンディンスキーは政治委員などを務めました。

『レーニン・ダダ』という本もあるように、レーニンには、新しいものは革命的なものであり、8月20日付の本ブログに書いた「ロトチェンコとステパーノワ夫妻」は、時代を生きる芸術家としては幸せだったと言えます。しかし多くの前衛芸術家は次のスターリンの時代をも生きなければならなかった。


音楽家ショスタコーヴィチについて書きたくなりますが、ここではその衝動を抑えます。ヨシフ・スターリンが台頭するにつれ「前衛芸術」が遠ざけられるようになり、スターリンが共産党書記長に就く直前の1921年に再びモスクワを離れてドイツへと向かったのです。

1922年からはバウハウス(そこには、あのパウル・クレーがいました)で教官を務め、1933年にナチス・ドイツによってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務することになるのですが、1922年7月3日に1914年以来久々にシェーンベルクへ宛てた手紙は「ヴァイマル 国立バウハウス」から出されています。「ロシアの音楽家はあなたの本を渇望しています」(『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)からの引用。以下も)と書き、『和声学』を話題にしています。


その手紙への返信はすぐさまの1922年7月20日付。トタウンキルヒェンから。「消息をきけて、とてもうれしい」と喜ばしい調子で開始され、飢饉や苦難にふれて作曲中の自作『ヤコブの梯子』について書いています。末尾には「わたしは有名なサッカー選手ゲオルク・シェーンベルクの父親です」と息子の成長を報告。


翌1923年4月15日付のカンディンスキーからシェーンベルクに宛てられた手紙が、その返信。「ヴァイマル バウハウス」からです。

「親愛なる友よ、お手紙をいただいてとても喜びました、わたしの長いご無沙汰を説明できるのは今日の生活の気違いじみたテンポだけです」。
「『静かなヴァイマル』で十分な静けさを見出せるものと期待していた」「しかしそれは錯覚でした」。
「それにもかかわらず、ここはすばらしいです、多くの可能性があり、とりわけひとつのセンターを造る可能性があり、それはさらに遠くへと感染的に影響を及ぼすことができます。


しかしそのためには、わたしたちの狭い仲間以外にひときわすぐれたスタッフが必要です。『シェーンベルクがいてくれたらなあ!』と何度もひとり言をいっていました。
するとまあ想像してください、今ならシェーンベルクはひょっとして来ることができるのです、ぜひ必要な職場に確かな影響力をもったサークルがこちらで形づくられたからです。


おそらく決定はまったくあなたしだいです。
打ち明ければ、こちらの音楽学校が新しい校長を求めなくてはならないのです。
そこでわたしたちはすぐあなたのことを考えました。
出来るかぎりすぐ、あなたがただ原則的な点でのみ同意なさるかどうか、わたしに手紙をください。
もしイエスならば、わたしたちはただちにひと肌ぬぐでしょう。


あなたとあなたの奥様に、わたしの妻からも多くの心からの挨拶を

   つねにあなたのカンディンスキー


あなたの『和声学』の新版は出ましたか。ロシアの音楽家たちはそれをまちこがれています」。


以上がシェーンベルクには、つねに友でいようとするカンディンスキーの手紙です。バウハウスで音楽を教えませんか、という友情に満ちた誘いです。それに対してのシェーンベルクの返信は、次回の更新のときに。

2010年12月26日 (日)

「青騎士」について その20

カンディンスキーとシェーンベルクの訣別の時は突然訪れます。


年刊誌「青騎士」構想段階に始まった1911年からの両者の熱い文通は、カンディンスキーからシェーンベルクに宛てられた1914年6月10日付のものでいったん打ち切られます。
「これですべてオーケーです。あなたに満足していただけるよう望んでいます」。(『出会い』土肥美夫氏訳(みすず書房)からの引用。以下も)


その年1914年の夏、シェーンベルクは家族とともにカンディンスキーの近くの田舎で過ごしました。そうなるともはや文通は必要がなくなり、両者の対話は直接交わされて、文通という記録は残されなくなります。


文通の再開は1922年7月3日付のカンディンスキーからシェーンベルク宛の手紙に始まります。
「わたしはベルリンへやってきて、あなたがもうそこにいないと聞いて、とてもがっかりしました」。
すぐさまシェーンベルクはカンディンスキーに書き送ります。
「やっとあなたの消息をきけて、とてもうれしいです。この八年間というもの気がかりで、どんなにか何度もあなたのことを思い出したことでしょう!」。


空白のその期間は第一次大戦がありました。
1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機に、各国の軍部は総動員を発令し、瞬く間に世界を巻き込む人類史上初の「世界大戦」にまで広がりました。


日本も参戦しました。日英同盟に基づいて、1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告。連合国の一員として帝国陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、海軍は南洋諸島を攻略しました。またインド洋や地中海まで軍艦を出して輸送船団の護衛などを行っています。
1918年11月11日、コンピエーニュにおいてドイツ軍と連合国軍との間の休戦協定成立。
1919年6月28日、ヴェルサイユ条約調印。第一次世界大戦終結。


ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる同盟国と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(日本、イタリア、アメリカはこの陣営)の戦いが軸であり、第一次大戦勃発の知らせを聞いてカンディンスキーはロシアに帰り、シェーンベルクとの交流は中断を余儀なくされることになりました。
1922年7月3日付の手紙で彼は書いています。

「わたしたちがロシアで四年間―全部で六年間―全世界から切り離されて生き、こちらの西欧で行われていることについては見当もつかなかったということは、あなたもおわかりでしょう」。


1915年春にロシアはその軍事力がドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈し、戦線から撤退します。当時はまだ皇帝ニコライ2世の時代。指導力について兵士と民衆の不満が高まっていきます。皇后アレクサンドラに至っては政治をグレゴリー・ラスプーチン(怪僧、といわれた人です)に任せたため、さらに失望を引き起こして1916年、ラスプーチンは暗殺されます。

1917年2月、首都ペトログラード(のちにレニングラード、現在のサンクトペテルブルク)で起こった民衆のデモが拡大して、ニコライ2世は遂に退位を宣言します。ロマノフ王朝は崩壊し、中道派臨時政府が成立。これが「2月革命」。しかし戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱が続きます。
ウラジーミル・レーニンが指導する急進的な左翼ボリシェヴィキ党は、こうした混乱を権力を獲得するために戦略的に利用します。10月24日、ボリシェヴィキは武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒しました。これが「10月革命」です。


「シベリア出兵」のことは略します。
ともあれ、以上のような時代に巻き込まれカンディンスキーとシェーンベルクは引き裂かれていました。
そして文通が再開された1922年の翌年、1923年4月に、いきなり訣別の辞がシェーンベルクから切り出されるのです。それは次回更新のときに。


2010年12月23日 (木)

「青騎士」について その19

1912年に一度だけ発刊された年刊誌「青騎士」は美術、音楽、舞台芸術などを含む総合芸術誌で、20世紀初頭の各分野の芸術家が「新しい表現」をめざす息吹に満ちたものでした。

編集者は画家のカンディンスキーと、同じく画家のフランツ・マルク。1911年1月(1日と前に書きましたが、どうやら2日らしいです)のミュンヘンでのシェーンベルクの演奏会でその音楽に感動して、カンディンスキーは交流を求める友情にあふれた手紙をシェーンベルクに書いたのでした。返信もすぐさま送られ、画家と音楽家はめざす芸術に共通のものがあることを認めあい、あつい交流が始まりました。

「青騎士展」にアマチュア画家のシェーンベルクも絵を出品しています。年刊誌「青騎士」には、作曲家として音楽に関する論文『歌詞について』と、手書きの楽譜ファクシミリ『心のしげみ』作品20を出しています。楽譜は弟子のベルク、ヴェーベルンの作品とともに。

先へ急ぐ前に『心の茂み』について少し書いておきましょう。

シェーンベルクはこの時代、調性から離れる苦闘を続け、カンディンスキーは具象から離れる苦闘を試みていました。カンディンスキーが聴いたシェーンベルクの音楽は『弦楽四重奏曲第2番』作品10と『3つのピアノ曲』作品11であり、作品10は第4楽章で調性からの別離を歌った記念碑的な作品であり、作品11も長7度、短9度の使用、複調的な第2曲の書法など、単一の調性は壊されています。

『心の茂み』作品20は1911年12月9日に完成した無調による作品です。
編成は、ソプラノ独唱/チェレスタ、ハルモニウム、ハープ。4分ほどの小品です。初演はずっとあとになってからで、1928年4月17日、ウィーンでヴェーベルン指揮により(ヴァイオリニストのコーリッシュと、ピアニストのシュトイアーマンによる演奏会の一環として)なされました。

作品のスタイルは『6つのピアノ小品』作品19(1911年2月)と同じ、簡潔をきわめたミニアチュア様式。その中に切れ目のない旋律が続いていて、ソプラノには技巧が求められ最高音は3点ヘ音に達します。高音部のppppは至難です。

歌詞を紹介しておきます。日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)から引用。作者はメーテルランク。『青い鳥』の作者であり神秘主義者でもありました。彼の処女詩集『温室』(1889)に収められたものです。


私の懶(ものう)い憧れの  青いガラスが
古くからの漠たる悲しみを覆う
私が産んだ悲しみは
今は微睡(まどろ)みつつ凝固する


象徴のような悲しみの花々の飾り
幾つかのよろこびの暗い睡蓮の花
欲望の棕櫚(しゅろ)
しなやかな蔓草(つるくさ)  ひんやりとした苔(こけ)


咲きほこる一輪の百合の花だけが
病気がちに青ざめて  固く
葉となったすべての悩みの上に
身を起こしている


その花びらは明るく見え
白い月の光をまわりに撒き散らし
青い  クリスタルに向けて
百合は神秘の祈りをおくる


以上ですが「神秘」mystiのmyで最高音をppppで歌うことをソプラノ歌手は要求されているのです。かたちとしては、詩の段落に従って4つの部分からできている、と考えることができます。それよりもなによりも、チェレスタ、ハルモニウム、ハープによる音彩の美しさ!


カンディンスキーとシェーンベルクの訣別については、次回更新のときに。
ほんとは余り書きたくない。。。

2010年12月20日 (月)

「青騎士」について その18

年刊誌「青騎士」(1912)に掲載されたシェーンベルク以外の音楽に関する論文を紹介しておきます。日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)から、まとめと引用。

トーマス・フォン・ハルトマン『音楽におけるアナーキーについて』。

ハルトマンは1885年、ウクライナに生まれた作曲家/ピアニストで画家でもありました。カンディンスキーの最も親しい友人、同志であり、舞台コンポジション『黄色い響き』の音楽も担当しています。

「外的な法則は存在しない。内なる声が逆らわないものはすべて許されている。これが一般的な意味において、したがってまた芸術の意味において、かつて受肉せる言葉(Verbum incarnata)―イエス・キリストの意味(引用者注)―の偉大な伝授者によって告知された唯一の生の原理である。

かくして芸術一般において、とくに音楽において内的必然性に発した手段は、どれもみな正しい」。

「音楽のアナーキストというのは、自分の芸術的『自我』を表現するに際して、いかなる限界も知らず、ただ内なる声にだけ従う作曲家たちのことである」。

次は、レオニード・サバネーエフの『スクリャービンの《プロメテウス》』。

1881年モスクワに生まれたサバネーエフは、作曲家/音楽批評家で、タネーエフ門下のスクリャービンの弟弟子です。ロシア語で書かれた論文に、カンディンスキーは感銘を受け、やはりタネーエフ門下のハルトマンとともにドイツ語に翻訳。シェーンベルクにも訳文を見てもらえないかと依頼しています。

神智学の影響を受け、神秘思想に没頭していたスクリャービンは彼の芸術理念の「完全な具現」として、『秘儀』(音楽、舞踏、色、光、香りを一体にした作品)を追い求めていました。《プロメテウス》は「照応する音響と色彩の原理」によっており、「完全な具現」には至っていません。しかし諸芸術の「再統合」の達成の一つであったことはいえるでしょう。それが神秘主義的な宗教的世界観に関わるものだったことも。

カンディンスキーの絵もまた、スクリャービンの音楽の底を流れる「ロシア的霊性」の噴出がありました。彼もまた神智学に強い関心を抱いていて、芸術と宗教的なものの総合へ向かうベクトルにおいて「青騎士」と《プロメテウス》は双生児のようです。

スクリャービンの使用した和音について、かなり専門的に書かれています。それは省きます。注釈にあるスクリャービンの音楽的な色彩感覚を表した「音」と「色」の照応表だけを引いておきます。

ハ音  赤                 嬰ト音  青、どぎつい

ト音  オレンジ―バラ色        変ニ音  スミレ色

ニ音  黄                 変イ音  緋―スミレ色

イ音  緑                 変ホ音}  金属的な光沢をもつ

ホ音  青―白っぽい          変ロ音}    鋼のよう

ロ音  ホ音に似ている         ヘ音    赤、暗い

五度圏と七彩のスペクトルの照応ですね。

音楽論文の最後はニコライ・クリビーンの『自由な音楽』。彼は1868年生まれのロシアの軍医で、画家でもあり前衛芸術の保護者かつ理論家。カンディンスキーのみならず、シェーンベルクとも交流がありました。

「自由な音楽は、自然の音楽や自然の芸術すべてと同じ自然の法則にしたがう。

自由な音楽の芸術家は、ナイチンゲールと同じく、全音と半音に限定されることはない。1/4音や1/8音もつかい、音を自由に選択して音楽にする」。

「芸術家が、楽譜にまったく縛られることなく、たとえば1/3音や、それどころか1/13音などといった任意の中間領域をつかうことができるようになれば、音楽における大きな進歩が可能である」。

以上、シェーンベルク以外に「青騎士」に寄せられた音楽論文でした。彼ら3人は「ロシア的霊性」の人たちでした。カンディンスキーも含めて。シェーンベルクは、ユダヤ的霊性の人。それがもたらしたのか、どうか。「青騎士」の発刊は一度きりに終わり、やがてカンディンスキーとシェーンベルクの訣別のときが訪れます。それは次回更新するときに。

2010年12月17日 (金)

「青騎士」について その17

年刊誌「青騎士」に掲載されたシェーンベルクの論文『歌詞との関係』の結びです。
日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)から引用します。


「かくして、ほかの場合にすでにはっきりとしていた点も、明白となるだろう。歴史的素材を扱う詩人は、最大限の自由とともに行動することを許され、画家が今日なお歴史画を描こうとするとして、歴史学の教授と競い合う必要などない事実は、誰ひとり疑う者はいない。


なぜなら、芸術作品があたえようとするものが尊重されなければならないのであって、その外的なきっかけを尊重する必要はないのだから。


したがって、文学に拠って作曲する場合であっても、事象を再現する精確さは、芸術の価値となんの関係もない。それはちょうど、肖像画にとってモデルと似ていることが大切でないのと同じで、百年も経てば似ているかどうかなどもう誰もチェックできないのに、芸術の効果は変わることなく存続するからである。


そして、それが存続するのは、ひょっとすると印象主義者たちならそう考えるかも知れないが、現実の人間、つまり描かれたと思われる人間がわれわれに語りかけるからではなく、そこで自己表現をおこなった芸術家が語りかけるからであり、より高次の現実性を帯びて、その芸術家にこそ肖像画は似ていなければならない。


それがわかれば、デクラマツィオーンやテンポや音の強さにあらわれるような音楽と歌詞の外面的な一致が、内的な一致とほんのわずかしか関係せず、モデルの写生のような素朴な自然の模倣と同じ段階にあることも、容易に理解できる。


そして、表面において相違と見えるものは、より高いレベルでの平行関係のために必要でありうると理解される。したがって、歌詞による判断は、炭素の特性で蛋白質を判断するのと同程度に信頼できるといえるのである」。

了。

年刊誌「青騎士」には、編集にあたったカンディンスキーとマルクの作品をはじめ、古今東西にわたる美術作品がふんだんに紹介されています。エジプトやカメルーン、メキシコやイースター島、中国や日本、そしてプロからアマチュア。選ばれた図版の中で、このシェーンベルク論文のページを飾ったのは次の通りです。


1 15世紀のドイツの挿絵『テレンティウスの宦官』コンラート・ディンクムート
2 象牙彫刻(ミュンヒェン美術館) 少女の立像に膝をつく小さな骸骨が寄り添っています
3 アルフレート・クビーン ペン画  妖怪じみた男の座像
4 バイエルン地方のガラス絵  刀を振りかざす男と手を合わせて横を向く女
5 エジプトの影絵芝居の切り抜き絵  馬にもコブのないラクダにも。動物の様式化された作品
6 マルケサス諸島の古い木彫(ミュンヒェン民族学博物館)
7 バイエルン地方のガラス絵  聖母子像。ただしイエスは髭をはやした大人の姿で
8 ロベール・ドローネー『エッフェル塔』(ベルリンのケーラー・コレクション)
9 エル・グレコ『聖ヨハネ』 毛皮を腰にまとった洗礼のヨハネ (同)

そして、シェーンベルク論文が終わると、マルクの色刷りの版画『二頭の馬』があり、カンディンスキーの独語訳によるクズミーンの詩『春の花冠』からの詩句のページ(図版はマレーシアの木彫り人形)が続きます。


シェーンベルクは他に『心の繁み』の楽譜を載せています。
「青騎士」のシェーンベルク以外の音楽に関する論文については、次の更新のときに。 

2010年12月13日 (月)

「青騎士」について その16

年刊誌「青騎士」に掲載されたシェーンベルクの論文の続きです。
タイトルは『『歌詞との関係』。日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)から引用します。


「そこからはっきりしたのは、芸術作品は、あらゆる完全な有機体とおなじようなものだということだ。それは複合体としてきわめて均質であって、どんなに小さい部分でも、そのもっとも真実な、もっとも内的な本質が明らかになる。人間の身体のどの部分を突き刺しても常に同じものが、常に血が出てくる。


ある詩の一行を耳にし、ある楽曲の一小節を聴けば、全体を把握することができる。


ひとつの言葉とまったく同じように、ひとつの眼差し、ひとつの身ぶり、歩き方、いやそれどころか髪の毛の色だけで、ある人間の本質を知るのに充分だ。だから私は、詩とともにシューベルトの歌曲を音楽だけから聴きとったのであり、シュテファン・ゲオルゲの詩を、その響きだけから完全に聴きとったのである。分析や総合によってはほとんど達成されなかった、いずれにせよ凌駕されなかったであろう完全さをもって聴きとったのである。


もっともこのような印象は、大抵はのちになってから知性に働きかけ、それらの印象を気軽に利用できる準備を知性に要求し、分解し、分類し、測り、調べ、全体として所有してはいても実際にはつかえないものを、いつでも表現できる個々のものに解体することを求める。たしかに芸術的創造すら、本来の構想に到達するまえに、こういう回り道をすることがよくある。


しかし、素材的なものがより手近にあるように思われるほかの芸術でさえ、知性や意識の全能にたいする信仰を克服するに至る兆候が見られる。


そしてカール・クラウスが言語は思想の母であるといい、W.カンディンスキーやオスカル・ココシュカによって、素材となる外的な対象が、色彩とフォルムで即興をおこないこれまで音楽家しかやらなかったように自己を表現する、そのきっかけ以上のものではないような絵が描かれるとすれば、それは、芸術の真の本質について、しだいに広がってきている認識の前兆なのである。


大きなよろこびをもって、私はカンディンスキーの『芸術における精神的なものについて』を読むのだが、そこでは絵画への道が示され、歌詞や素材を問う人びとが、まもなく問うことをやめてしまうだろうという希望が芽生えている」。

以上、核心部分を割愛なしで引用しました。以下、結びの部分は次回の更新のときに。

2010年12月11日 (土)

「青騎士」について その15

難産の末に発刊された年刊誌「青騎士」に収録された音楽論は、まずシェーンベルクの『歌詞との関係』に始まります。日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)から引用します。


「音楽が言い表さなければならないものを、純粋に音楽的に理解できる人間は、比較的少ない。楽曲はなんらかの表象を呼び覚まさなければならなず、そうでなければ、その楽曲は理解されなかったか、なんの役にも立たないという考えが―まちがった凡庸なものだけが広まりがちであるように―きわめて広範に流布している」、という書き出し。


「音楽そのものには直接認識できる素材的なものが欠けているために、その効果の背後に純粋に形式的な美を探し求める人たちもいれば、なんらかの文学的事象を求める人たちもいる」。


ショーペンハウアーは、音楽を「理性では理解できない言語」とみなした。彼には音楽を「概念に翻訳してしまう、つまり抽象にして認識可能なものへの還元にほかならない人間の言語に翻訳してしまうと、本質的なものが失われ、理解しがたくとも感じられるはずの世界の言語が失われる事態は、はっきり分かっているにちがいない」。


しかし、「人びとは音楽のなかにいろいろな事象や感情を、まるでそれらがそこにあるのが当然であるかのように識別しようとする」。だから批評家は「純粋に音楽的な効果に立ち向かうと、かれは完全に途方に暮れてしまい、それゆえ、標題音楽や歌曲やオペラなど、なんらかの形で歌詞に関わる音楽について書く方が都合がよいのだ」。「ともに音楽について語れる音楽家は、実際もうほとんど存在しない!」。


シューベルトのよく知られた歌曲について、シェーンベルクはその歌詞について「まったく知らなかった」ことに気づきます。「ところが、のちにそれらの詩を読んでみて明らかになったのだが、詩を知ったからといって、これらの歌曲の理解にとって得られたものなど、まるでなかったのである。むしろ反対だった」。


「私に明らかになったところでは、詩を知らないときの方が、元々の言葉による思想の表面が脳裏に焼きついたときより、内容を、本当の内容を、もっと深く捉えていたとすらいえるかも知れないのだ」。


「この体験よりもさらに決定的であったのは、つぎの事実である。私は自分の歌曲の多くを、最初の歌詞の冒頭の響きに心奪われ、文学的事象がその先どうなるか少しも気にかけずに、それどころか、作曲に夢中になって事象を少しも理解せずに最後まで書いてしまい、その後幾日も経ってからようやく、そもそも自分の曲の文学的な内容はなんだったのか調べようと思い立った」。


「そこで明らかになったのは、実に驚いたことに、冒頭の響きと最初に直接触れて、それに導かれ、この冒頭の響きにどうやら必然的につづくと思われるものすべてを察知したときほど、私が詩人を完全に正しく理解したことは一度もなかったのである」。


以下は次回の更新のときに。


2010年12月 8日 (水)

「青騎士」について その14

年刊誌「青騎士」に謳うたわれたのは「『内的必然性』に支えられた新しい『総合』を目指す志向」でした。
日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)から「訳者まえがき」を引用します。

「ここで『内的必然性』と呼ばれる概念は、必ずしも個人の内面性にだけかかわるものではない。カンディンスキーによれば、その出自は神秘的なもので、芸術家の個性を刻印するものでもあれば、民族性や時代様式としても顕現する。

それは宇宙的な魂の響きとして万象を貫いて鳴りひびくものだが、通常の世界では外的価値に重きを置く障壁に阻まれて接するのがむずかしい。だが、ひとたび外面の表皮を取り去れば、そこにあらわれるのは豊かな可能性の世界であり、霊的=精神的世界であり、子どもや素朴な者たちの無垢な世界である。

そこにおいてはもはや抽象・具象の区別は無意味になり、ドローネーの抽象画もルソーの素朴絵画も、あるいは民俗・民族学の芸術的所産も子どもの絵も、照応しあう同じ魂の必然性で結ばれる」。


「マルクとカンディンスキーばかりか」「筆者の多くが共有する時代の見方にしたがえば、これまでの旧い世界はいたるところで罅割れが生じ、いまにも崩れるばかりの状態、というより、すでに崩壊してしまっており、それに代わって、輪郭は定かではないが新しい偉大な時代がはじまりつつあるのだという。

この大いなる無政府状態である転換期に創造的にかかわるためには、根源の響きに耳を傾け、内的必然性の基盤に立って精神の王国を求めなければならない。

このような昂揚した調子で述べられる願望、言い換えれば、物質的な文明に染まって頽落した世界を反転して抜本的な再建を試みようとする発想は、『青騎士』ばかりの特権ではなく、第一次大戦前夜の黙示録的雰囲気に瀰漫(びまん)するユートピア志向と少なからず関係があるだろう。

そして、絵画の世界では明確な輪郭を具えた描写対象が融け去って色彩とフォルムだけの純粋絵画が求められ、音楽では形骸化した調性からの離脱が企てられるだけにとどまらず、それらの個別表現を超えた総合または統合が改めて庶幾(しょき。こいねがうこと:引用者注)される。その意味でヴァーグナーの総合芸術観は、かれらに多大な影響を与えるものであった」。


「ただしヴァーグナーの総合の原理は、個別の表現要素を外面的に結びつけて壮大な効果を狙うもので、それは外的な独立形式の加算と反復の芸術であり、無垢な魂の振動が共鳴しあって新たな複合体を形成するようなものではなかった。

今やこの総合は、旧い世界がひとたび死んで新しい世界へと復活する、つまり死と再生の秘儀を介した諸要素の統合でなければならないとされる」。

「かつてE.T.A.ホフマンやボードレールは共感覚的な万物照応の夢を語った」。

長い引用でした。しかし、すぐれた要約です。
いま現在、僕らが生きている時代に『青騎士』が語りかけるものは多いと思われてなりません。

ことに僕の場合は、少年時代に詩人として創作をはじめて「万物照応」のボードレールを先達として歩いてきました。現在は、発表するのはあらゆる書きものを通じての「詩」(そこには言葉があらわせるものの多くがあるはずです)、「音楽」(演奏を通じて)、そして役者として「演劇」。

美術だけが大々的には未発表のまま(家族はたくさん持ってる。僕のシンフォニア・ドメスティカ)ですが、サロンのポスターのためのコラージュを画家・石阪春生さんに「いい」といってもらったこともあり、書道家・前田島之助さんに18歳の黒一色の「純粋絵画」を気に入っていただいたこともあり、作曲も個人と家族にのみ留めてますが(それこそシンフォニア・ドメスティカ)、あることはあって、いずれは僕のできることのすべてを傾けた「総合芸術」を独力ででもやってみたいと思います。

厚顔のまま長生きするこっちゃな、ともうひとりの醒めた僕もいて。

2010年12月 7日 (火)

「青騎士」について その13

すでに見てきたようなカンディンスキーとシェーンベルクの往復書簡を経て、カンディンスキーは1911年12月初旬、『コンポジションごⅤ』が「新芸術家協会第三回展」への出品が拒否されたことを契機に、同協会を脱退。マルク、ミュンター、クビーンが彼につづきました。

ただちに「青騎士」編集部主催による展覧会「青騎士展」が、「協会展」と時期も場所も同じくタンハウザー画廊の隣室で開かれます。アンリ・ルソーやシェーンベルクの作品も展示されました。

1912年2月には第二回「青騎士展」が開催されます。第一回のメンバーのほかには「ロシア未来派」のゴンチャローヴァ、ラリオーノフ。ドイツの画家集団「ブリュッケ」のエミール・ノルデ、キルヒナーら。さらにはパウル・クレー、アルプ、ピカソ、ブラック、などすばらしい当時の前衛が集結していました。

年刊誌「青騎士」は二人の編集者カンディンスキーとマルクの厳しい要求「芸術を扱う論考の書き手は芸術家自身でなければならない」「パリからモスクワ、ベルリンからミラノまでの最新の作品が圧らレナければならない」を充たすまでは難航し、しかも出版に要するビーバー社への資金もベルンハルト・ケーラー(富裕なベルリンの工場主。アウグスト・マッケの妻エリーザベトの伯父)の援助を得て、1912年5月半ばに上梓されるに至りました。

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上図は初版本の表紙です。日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)の表紙にも同じ絵が使われています。

年刊誌『青騎士』は冒頭と結びにマルクとカンディンスキーの論考と作品が置かれ、その間にブルリュークのロシア野獣派の紹介、マッケの「異国」への憧れに満ちた誌的な文「仮面」、シェーンベルク、ハルトマン、サバネーエフ、クリビーンらの音楽論、アラールのクビスムについての絵画論、ドローネーについてのブッセの絵画論が収められ、その間を縫ってゲーテの詩、ドラクロワやゴッホの絵、日本の木版画や古代や全地球の民芸作品などの図版が有機的な連関を持つ作品としてあつめられています。

同書の「訳者まえがき」はきわめて端的に「青騎士」の意志を語りつくしています。『青騎士』にあったのは「『内的必然性』に支えられた新しい『総合』を目指す志向だろう」と。

作曲家シェーンベルクの描いた絵さえ「青騎士展」に展示され、『青騎士』誌に収められました。以下の2枚の自画像が「誌」にはあります。

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下のほうの後姿で歩く自画像は、『出会い』(みすず書房)に展示会場での写真がありました。


2010年12月 3日 (金)

神戸ルミナリエと「女神たちの肖像」展

「青騎士」ひとやすみします。
今夜開幕の神戸ルミナリエと、お昼に再び行った「女神たちの肖像」展について。

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六甲アイランドにある神戸ファッション美術館で「女神たちの肖像」と題されたファッション写真展が開催されています。2011年1月10日まで。これは写真に興味を持つ人は必見の写真展です。
ベルナール・フォコンの男の子たちのマネキンを使って空間を演出し写した作品の展示も併催されていて、実際の服飾の展示も博物館のごとくあり、何度でも行きたい展覧会です。

ファッション写真の黎明期のルートランジェをはじめとして、初期のスタイケン、ホルスト・P・ホルスト、戦後のアヴェドン、アーヴィング・ペン、ウィリアム・クライン。そしてヘルムート・ニュートン、ニック・ナイト、マン・レイ、セシル・ビートン。ブルース・ウェーバーにロバート・メイプルソープまでもあって、彼らのオリジナルプリントを見ることができたことは望外の驚きでした。

55名134点のなかには、アンドレ・ケルテス、オーガスト・ザンダーのものまであるのです。
ベルナール・フォコンも独特な世界観は、彼が作品を発表し始めたときから知ってましたから懐かしかった。マネキンすべては今、日本の企業に引き取られています。この場で全員集合してお行儀よく並んでます。それはそれで、立体の作品です。

だから、これはもう、入場料500円では安すぎるでしょう。でも、こんな展覧会は例によってお客少なし。ほかにはハンチングのじいさんひとりだけ(泣。帰るときに入れ替わりの40代とおぼしき女性二人。神戸市がんばれ。もっと宣伝してお客さん集めようよ。全国から写真家、写真愛好家でごったがえすべき写真展。この企画を東京のどこかの美術館に巡回、そして北から南へ周ればいいのに。

夕刻6時になり暗くなるとルミナリエ点灯。
以下、写真をどうぞ。

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神戸ルミナリエ、もともとは震災で亡くなった人たちのために鎮魂の祈りがこめられていた催しでした。同時に生き残った被災者みずからを元気づけようと。いまは屋台もたくさん出るお祭りです。それでもいいですが、どうか1995年に阪神淡路大震災があったこと、それで7,000にんばかりの人が亡くなったこと、生き残った被災者には、なお生活上の苦難が残ってることを、少しでいいので想ってください。


「青騎士」余聞。
NHK教育「日曜美術館」は、どうやら東京丸の内の三菱一号館美術館でいま開かれてる「カンディンスキーと青騎士展」を採り上げるんだね。そのちらしの裏にも表にもシェーンベルクの文字なし。なさけなし。

2010年12月 1日 (水)

「青騎士」について その12

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上の図版はカンディンスキーが書いた『芸術における精神的なもの』の表紙です。ただし英訳版。
初版はドイツ語版で ”UBER DAS GEISTIGE IN  DER KUNST"。ビーバー社、ミュンヘン、1912(出版1911)。
で、どんな人だったといえば、下の図版の通りです。細身で聡明そうな風貌。

 
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前回の続きです。
カンディンスキーが初めてシェーンベルクの絵を見ての手紙、その2。


「第二の根源は、非物質化することですが、このロマン主義的・神秘的な響きのものを(つまりわたしが今作っているものも含めて)、すでに原理のこのような用い方において、わたしはあまり好まないのです。……しかしそれでもこのようなものもまたけっこうで、わたしにとても興味をもたせます。

この第二の響き(=根源)をココシュカももっています(三年前に見たのですから、「もっていました」というべきでしょう)、「風変わりな」要素をともなって。それがわたしに興味をもたせます(それを見るのが好きです)、それはしかし内面的にはわたしを震動させてくれません。それはわたしにとって拘束的でありすぎ、精密でありすぎます。もしわたしの内面にそうしたものが生じるとすれば、わたしは書きます。(わたしならそれをけっして描きはしないでしょう)。

そして単純に、かれは白い顔と黒い唇をもっていた、と言います。わたしにはそれで十分です。つまりわたしにとってはそれでもよけいなのです。そのことをますます強く感じています。

どんな作品にも空虚な場所がいつまでも残っていなくてはなりません。つまり拘束的であってはいけないのです。おそらくそれは「永遠の」法則ではなく、「明日」の法則でしょう。わたしは慎しみ深く、「明日」で甘んじます! それで良いのです!


そちらの「新分離派」展に出したわたしの作品があなたにどんな印象をあたえるか、どうか手紙でお知らせください。あなたこそミュンターを理解してくださるだろうと、彼女を感じ取ることができると、ほんとうにたえず確信していました。彼女の感じがわかってもらえる場合は一般にとても少ないのです。

このかわいい象皮! わたしは幸せです、かわいい動物の皮の上に浮出し細工をするのです。ここでわたしたち二人の表現手段は完全に出会います。

それではベルリンの人びとをまともにあおりたててください。そいつらに汗をかかせ、のたうち回らせてください。もちろんわたしたちはなにも意図的にそんなことに気をつかう必要はありません。わたしには、意図的ではなしに、「今日は」というときに、誰でも痛い! というほど強く手をにぎりしめる友人がいます。彼はそのときすぐすみませんといいます。わたしたちはそれほどしつけがよいわけではありません。

わたしはとてもたくさんの仕事をかかえています。そのうえ多くの絵画上の願望。どうしてわずかな時間しかないのでしょうか。このごろわたしは、わたしたちみんながさらに何度も「生きる」だろうと、とにかく強く感じています。つまり身体的にです。長い、長いこの道。


わたしは心からあなたの手をにぎり、わたしたち二人からあなたと奥様にご挨拶を申します、小さいお嬢ちゃんは完全に健康になりましたか?
          あなたのカンディンスキー」
以上、『シェーンベルク/カンディンスキー  出会い  書簡・写真・絵画・記録』土肥美夫氏訳(みすず書房刊、1985年初版)からの引用。


カンディンスキーの絵を掲げておきましょう。小さいかも、ですが。
 
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「コンポジションⅡ」1910


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「インプロヴィゼーション11」1910


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「コンポジション Ⅳ」1911


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「コンポジションⅤ」1911
 この絵がミュンヘン新芸術家協会で拒絶された。この後、同協会を脱退。 青騎士の第一回展に出品した。


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