「青騎士」について その15
難産の末に発刊された年刊誌「青騎士」に収録された音楽論は、まずシェーンベルクの『歌詞との関係』に始まります。日本語に翻訳された『青騎士』カンディンスキー/フランツ・マルク編 岡田素之・相澤正巳氏訳(白水社刊)から引用します。
「音楽が言い表さなければならないものを、純粋に音楽的に理解できる人間は、比較的少ない。楽曲はなんらかの表象を呼び覚まさなければならなず、そうでなければ、その楽曲は理解されなかったか、なんの役にも立たないという考えが―まちがった凡庸なものだけが広まりがちであるように―きわめて広範に流布している」、という書き出し。
「音楽そのものには直接認識できる素材的なものが欠けているために、その効果の背後に純粋に形式的な美を探し求める人たちもいれば、なんらかの文学的事象を求める人たちもいる」。
ショーペンハウアーは、音楽を「理性では理解できない言語」とみなした。彼には音楽を「概念に翻訳してしまう、つまり抽象にして認識可能なものへの還元にほかならない人間の言語に翻訳してしまうと、本質的なものが失われ、理解しがたくとも感じられるはずの世界の言語が失われる事態は、はっきり分かっているにちがいない」。
しかし、「人びとは音楽のなかにいろいろな事象や感情を、まるでそれらがそこにあるのが当然であるかのように識別しようとする」。だから批評家は「純粋に音楽的な効果に立ち向かうと、かれは完全に途方に暮れてしまい、それゆえ、標題音楽や歌曲やオペラなど、なんらかの形で歌詞に関わる音楽について書く方が都合がよいのだ」。「ともに音楽について語れる音楽家は、実際もうほとんど存在しない!」。
シューベルトのよく知られた歌曲について、シェーンベルクはその歌詞について「まったく知らなかった」ことに気づきます。「ところが、のちにそれらの詩を読んでみて明らかになったのだが、詩を知ったからといって、これらの歌曲の理解にとって得られたものなど、まるでなかったのである。むしろ反対だった」。
「私に明らかになったところでは、詩を知らないときの方が、元々の言葉による思想の表面が脳裏に焼きついたときより、内容を、本当の内容を、もっと深く捉えていたとすらいえるかも知れないのだ」。
「この体験よりもさらに決定的であったのは、つぎの事実である。私は自分の歌曲の多くを、最初の歌詞の冒頭の響きに心奪われ、文学的事象がその先どうなるか少しも気にかけずに、それどころか、作曲に夢中になって事象を少しも理解せずに最後まで書いてしまい、その後幾日も経ってからようやく、そもそも自分の曲の文学的な内容はなんだったのか調べようと思い立った」。
「そこで明らかになったのは、実に驚いたことに、冒頭の響きと最初に直接触れて、それに導かれ、この冒頭の響きにどうやら必然的につづくと思われるものすべてを察知したときほど、私が詩人を完全に正しく理解したことは一度もなかったのである」。
以下は次回の更新のときに。
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