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2010年10月

2010年10月31日 (日)

北村季晴「おとぎ歌劇ドンブラコ」をめぐって その4

北村季晴のプロフィールは以下の通り。kotobank。
1872-1931明治-昭和時代前期の作曲家。
明治5年4月16日生まれ。音響学者田中正平の指導をうける。三越呉服店音楽部主任をへて,明治42年北村音楽協会を設立。長唄などの邦楽を五線譜上に採譜した。作曲に唱歌「露営の夢」「信濃の国」,歌劇「どんぶらこ」など。昭和6年6月17日死去。60歳。東京出身。東京音楽学校(現東京芸大)卒。

「長唄などの邦楽を五線譜上に採譜した」の1行が目を引きます。
そのことは「おとぎ歌劇 ドンブラコ」のCDの解説書に詳述されているので、以下に引きます。

「長唄にも通じ『長唄をピアノや西洋楽器で完全にやれたらどんなに面白いだらう」と考えていた清兵衛(引用者注/鹿島清兵衛。「明治紀文」とうたわれた豪商で趣味人)と「邦楽改良」を志していた季晴は意気投合したようで、長唄の採譜と、三味線と洋楽器合奏のための編曲が始められた」。

「そのうち長唄の杵屋六座衛門、常盤津の岸澤古式部、清元梅吉など当代の名流」が加わり作業が進み「市川團十郎(九代)宅での稲荷祭に福地桜痴作『花の扇』をヴァイオリンと三味線伴奏で作曲した。
これが面白がられて、6月5日(引用者注/1894年・明治27年)から5日間歌舞伎座における舞踊『二人道成寺』を長唄とピアノ、オルガン、ヴァイオリン、クラリネットの和洋合奏で上演。’96年1月にも團十郎の『道成寺』に出演している。

ここで思い出すのは、作曲家/ピアニストの久保洋子さんの師・近藤圭さんの作品です。
彼の作品は能楽、歌舞伎、常磐津など日本の古典芸能に基づくものが多く、邦楽の音、響きを西洋音楽、西洋楽器に移し替えて、東洋と西洋の音楽を、その違いや共通するかもしれない要素を問い直すものでした。音楽言語としては、西洋の現代音楽を用いつつ。彼のはるかな先人に北村季晴がいたこと。

北村季晴の時代は、明治政府の意図により伊澤修二らによって「西洋音楽を取り入れる。ついては日本のこれからの音楽を和洋折衷のスタイルにすべく、努力されたし」の方針があるのみでした。邦楽の側の名人たちも、彼の試みに歩み寄っていたのもおもしろい。

2010年10月28日 (木)

北村季晴「おとぎ歌劇ドンブラコ」をめぐって その3

北村季晴「おとぎ歌劇ドンブラコ」を聴いてみました。

おとぎ歌劇の名作として、すぐ頭に浮かぶのはフンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』。
モーツァルトの『魔笛』もおとぎ歌劇に入れてもいいのかも知れませんが、あれは途中で善の側の人間と悪の側の人間が逆転してしまうので、お話としてはわかりにくい「おとぎ話」です。

しかし音楽はこどもの耳になじみ、胸にも沁みこむもので、僕の娘は2歳児のときから自分で「押すだけ」の機械のボタンを押して、くりかえしベルイマン監督のスウェーデン製『魔笛』を見てました。彼女がいちばん好きだったのは「おねえちゃんのかわいそうな歌」で、それはパミーナのアリア「愛の喜びは露と消え」で、その歌詞は「死に安らぎを得るしかない」と結ばれます。

荒唐無稽な台本とは対照的に理屈のかぎりを尽くしたシェーンベルクの『モーセとアロン』。これもまた台本のわかりにくさとは別の、最高の生命力を放つ鮮烈な音楽が輝いています。
オペラの「音楽」の出来は、しばしば「台本」を超えてしまう、という2作品の例ですが、一般的にはヴェルディ、プッチーニは台本がいいと音楽もいいし、二つながらの高い水準をめざしたR・シュトラウスとホフマンシュタールのコンビは、ベルク、シェーンベルク以前のスタイルによるドイツ語のオペラの究極の美しさを誇り、『ばらの騎士』が最高。

その前は、というと言うまでもなくリヒァルト・ヴァーグナーですが、そういえば彼の「楽劇」も「おとぎ話」っぽい。
カラヤン/ベルリンの全曲盤を聴くときに、最もそれがよく現れます。主人公に過度な感情移入をカラヤンはしません。この演奏にドイツの批評家シンミングが「彼はスコアに光を透かすことができる指揮者だ」といいましたが、その通りです。見通しが広くて、すべての役が生きていて、響きは透徹して美しく、誤解は恐れませんから書きますが、まるでディズニーランドのおとぎの国に遊ぶかのような『指輪』がそこにあったのです。

ドイツ語のオペラはベートーヴェンとベルクを除けば、ウェーバーも「おとぎ話」。
イタリア語のオペラは、はるかに人間臭いです。近松風の人情もの、悲恋もの。必ず誰かが死ぬんだ。

「おとぎ歌劇ドンブラコ」を聴いてみました。
日露戦争後の明治の子供たちに向けて書かれたものですが、お話は「桃太郎」です。

だいたい僕は「桃太郎」が好きじゃありません。こうした民話に出てくる悪役は、ときの権力への反逆者であり、「退治する」とは「虐殺する」ことに他ならず、彼らは例外なく「鬼」か「蛇」か駆逐されるべき「妖怪」として登場させられます。水木しげるが愛情をこめて描いた妖怪のひとりひとりの多くは、権力に敵対した部族です。
桃太郎は鬼を退治して、宝物を巻き上げる。侵略と略奪。権力の自己肯定と自己賛美。みにくいお話です。

こうした「桃太郎」の非人間性は、北村季晴の「おとぎ歌劇」ではかなり薄められています。
鬼という「敵」の人間性を認め、尊重する人間らしさがあり、それは鬼が島に来た桃太郎一行が鬼たちの歌う「聖歌」(この部分の音楽は美しい)を聴き、桃太郎が「あれは鬼が島の王宮で、神に祈祷の歌を捧げて居るのじゃ」という台詞にあらわれます。そして合戦のあとの第四場。「講和条約成立の祝宴開かる。敵も味方も今は互いに打ち解け和気藹々たり」と弁士が述べる部分。


2010年10月27日 (水)

北村季晴「おとぎ歌劇ドンブラコ」をめぐって その2

日本のオペラといえば、僕の少年時代にはLPで山田耕筰『黒船』[1940)、清水脩『修善寺物語』[1954)が出ていて、それらよりも何よりも団伊玖磨の『夕鶴』(1949)がなんといっても有名でした。作曲家の25歳の作品です。

木下順二の脚本の力は、『夕鶴』を音楽なしの舞台演劇としても山本安英によって繰り返し演じられ、歌劇の方は近年になっても釜洞祐子の主役で歌われた公演を大阪で見ました。また1981年には山田耕筰の遺作『香妃』を団伊玖磨が補筆完成させたものの初演を大阪で聴きました。

黛敏郎のベルリン初演のオペラ『金閣寺』を日本で見たいと願っていますが、その夢はまだ果たせていません。また『KOJIKI』を1996年につくっていますが、こちらの方は2001年に大友直人らによって上演された記録があります。望むはCD化です。

さてさて、僕とても日本のオペラに東儀鉄笛(1869-1925)の『常闇』(1906、脚本/坪内逍遥)や、小松耕輔(1884-1966)の『羽衣』(1906、脚本/小林愛雄)の存在を知らなかった訳じゃありません。ことに坪内逍遥は僕には「シェイクスピアの先輩」ですから。彼はヴァーグナーのような日本の「国民楽劇」を、と叫んでました。

しかし、ある日忽然とCDショップに「北村季晴:おとぎ歌劇『ドンブラコ』」全曲盤が出現してるのを目の当たりにし、その帯にいわく「明治45年に発表された『ドンブラコ』は日本最初のオペラと言われています」とあるのを見て、
1912年じゃ「最初」って嘘じゃん、と舌打ちしながらも、楽譜も実際の音も知らなかったので買いました。2009年初夏のことです。

演奏は、宇野功芳指揮 アンサンブル・フィオレッティ。女声合唱団の面々が独唱、台詞もこなして、「木遣り」は宇野さん自身の声で。弁士/篠崎幹子、ピアノ/佐藤和子、オルガン/高柳未来、ホルン/西田克彦。日本キング KKCC3023。「百年を経て完全に甦った幻のオペラ」というリード・コピーが、100年前の音楽家の気持ちになれば嬉しいじゃありませんか。


2010年10月26日 (火)

北村季晴「おとぎ歌劇ドンブラコ」をめぐって その1

北村季晴(きたむら・すえはる、1872-1931)という作曲家の名を、以前に見た記憶がありました。
むかし宝塚ファミリーランドの中にあった「宝塚少女歌劇」の博物館のなかでだったか、それとも「阪神間モダニズム」のことを、その遺産を直接に受け継いでいる立場の人間として調べていたときのことだったか。

鉄道省の電車「省線」でなく、私企業が創設した「私鉄」阪急電車を創設した小林一三(1873-1957)は、それが利益を追求できる「事業」としていろいろなアイディアを考え実行し、成功させました。終点駅に直営の百貨店を作る、沿線に遊園地を作る、沿線の主要な駅に住宅地を開発する、などですが、この方法は「東急」の五島慶太や「西武」の堤康次郎が学んでいます。小林一三は「私が死んでもブレーブスとタカラヅカは売るな」と言い残しました。

野球の「阪急ブレーブス」はしかし売られて、現在は「オリックス・バファローズ」。西宮球場も解体されて、現在は「阪急西宮ガーデンズ」としてショッピング・センターになっています。
売られずに残っているのが「宝塚歌劇」とその劇場。バブル以後の企業経営者は「赤字垂れ流し部門」は、創業者の意志などどこ吹く風と、どんどん「整理」することになっています。根強い人気があるのでしょう。
北村季晴の「おとぎ歌劇ドンブラコ」は、小林一三が東京まで見に行って「宝塚少女歌劇」の公演第一作に選んだ作品なのでした。その意味では、すでに「歴史」に残っていた作品。

そして、『国家と音楽』伊澤修二がめざした日本近代 奥中康人著 春秋社 にも、3か所、北村季晴の名が出てきます。
まず、フルベッキが「岩倉使節団の派遣を提言するなど、明治政府のアドヴァイザー的な立場にあった」ことの記述の続きに「フルベッキはオルガンを所持していたらしく、北村季吟の末裔、北村季晴にオルガンを教えたという記録もある」(p.96)

次に、北村自身の伊沢の思い出が語られる部分。彼は伊沢修二の講義を受けることができた最後の世代です。「伊澤先生は当時発音学に造詣の深かった人、学校にても発音科があって校長自ら教鞭をとり、視話法(ヴィジブルスピーチ)を応用して厳しく国語の発音を匡正された」。

「最初吾々生徒は、日本人が日本語を発音するのに、何もそんなに喧しく云はないでも好さそうなものだと思ったが、其後伊澤先生の去られて、発音科も無くなってから、漸く唱歌の発音が乱暴になり只々西洋風の発音を真似すれば好い、といふ風で、遂に声楽上自国語の発音まで滅茶苦茶に成り、何所の国の言葉で歌って居るのだか分らぬ様に成ったのを顧ては、当年先生の意が推察される」。(p.229-230)
日本語歌曲の発音については、声楽家、合唱団の現在まで続いている課題です。

そして、最後。著者の奥中康人氏の「あとがき」。
「本書では(略)音楽そのものについて言及することはできなかった。伊澤修二をはじめ明治の音楽家が、いったいどのような音楽(国民音楽)を創成しようとしたのかについて、たとえば北村季晴や本居長世のような異才(二人とも有名な歌学者・国学者の末裔である)が伊澤の精神を継承して」(p.238)というようなことは別の機会に、と。

2010年10月24日 (日)

ペリーが来て開国 その5

アメリカ留学から伊沢修二が帰国すると「東京師範学校」(これからの明治政府下の近代国家を作るための教育者を養成する学校です)の校長になりました。メーソンの指導で西洋音楽の音階ドレミファソラシドもうまく歌えるようになっていたようです。

「音楽取調掛」に任命され、早速メーソンを日本に招きます。1879年(明治12年)になっていました。メーソンとともに編纂した『小學唱歌集』は、日本人に西洋音楽を植え付けようという目論見でつくられました。これにはドレミソラドの5音音階のもの(その原曲の多くはプロテスタントの讃美歌です)から7音音階(これも同じくです)収められています。

プロテスタントの讃美歌のなかには「たんたんたぬきの」なんとやらの原曲まで含まれていますが、それは勿論替え歌です。「ごんべさんのあかちゃんが風邪ひいた」も同じく。メーソンの来日以前から、神戸や横浜などの居留地で、教会や私塾で讃美歌は歌われていて、日本にキリスト教を植え付けようとした欧米人宣教師たちの情熱はすでにそういう土地では根付いていたのです。(このあたり『唱歌と十字架』安田寛著、音楽之友社刊を参照)

「唱歌」という言葉は、「『ショウガ』とも読み、もともとは、器楽の譜を『ターラロー』などと声で歌うことを意味した、宮中の雅楽の専門用語だった」。(前掲書)。小学校の教科として音楽がその名で呼ばれたのです。他の科目より遅れて14番目の科目。
1872年(明治5年)に「学制」が発表されてから10年。その間に伊沢修二の汗と涙の努力の日々があったわけですが、1882年(明治15年)にようやく日本の歴史上はじめての「西洋音楽」の教科書『小學唱歌集』が世に出たわけです。

神戸女学院は日本でいちばん古いミッション・スクールのひとつです。その学校にエリザベス・トレイという女性教師がいました。(以下の記述も前掲書によります)。
彼女は「日本の宣教師たちはメーソンの仕事の協力者になった」といいます。メーソン自身は熱心なクリスチャンではあったけれども、あくまで音楽教育者。明治政府の音楽教育は「地下道を通じて、居留地の讃美歌教育が公教育に秘かにもち込まれたのではないか」。

トレイは、日本人伝道師を育てるためには、できるだけ早く讃美歌を歌える能力を身に付けさせることだったといっています。
その居留地の特殊な実験に過ぎなかったものが、公立学校を通じて一挙に日本全国に広がっていくことになったのではないだろうか」という疑問を安田寛氏は抱きます。その謎解きが『唱歌と十字架』(音楽之友社)という本。現在は絶版ですが、古本か図書館で興味のある方は一読を。

トレイの回想に、こんな言葉があります。
「少女たちを教えることはとても大変でした。原因は、それは日本人の声の特性の一つなのですが、彼らは高い声を出すことができないのです。彼女らの誰にも、高いドと同じ高さを歌うことは難しいのです。それより高い音符は歌えないのです」。

また、「音階の二つの音は、ほとんど教えられません。シとファです。ファなどはまったく正確に歌えません」
「広く認められていたことですが、音楽学校の年配の生徒は、歌の力を獲得することはもう絶対に不可能でした」。
だからこそ、宣教師たちも、もう子供の早期教育に期待するしかなかったんですね。トレイがコーベ・カレッジに勤めた1890年(明治23年)から1898年(明治31年)の日本の音楽学校での話です。

一方、伊沢修二は1888年(明治21年)には東京音楽学校(現東京芸術大学)、東京盲唖学校の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努めましたとさ。

2010年10月23日 (土)

ペリーが来て開国 その4

明治政府の「音楽取調掛」担当官、伊沢修二は高遠藩の藩校から東京の「大学南校」に進みました。高遠藩では鼓手を務めドリルを打っていたとのこと。だからリズムを取ることはできたものの、西洋音楽の7音の音階を声に出してとることができなかった。

大学南校に呼ばれた教師のほとんどは欧米人であり、「その多くがキリスト教(プロテスタント)の宣教師でもあった」(『国家と音楽』奥中康人著、春秋社刊)ことは注目に値します。
グリフィスは敬虔なクリスチャンであり教会で説教をした。ヴィーダーはアメリカで牧師をしていた宣教師。開成学校に呼ばれたサイルもアメリカ聖公会派宣教師。

あれほど蛇蝎のごとく「キリシタン」を嫌悪し排除し、弾圧し、拷問死させた国。明治政府のはじめには「外国人居留地」にのみ宣教師の流入を許したものの、日本人には布教を禁じていた国。それが単に欧米人に認められたいという打算と見栄のために「学制」の中枢に宣教師が入ることを認める。

国家というものは、かくも論理的にも倫理的にも壊れたものであり、明治政府ははたして権力者として自らの内面の問題として「禁教令」を引き継いだことの誤りを「キリシタン」らに公的に謝罪したことがあったでしょうか。のみならず、天皇を「神聖化」したのは彼らの権力を強固にする「政策」に過ぎなかった。よくよく宗教に関して無知な人間の集団であったことがわかります。無知だからこそ、人を平気で弾圧した。大逆事件は歴史に残る冤罪事件。国家による無実の人殺しの狂気の犯罪でした。

閑話休題。大学南校の教師の中にはフルベッキがいて、彼はオルガンを持っていたらしく、作曲家・「北村季春にオルガンを教えたという記録もある」(前掲書)。北村季晴については後で触れます。

アメリカ留学時、ブリッジウォーター師範学校での伊沢修二のことを、金子堅太郎が次のように回想しています。
「或る日[伊沢が]我々留学生を招き其唱歌を謳ふて聞かせたれは列席したる学生は皆其幼稚なるに驚き大笑したり」(前掲書)
ブリッジウォーターを辞した伊沢修二は、メーソンに出会い唱歌をうまく歌える練習を積むことになります。メーソンとともに、同時に「日本人向けの唱歌教材の開発がすすめられた」といいます。

2010年10月22日 (金)

ペリーが来て開国 その3

明治政府は、でっちあげた「学制」では音楽を「西洋音楽」で進める。

あらゆる学問、芸術から日本古来のもの、伝統あるものが「近代日本」をつくるためには不要なものとして、音楽のみならず医術の諸分野までもが邪魔者扱いされる狂気の時代が訪れます。

その頂点が井上馨外務卿によってつくられた鹿鳴館(1881年、明治14年)であり、そこで毎晩のように開かれた夜会は、訪れた欧米人には田舎の猿芝居以外の何物でもなかったでしょう。そこに集められたのは、政府高官、外交団、そしてヨーロッパの貴族を真似た華族です。爵位を金で買った成金もいたということです。

その時代、官民を挙げての文化「改良」運動が起こり、たとえば渋沢栄一と森有礼による「演劇改良会」などは能・狂言、歌舞伎などを馬鹿にしてたのでしょうか。

日本の「西洋音楽」教育は1872年明治5年太政官布告で学制が発表され、そのなかに小中学校の音楽教育のことも規定されてました。しかし具体的にはなんの研究も準備もなく1878年に伊沢修二と目賀田種太郎が音楽教育の意見書を文部大臣に提出。1879年に政府は音楽教育の調査と研究のため「音楽取調掛」を開設し、伊沢が担当官(御用係)の任につきました。

伊沢修二は1875年から1878年までアメリカ合衆国に留学し、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校に入学しました。伊沢はここで優秀な成績をおさめたが、唱歌だけが苦手であったといいますが、本人の弁によれば、こうです。

「12(ヒーフー)丈けは可いが3(ミイ)となり4(ヨオ)となれば皆上がり過ぎて、先生にも叱られ」(『国家と音楽』奥中康人著、春秋社刊)。つまり、数字は音階で、ドやレはいけるけれどもミとファになれば上がりすぎて駄目だ、と告白しているのです。問題はファとシなしの四七抜き音階どころじゃなかったんですね。

彼はまた書いています。同情した校長ボイデンの言葉として。
「我思ふに音楽のこと東西同じからず、汝東洋の極端なる日本国に生まれたれば、到底我西洋の音楽を解することは難かるべく」(前掲書)
そしてボイデン自身はもっと率直に、日本人には「西洋の音律を解すること」ができない、といっているとのこと。(前掲書)。

この人、伊沢修二が、やがて教育の中心を「万世一系の皇室」に置き、「忠君愛国」を徳を音楽教育の初歩に学ばせる「唱歌」にその役目を担わせたわけですが、その「唱歌」創造の影にはキリスト教を布教せんと目論むアメリカ人宣教師兼音楽家がいたのでした。あれ?

2010年10月21日 (木)

ペリーが来て開国 その2

1868年、明治元年。明治政府ができました。

さあ、それからがてんやわんやです。
江戸が東の京の東京となり、これまでの地方の町を大急ぎで「近代国家の首都」のように取り繕わなければなりません。それには、とりもなおさず教育体制だ。日本のあちこちで、自由にさまざまな方角を向いた藩校や私塾によって、新政府転覆を狙う若者が養成されたらせっかく権力を握った自分たちが危うくなるからです。

というわけで翌1869年(明治2年)、彼らは東京に「大学」を設立しました。
大学本校は従来の昌平坂学問所を継承し皇学と漢学、大学東校は前の西洋医学所でドイツ医学。昔の開成所が大学南校になり洋楽一般(外国語、歴史、地理、物理、科学など)。この内、本校は翌1870年(明治3年)7月にさっそく閉鎖の憂き目を見ています。
江戸時代には、漢学、国学があり、洋学(蘭学)がありました。その内の洋学だけを明治の日本の大学の柱として立てたのです。

かわいそうな国学。
篤胤や宣長の読み手は退けられて、不思議なことに天皇を神聖にして不可侵とする政権なのに、今の国学院は神社の神主になるための過程が、伊勢の神宮皇學館とともに日本に二つありますが、私立の大学です。
明治政府は天皇を神とする人為的な政策をとったはずなのに、この宗教国家の天皇への国家的侮蔑は何か。本心はべつに尊敬すらしていなくて、ただ己の権力のために利用したかったのが見て取れます。

明治政府は西洋の眼しか眼中になかった。西洋はキリスト教国家の集群であり、彼らに認められなければ、近代国家日本は西欧列強に比肩する力を持ちえない。日本の学問の初めは、打算から開始されました。

2010年10月20日 (水)

ペリーが来て開国 その1

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリーが率いる黒船が浦賀に入港した後、翌年「日米和親条約」を締結して、江戸幕府は長い鎖国の時代を解きました。ここから明治維新までを「幕末」といいます。「条約」締結の時に通訳として活躍したのがジョン万次郎こと中濱万次郎です。土佐の人。

1612年(慶長17年)及び1613年に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる「禁教令」により、「邪宗門」に属するものは「踏み絵」で試され、「俵責め」、「穴吊るし」などの拷問を受けて棄教し、あるいは殉教しました。キリシタン大名たちや信長、そして秀吉までもが聴き、セミナリヨやコレジオで青少年たちが歌い、一般の信徒たちが耳にしかつは歌った「西洋音楽」はここに断ち切られ、生き延びることができた「隠れキリシタン」には口承口伝を通じてそれらは「オラショ」として伝承されてきました。

そして、サヴィエル上陸の1549年から1612年までのおよそ60年の間に、宣教師たちと信徒の日本人たちの演奏した、歌われた「西洋音楽」はそれを耳にして感動を覚えた人たちの記憶から消えることはなかったと思われます。京都、伏見より東へ行った宣教師もいたことでしょうが、やはり濃いのは鹿児島、大分、山口など九州から中国地方、そして堺から京都にかけての近畿。京・大阪は文化の中心地であり文学も音楽も芸能もすべての分野の人間がいて、その中の誰かが「西洋音楽」に触れる機会がなかったとは言い切れません。

サヴィエルの弟子に琵琶法師ロレンソ了斎がいました。彼のようにキリスト教に帰依しなくても、教えを通じて彼らと彼らの「西洋音楽」にシンパシーを感じた当時の日本の音楽家はいたに違いなくて、容易には明るみにならないかたちで彼らの音楽に織り込んでいった、と考えたい。

開国以来、禁教令は緩和されていきます。
1859年(安政6年)、幕府は開港場居留地で外国人の信仰の自由を認めて宣教師の来日を許可しました。カトリック教会は宣教師を派遣しS・B・ジラールは江戸入りしています。ジラールは1862年1月(文久元年12月)に横浜天主堂を建立。「隠れキリシタンの発見」で有名なベルナール・プティジャンは1862年に来日し1864年に大浦天主堂を建立しました。
アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはプロテスタントの宣教師が来日しました。正教会からは1861年ニコライ・カサートキンが函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として来日し、日本ハリストス正教会を設立しました。

しかし依然として日本人に対する布教や日本人の信仰は禁止されていました。
明治政府がそれを認めざるを得なくなったのは、明治6年(1873年)にまず、制度としての高札が廃止されるのと同時にキリスト教の禁止も取り止められました。その後、宣教師の日本人へのキリスト教の布教が行われるようになりますが、明治政府としてキリスト教の活動を公式に認めるのは1899年の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」によってです。

2010年10月19日 (火)

サヴィエルの後継者ヴァリニャーノ その5

天正遣欧少年使節が持ち帰った文物の「物」は、航海のための海図、西洋楽器、そして活版印刷機です。

ヨハネス・グーテンベルク(1398年ごろ-1468年)の金属活字の発明は飛躍的に書物の印刷部数を増やし、その最初の作品が1455年に出した「グーテンベルク聖書」(旧約・新約聖書のラテン語版)でした。それまでは木版。職人が板に文字の鏡像を掘って版画のように刷っていたのです。木はすぐに擦り減り、発行部数も限られたものでした。ルネサンスの3大発明のひとつに挙げられる所以であって、羅針盤と火薬と肩を並べるもの。

聖書自体がさらに飛躍的に世界に普及するのは、ウィリアム・ティンダルの英訳、マルティン・ルターの独訳が激しいローマ・カトリックからの攻撃を受けつつ出版した宗教改革の時代ですが、それは別の話。それらを一般市民の間に普及させるためにもグーテンベルクの活版印刷は大きな力を発揮しました。当時はラテン語は社会の高位の教育を受けた人間にしか読めませんでした。そしてそれは、本来、権威の支配を唾棄したイエスの思想を裏切るもので、といった議論も別の話。やれやれ。先へ進みます。

ヴァリニャーノは日本に持ち込まれた活版印刷機を使って、猛然と書物を出版し始めます。
伊曽保物語もそのひとつでした。もともとはコレジオで使う教科書をつくること、のちに一般向けの片仮名交じりの書物をも、という流れでした。当時日本に派遣されていたポルトガル人の宣教者にも相当な日本語の使い手がいて、彼らに学んでいた日本人も相当なラテン語、ポルトガル語に習熟した信徒がいたのです。

そのなかにはポルトガルからくる宣教師のための日本語辞典もあり、「どちりいな・きりしたん」などの教義書などは日本人が読むキリスト教の教義書です。これらを総称して「キリシタン版」と呼ばれています。以下が現在残るその全貌です。

サントスの御作業のうち抜書 日本語 ローマ字 1591 加津佐
ドチリナ・キリシタン     日本語 ローマ字 1592 天草
ヒデスの導師         日本語 ローマ字 1592 天草
平家物語            日本語 ローマ字 1592 天草 伊曽保物語・金句集ととも編まれた。
伊曽保物語         日本語 ローマ字 1593 天草
金句集            日本語 ローマ字 1593 天草
拉丁文典      日本語・ラテン語・ポルトガル語 ローマ字 1594 天草
拉葡日対訳辞典  日本語・ラテン語・ポルトガル語 ローマ字 1595 天草
心霊修業            ラテン語 ローマ字 1596 天草
精神修養の提要         ラテン語 ローマ字 1596
コンテンツス・ムンヂ     日本語 ローマ字 1596
ナバルスのざんげ・告解簡略提要 ラテン語 ローマ字 1597
落葉集            日本語 国字 1598
サルバトール・ムンヂ     日本語 国字 1598
ぎや・ど・ぺかどる     日本語 国字 1599
ドチリナ・キリシタン     日本語 ローマ字 1600
和漢朗詠集         日本語 国字 1600
おらしよの飜譯         日本語 国字 1600 長崎
どちりな・きりしたん     日本語 国字 1600 長崎
金言集            ラテン語 ローマ字 1603
日葡辞書       日本語・ポルトガル語 ローマ字 1603-4 長崎
日本文典       日本語・ポルトガル語 ローマ字 1604-8 長崎
サクラメント提要    ラテン語(日本語) ローマ字 1605 長崎
スピリツアル修業       日本語 ローマ字 1607 長崎
聖教精華            ラテン語 ローマ字 1610 長崎
こんてむつす・むん地     日本語 国字 1610 京都
ひですの經          日本語(ラテン語・ポルトガル語) 国字 1611 長崎
サルペ・レジイナ、十戒他断簡     日本語 国字
祈祷文断簡                日本語 国字
「どちりいな・きりしたん」         日本語 国字
「ばうちずもの授けやう」         日本語 国字
太平記抜書                日本語 国字

この中で「サクラメント提要」に、西洋音楽の楽譜があります。「Manuale ad Sacramenta」はラテン語の典礼書で、19曲のラテン語聖歌がネウマ音符に五線を添えた形で記譜されています。セミナリヨやコレジオで神学を学んでいた学生たちにより歌われた、と考えられています。皆川達夫氏監修・解説の『CD&DVD版 洋楽渡来考』にその楽譜を再現した聖歌が収められています。

これらの歌、少年使節が持ち帰った西洋楽器による音楽が江戸の禁教令により撲滅されたことにより、日本の西洋音楽は明治期に信じられないほどの稚拙な出会い方をすることになるのです。


2010年10月16日 (土)

サヴィエルの後継者ヴァリニャーノ その4

ヴァリニャーノの1回目の日本滞在は1579年7月25日のこと。1582年に天正遣欧少年使節の付き添いでインドのゴアまで共に行きゴアに残りました。

彼は「異国の地では異国の文化を知り、異国の風習に従って」という姿勢をとりました。後続のヨーロッパのやり方を通すフランシスコ会、ドミニコ会とは一線を画す狙いがありました。「適応主義」としてイエズス会の内部からも非難する声がありましたが、彼の弟子マテオ・リッチはヨーロッパでの中国の言語と文化の先駆者になり、中国定住を果たしました。

ヴァリニャーノは大友宗麟、高山右近、織田信長らと謁見。来日時の日本布教の準管区長カブラルがアジア人を蔑視していることから1582年に彼を去らせて、かえって布教のためには日本人の司祭を育てなければならないと考えました。そのために作られたのが1580年有馬(南島原市)と安土の小神学校セミナリヨ、1581年府内(大分市)の大神学校コレジオ、そして1580年に臼杵の修練院ノビシャドなのでした。

そして「天正遣欧少年使節」の発案と実行。セミナリヨで学んでいた伊東マンショ、千々石ミゲルを正使、中浦ジュリアン、原マルティノを副使として1582年2月20日 長崎港を出港。1584年8月10日ポルトガルの首都リスボンに到着。以後、マドリード、フィレンツェ、ローマなど諸都市を訪問。
1586年4月13日 リスボンを出発。1587年7月 豊臣秀吉によるバテレン追放令発布。1590年7月21日(天正18年旧暦6月20日) 使節団帰国。

そして1591年3月3日(天正19年閏1月8日) 聚楽第において豊臣秀吉を前に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏とされますが、はたしてジョスカンのどの曲だったのか。
皆川達夫氏の推測では『千々の悲しみ』"Mille regrets" らしいです。この曲はスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)が好んだため「皇帝の歌」として、まずスペインで爆発的に流行し、その後ローマを含む全ヨーロッパで流行ったもの。

彼らが演奏したのは四重奏で奏でた楽器はアルパ(小さいハープ)、クラヴォ(クラヴィコルド、鍵盤楽器)、ラウテ(リュート)、レべカ(ヴィオラ・ダ・ガンバ=ヴィオール)で、持ち帰った楽器にはもう一つクラヴィチェンバロでした。
4人はそれぞれ秀吉に家臣にならぬかと下問され、それぞれに断り「司祭になります」と答え聚楽第を辞しました。

ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明していました。
まず、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両国王に日本布教の経済的・精神的援助を依頼すること。
そして日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光と偉大さを少年たち自らに語らせることにより、布教に役立てたいということ。
それは、一方では島原の乱の嵐の時代以後、隠れキリシタンの信仰に受け継がれました。祈りも、歌も。

しかし、思うのですが、少年たちが持ち帰った西洋音楽と西洋楽器の響きと音律、グレゴリオ聖歌やルネサンスの合唱の響きは、彼らが生きた、歩いた地の誰かに受け継がれていなかったとは断言できないのです。それはおそらくは、名前さえ知られない耳の鋭い日本の音楽家。当時日本にあった大陸・半島伝来の楽器であったにせよ、また民衆に伝わる歌の伝承者にせよ、彼らが伝えた西洋音楽の要素を取り入れなかったとは言い切れません。

でなければ、どうして今夏の日本音楽学会 第340回定例研究会「筝曲《六段》の成立にかんする一試論~日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い~」【講師】皆川達夫(立教大学名誉教授) 久保田敏子(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター所長)のような説得力のある発表がなされたのか。


2010年10月15日 (金)

サヴィエルの後継者ヴァリニャーノ その3

日本にキリスト教が入ってきた時代のポルトガル宣教師たちの書いた記録として、サヴィエルの『書簡集』とルイス・フロイスの『日本史』の2冊の本が主要なものであり、幸いに両書とも日本語に訳されています。東洋文庫に収められていて、前者の抄訳は岩波文庫で読めます。ヴァリニャーノはフロイスの『日本史』を校閲した人でもあり、長いから短縮するように、と示唆したにもかかわらずフロイスはそのまま置いておいたので、長いまま僕たちはそれを読める。

サヴィエル(1506-1552)、ヴァリニャーノ(1539-1606)、フロイス(1532-1597)。日本に来たのはヴァリニャーノよりフロイスの方が早く1563年。インドのゴアで彼はすでに来日前のサヴィエルとヤジロウに会っていたのです。1569年織田信長に会い、仏教僧侶に辟易していた彼から布教の許しを得ます。1580年、ヴァリニャーノ来日。通訳として視察に同行、安土城でともに信長に拝謁。1583年から日本でのイエズス会の活動記録を書くことを求められ、執筆に専念。

前年の1582年は大きな2つのことがありました。2月20日に長崎港から九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として「天正遣欧少年使節」(ヴァリニャーノが発案)が出港。そして6月2日の本能寺の変で織田信長が殺されたこと。

明智光秀の「三日天下」の後を継いだ豊臣秀吉は、最初は信長の対イエズス会への友好姿勢を保っていたようですが次第に警戒。1587年6月19日には伴天連追放令を出します。それは徳川の「禁教令」よりははるかに緩く、キリスト教自体を禁止するものではなかったのですが。1590年、8年の歳月を経て西洋の文物を持ち帰った「天正遣欧少年使節」とともにヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉に謁見するのです。
それが信長だったら、どんなによかったことか!

1597年2月5日、秀吉の命により長崎で26人のキリスト教徒が処刑されました。サン=フェリペ号事件、フランシスコ会の挑発的な布教などが引き金になったとされますが、これが日本における「キリスト教徒だから、権力に殺された」最初の殉教です。彼らは1862年に列聖されたため「日本二十六聖人」と呼ばれています。
ルイス・フロイスは同年に『二十六聖人の殉教記録』を刻みつけ、7月8日に65歳で昇天します。
1606年まで生きたヴァリニャーノよりも先に。

2010年10月14日 (木)

サヴィエルの後継者ヴァリニャーノ その2

サヴィエルが1549年に鹿児島に上陸する前に、1543年に種子島に鉄砲が伝えられてました。
誰が伝えたか、は残っていません。倭寇はすでに13世紀から密貿易をする海賊・商人として出現、朝鮮半島や大陸沿岸で活動していて、金になる武器としての鉄砲はその後の戦を変えてしまいました。日本でそれを誰が広めたか、の名前もありません。

彼ら欧州・日本双方の商人は西洋の楽器は扱わなかったのか。
当時の日本の外来の楽器は中国・朝鮮から伝わったものの他に、西洋の楽器がなかったときに、調べ得るかぎりでは、やはりサヴィエルがキリスト教とともに初めて西洋楽器を持ち込んだとせざるを得ないのです。

サヴィエルの書簡集には日本人に音楽を教えたことは記されていません。歌を教えたことも書かれていません。彼のミサは歌ミサであったかなかったか、彼および後続の神父たちの祈りのポルトガル訛りのラテン語がわずかに「オラショ」の仮名に残るばかりです。

しかし『大内義隆記』のなかに「十三ノ琴ノ糸ヒカザルニ五調子十二調子ヲ吟ズル」ものを献じられたとあり、これは楽器のことに違いありません。(横田庄一郎氏著『キリシタンと西洋音楽』朔北社刊)

明治時代にはそれは風琴(オルガン)と考えられやがて否定され、一弦琴、70弦のクラヴィエール、12音の5音段を発する13弦の音楽時計などと解釈され、海老沢有道さんによれば「直接弦をはじかないで日本音階の五声十二律を発する」ものと。最近の結論は「モノコルディオ」、「その後のイエズス会文書に出てくるポルトガル語の『クラヴォ cravo』」であったとされています。(前掲書による)

サヴィエル一行の誰かが、その楽器を弾いて聴かせたのです。誰のなんという曲だったかも記録はありません。ヴァリニャーノがネウマ譜によるカトリックの聖歌を日本で出版する数十年前に西洋音楽の器楽の音楽が日本に響き、それを耳にした大内義隆ら日本人の中に鋭い耳を持つ楽士がいなかったとも決めつけられません。


2010年10月13日 (水)

サヴィエルの後継者ヴァリニャーノ その1

1549年8月15日に日本人ヤジロウ、中国人マヌエル、インド人アマドール、そしてイエズス会員2名を引き連れてフランシスコ・サヴィエルは鹿児島へ上陸してキリスト教を日本に布教する活動を広めました。

9月には薩摩の領主・島津貴久に会い布教の赦しを得て活動を開始。のちに日本人初のヨーロッパ留学生にしてローマ法王との謁見を許された「鹿児島のベルナルド」に出会います。

その後、平戸、山口、堺へ渡り、京を目指しますが1550年当時は戦乱で疲弊し室町幕府の権威は失墜、「日本の王」後奈良天皇の御所も荒れ果てたまま。京では何もできずに11日の滞在で去ります。

再び訪れた山口で、彼らの話に耳傾ける盲目の琵琶法師がいました。
彼こそが後にイエズス会に入会したロレンソ了斎であり、彼の説法は琵琶法師としての語り芸の力と、法師としての仏教、神道に通じた知識を伴って、多くの人をキリスト教の教義へと導いたことでしょう。
山田風太郎の小説『盲僧秘帳』では若き日のロレンソ了斎が登場します。

サヴィエルは1951年11月15日、日本を去ります。
そして1552年12月3日、中国本土での布教の夢を果たせないまま、46歳で昇天します。
サヴィエルが日本へ派遣した後任はバルタザル・ガーゴ神父。その後も彼らの活動によって「キリシタン大名」までが現れることになります。
高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷らがそれ。江戸時代になり1613年(慶長18年)の禁教令が出されたあと、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラに追放、有馬晴信は刑死。

彼らの領内にいた信者は踏み絵を踏まされ仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるかのどちらか
。戦いを選んだ旧有馬晴信領で起こった島原の乱では天草四郎ら多くの信徒が殺害されました。残った隠れキリシタンに伝わるのが「オラショ」です。

しかし、その悲劇的な時代の前に1579年7月25日、サヴィエルのイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ司祭が日本に上陸します。
彼は当時の西洋音楽「サカラメンタ提要」を印刷し、後に「天正遣欧使節」をローマに派遣します。日本に初めて伝わった西洋音楽は、かの地のルネサンス音楽なのでした。

2010年10月 5日 (火)

Twitterへどうぞ!

こちらのブログ、しばらくお休み。
10月末に芝居の本番があって、台詞を体に入れちゃうためです。
いわゆる頭で覚えるんじゃなくて、体に入れる。
でもTwitterで、ブログの続きにしそうなことを断片的に呟いてます。

http://twitter.com/#!/masa_yamr


2010年10月 3日 (日)

文学の言語について その9

翻訳する、ということ。

関東大震災後の谷崎潤一郎は「芦屋」(実際は神戸市東灘区にも西宮にも。戦前の阪神間モダニズムの象徴として「芦屋」とします)に移り住んで『細雪』を書きました。彼の母国語は東京の下町ことばでしたが、洗練の極に達していた上方のおんなことばを真水のような透明さで映し出しています。関西弁が耳に飛び込んでくるたびに、それが分かる人に「そりゃ、なんて意味だい?」が連発されていたに違いありません。ということは、彼の頭の中では「翻訳」と語彙と語の組み立ての分析、そして自ら関西弁を書いてみる、という作業があったでしょう。

彼以後の関西弁圏出身以外の作家の書く関西弁はどこかおかしい。例外は中井英夫の『虚無への供物』に出る大阪弁ですが、これは精確。それについては後書きで記されているように歌人・塚本邦雄の指導を得た、ということです。(東京の作曲家・三善晃さんに合唱曲『小さな目』というものがありますが、その中の一曲に「そんなことあらへん」という歌詞がある。三善さんの曲は「あらへん」の「あ」にアクセントが付いてておかしいんですよ。)

阪神淡路大震災後、小田実さんと僕は震災被災者に公的援助を求める運動のために、国会議員や内閣法制局や地元から全国の市民に向けてのことばを無数に書きました。「神戸」(西宮の小田さん、芦屋の僕を含めての「神戸」です)の被災者の言葉を伝えるためのことばの創造には、やはり「翻訳」という作業が必要でした。被災が甚大だった神戸市長田区のことばは僕の通ってた灘区のことばともまた違います。彼らの言葉を国会へ伝えるために用いた語彙と、全国の市民に向けての文書に使った語彙とは少しまた違ったものになったかも知れません。

フランシスコ・サヴィエル(前項でザビエルと表記していました。Xavierはサヴィエルと書くことにします。1506-52)は日本人ヤジロウを伴って、1549年8月15日鹿児島に上陸しました。バスク王国城主の子として生まれ、パリ留学時にイグナティウス・デ・ロヨラと知り合いイエズス会創立7名中最年少の参加者になりました。1541年リスボンを出発してインドのゴアへ。そして1546年、マラッカで日本人ヤジロウに出会い日本伝道を決意することになったのです。

しかし、どうして日本人がそんな時代にそんな場所にいたの?
サヴィエルの書簡からまとめます。「わたし」はサヴィエル。
「ポルトガルの商人たちは日本が熱心にキリスト教を受け入れる見込みがあるという。なぜなら日本人は学ぶことの非常に好きな国民であるからだ。この商人たちに付き添われてアンヘロ(アンジェロ、ともヤジロウは呼ばれました。アンジロウとも)に会った。彼は鹿児島でわたしのことを聞きここまで、彼ら商人たちの船に乗って来ていた。アンヘロはわたしに告白したかった。青年時代に犯した重大な罪(殺人、との説あり。引用者注)に対して、神からの赦しを与えられる方法を求めたのだ。」

「アンヘロは我らの信仰のことを聞きたいという熱望をもって来た。彼はかなりのポルトガル語を話すので、わたし達は互いに了解することができた。彼はわたしの講義に来て信仰箇条のすべてを自分の国語で書きとめた。彼はわたしに無数の質問を浴びせた。何でも知り尽くさずにはおかないという強い欲望をもっている。わたしは彼が同じ船に乗ることをおおいに希望した。」

ヤジロウは1548年、パウロ・デ・サンタフェという洗礼名を授けられた日本人最初のキリスト教徒になりました。
彼は粉骨砕身の努力をもってサヴィエルの布教を助けます。すでにゴアに滞在中「マタイによる福音書」の注解和訳を終えていました。『サン-マテウスのエワンゼリヨ』。しかし現在はその片鱗さえ見ることができません。僕が学生の頃にその筋の人(どの筋や)のお話を聞いたところによれば、最初期の聖書の翻訳では「神の愛」の「愛」の訳語にさえ四苦八苦したそうな。なんせ日本語にあらへんさかいな。アガペーやで。エロスとちゃうのんやで。それで辿りついたんが「お大切」ちゅう言葉やん。「神のお大切」ゆうてんがな。

それがヤジロウのことだったかどうかは分かりません。ただ、ヤジロウが「デウス(神)」を「大日」と訳せば日本人には分かるから、とサヴィエルに進言したことが後になって師匠を困らせることになりました。「大日を拝みなさい」と呼びかけると僧侶たちは仏教の一派だと思いこんでしまって、歓迎しました。あれ?
他にもパアデレを「僧」。パライゾを「浄土」。「キリシタンの御法」(みのり)」。「仏法」。これらのテヘ!の失敗には後年の海老沢有道博士も「仏教語を媒介としてキリスト教教理を伝えなければならないことは、いわば宿命的な条件であったから、当時としては止むをえないと言わなければならないだろう」と温かい眼差しを注いで下さってます。万歳、ヤジロウ!

翻訳とは、かくのごときもの。
さて今。どんなに僻地、どんなに地の果てにいても、文芸はネットを通じて全世界に発信できる時代になりました。しかし、まだ過渡期。旧時代から続いてる文芸の中心は東京にあり、紙媒体で全国に発信しようと思えば日販、トーハンの取次口座をもつ出版社から本を出すか、それが容易にできなければ雑誌に投稿するほかありません。東京に通じることばで書かなければ編集者に理解できず、賞の審査をする人たちにも理解できないからです。
そこで「言文一致」の母体である日頃喋ってる母国語を翻訳する、という作業が求められます。関西弁を母国語とするならば谷崎の逆作業。

現在は見るところ標準語は絶滅。誰もよそいきのことばで書いてません。よそいきでなくみんなにわかるのは「共通語」です。その共通語がネットの言葉で形成されつつあり不断に進化しています。日本語がんばれ。まだ成熟が足りない。千数百年の年季を経た京・大阪のことばの上に東京のことばが乗っかって、まだ百年余りです。まだまだ、新しい「口語」の文体は生まれたばかりです。

2010年10月 2日 (土)

文学の言語について その8

「大阪『都』」の前に。
東京の人には報道されることがあるのかないのか、ですが橋下大阪府知事は「大阪都構想」を打ち出しています。大阪都構想とは、かつて東京府、東京市を東京都としたように大阪府、大阪市を合体させて、新たに大阪都を設置する構想です。二重行政の解消が目的ですが、それだけが果たされて終わるのならば物足りません。

明治以来の東京首都政策、標準語政策等々、東京一極集中制度が解消されない限り「大阪『都』」は名ばかりのものに過ぎず、永遠にたこやきの街にすぎない地方の街に終わるでしょう。出版も報道も放送も、大阪からの全国発信ができない制度になっている今、それらの制度こそ国に改正を求めていくべきでしょう。いや、大阪に限らず、どの道府県からも全国発信できるようにしないと、この国の文化はますます面白くないものになっていくでしょう。

テレビを見る人が減っている。新聞を読む人が減っている。本を読む人が減っている。ネットやケータイのせいにするのは、人口減を女性の社会進出のせいにする役人の作文でしかなく、本当に将来が安心できて夢があれば若い夫婦は何人でも子供をつくるし、本当に面白ければテレビ見るし新聞読むし、本も読みます。

それらすべてが東京一極発信の制度にがんじがらめに縛られていて、もはや東京の人間にすら見捨てられてきた、というのが真相だと思う。文学も美術も音楽も、東京以外の場所で重要な作品、パフォーマンスが日々生まれています。それらは力ある人がみて評価しなければ、その場で消えてしまう。全国へ伝えるためには少しばかりではない力が必要です。北海道から沖縄までの全ての都道府県から全国発信できる制度に改める。東京の井上ひさしのみならず、東北の井上ひさしもいるかも知れない。文学の世界もそうなれば、より多様にして豊かな言語世界が日本に広がっていくことでしょう。

どうしてこんなに痩せた状況になったのか。戦争準備中の昭和15年9月の帝国国策遂行要領でそれは定められた、と堺屋太一氏はいいます。昭和16年(1941年)9月6日第3次近衛内閣時に御前会議において決定された国策ですが、アメリカから石油輸入全面停止を受けての英米への要求を出し、それが受け入れられなければ開戦するという国策。情報を統制する「大本営」体制。東京一極集中とは戦時の体制そのものだったことが以下の堺屋太一氏のことばを読めばわかります。

「第156回国会 国会等の移転に関する特別委員会 第4号
平成十五年二月二十六日(水曜日)
○堺屋参考人 
 戦後、昭和十六年体制、あるいは一九四〇年体制と言われる中で、官僚が猛烈な勢いで東京一極集中を無理やり進めてまいりました。そのやり方というのは、まず、産業、経済の中枢管理機能を全部東京に移す。そのために、全国的な産業団体の事務局は東京都に置かなければならない、二十三区に置かなければならないという指導を徹底しました。
 だから、もともと大阪にありました繊維業界の団体も、強引に、あの日米繊維交渉のときに無理やり東京に移しました。十年かけて移しました。名古屋にありました陶磁器工業会も移しました。京都にあった伝統産業振興会も東京に移しました。
 かくして、主要な企業の本社は東京に移らざるを得ない。団体が東京に移りますと、団体の長になるような大企業の社長は、何々工業会の団体長になりますと週に三回ぐらい東京に呼び出される仕掛けになっていますから、地方に本社を置いていられない。これでどんどんと移転した。これが第一であります。
 二番目は、情報発信機能を、世界じゅうで類例がなく、日本だけが東京一極集中いたしました。
 例えば、印刷関係で申しますと、元売を東京一極に集中しております。今これがまた問題になっておりますけれども、東京にしか日販とかトーハンとかいう元売会社はございません。したがって、関西で出版していたエコノミストやPHPは発行が一日おくれる。大阪で印刷した本を川一つ挟んだ尼崎で売るためにも、必ず東京へ持ってこなけりゃならなくなっております。これは非常に強い犠牲でございます。したがって、雑誌の場合は締め切りが一日早くなる。これで東京以外で雑誌をつくることができなくなりまして、全部東京へ無理やり移しました。これは国土政策懇談会でも何回も問題になりましたが、政府、官僚の方は頑固に譲りません。香川県や長野県でも元売をつくろうという動きがありましたけれども、ことごとくつぶされてしまいました。
 また、電波につきましては、世界に類例のないキー局システムをつくって、キー局は東京にしか許されていない。そして、キー局でないと全国番組編成権がございませんから、すべて東京都スルーの情報しか流れないようになっています。
 さらに、文化創造活動も東京に集中いたしました。だから、特定目的の施設、例えば歌舞伎座でありますとか格闘技専門体育館でありますとかいうのは、補助金の関係で東京にしかつくれないようになっています。これで歌舞伎役者は全員東京に住むようになって、関西歌舞伎は一人もいなくなりました。あるいはプロレス団体も、東北地方にみちのくプロレス、大阪に大阪プロレスがあるだけで、四十団体はことごとく東京に集められました。
 さらに、最近は、BS放送七局を全部東京にしか許可しないという制度になっています。
 こういった官僚の強引な、コストを無視した集中制度によって東京に集まっている、このことも重要なことだと思っております。」(抄)

したがって東京だけが残れば日本はやっていけるという体制になっていて、すでに東京には日本の人口の1割が住む。10人に1人が東京都民です。神戸の地震で仕事を失った人たちはまず大阪で探しましたが不景気で、東京へ流れた人が多い。しかし、同様の自然災害や大規模な人災に襲われて東京がつぶれた時にどうするのか。首都移転が難しければ、報道・放送・出版をあらゆる都道府県から全国発信できる体制に改めておくのが、どう考えても賢い国策だと思います。これを頑迷に阻む人たちを虜にしているのが、やはり利権なのでしょうか。

2010年10月 1日 (金)

文学の言語について その7

「こいさん、頼むわ。-」「雪子ちゃん下で何してる」「悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」「なあ、こいさん、雪子ちゃんの話、また一つあるねんで」「そう、-」「井谷さんが持って来やはった話やねんけどな、-」「そう、-」

谷崎潤一郎の『細雪』、冒頭の会話部分を抜き出しました。彼は1886年(明治19年)に東京日本橋蠣殻町に生まれ、1965年(昭和40年)まで地上で活動を続けました。明治東京地震(1894年)に少年時代自宅で被災し「地震恐怖症」(本人談)に。後年「関東大震災」(1923年 大正12年)の後、阪神間のあちこちに居を定めて旺盛な執筆活動を展開します。

震災前の谷崎の作風は「耽美主義」とも「悪魔主義」ともいわれました。強く魅力的な女性に対する「私」のマゾヒスティックな思慕。ご主人様である「貴女」に対して私めは奴隷です、という男の性愛を臆することなく描きました。江戸以来、東京の町人文学は「かぶきもの」「はぐれもの」の文学であり「優等生」の明治文学からは決別しています。人には固有のエロティシズムがありフェティシズムがあり、谷崎の場合は女性の脚に格別な愛着があったようです。そして分からず屋の父でなく母を恋うる。近親相姦も辞さないばかりに恋うる。

その辺の性的志向は僕にはないので、自分と主人公を重ね合わせて読むことはできないのですが文芸としての見事さは舌を巻くばかりです。それよりもなによりも『細雪』。先に引いた会話の続きはこうです。
「サラリーマンやねん、MB化学工業会社の社員やて。-」「なんぼぐらいもろてるのん」「月給が百七八十圓、ボーナス入れて二百五十圓ぐらいになるねん」

これらのことばは芦屋の蒔岡家の姉妹の間で交わされる肉声ですが、およそ1937年から41年頃の大阪船場に大店を構える家の四人姉妹「鶴子」「幸子」「雪子」「妙子」の肉声が響いてくるようです。僕の親くらいの年代の女の人は間違いなくこんなことばで会話していました。
江戸っ子の谷崎が上方のことば、しかも「女ことば」をこれだけ精確に活写し得たこと。これはしかし、谷崎の文才の大きさのひとこまであるに過ぎません。これは『源氏』の「蘆屋の巻」かも知れない優雅な女たちの生活を描いた物語であるばかりか、文体家としての図抜けた天才ぶりが示されている作品なのです。昭和の文豪。

昭和の初め、そして10年代はいい時代でした。ことに大阪や神戸に店や会社を構える人たちの「家」がある阪神間には富が集積して、独自の文化圏が形成されていたのです。小出楢重がいた。写真の中山岩太、ハナヤ勘兵衛がいた。亡命ロシア人の音楽家が住みつき貴志幸一がヴァイオリンを学んでいた。宝塚には手塚治虫が生まれて育ち、少女歌劇は女の子たちの憧れでした。

折口信夫は『細雪』の「女ことば」を「宝塚歌劇団の座員用語」に準拠している、と言ってますが、それはちょっと違うように。当時の阪神間の「あたらしい時代」の「おんなことば」が小林一三さんによって座員のことばとして用いられたのです。谷崎は作品中でさらに、東京のことばや古語や雅語、欧米語など彼の知るかぎりの語彙と言い回しを縦横無尽に駆使して、昭和の文体を創造したのです。

『細雪』は戦中の1942年に書き始められて、翌1943年軍部から「戦時にそぐわない」として掲載禁止。なにくそ、と1944年私家版上巻をつくり友人たちに配布するも、それも止められてしまいます。完成は1948年(昭和23年)。戦争が終わって、また新しい日本が始まることに胸ふくらませていた市民たちに『細雪』は拍手をもって迎えられました。なぜなら、そこに描かれていた豊かな社会こそが取り戻すべき生活だったからです。

文学の言語としても谷崎は『源氏』(彼は彼の日本語でこれを現代語に訳しています)以来、王朝文学を経て江戸、明治、大正までの日本語から「あたらしい」昭和のことばから欧米語まで。このようにして文学の言語は時代を経て精錬されてきて、「俺の文学に至った」と谷崎は胸を張っています。平成の人、もっとやってみようよ。古典、読み足りなくないですか?

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