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2010年10月 3日 (日)

文学の言語について その9

翻訳する、ということ。

関東大震災後の谷崎潤一郎は「芦屋」(実際は神戸市東灘区にも西宮にも。戦前の阪神間モダニズムの象徴として「芦屋」とします)に移り住んで『細雪』を書きました。彼の母国語は東京の下町ことばでしたが、洗練の極に達していた上方のおんなことばを真水のような透明さで映し出しています。関西弁が耳に飛び込んでくるたびに、それが分かる人に「そりゃ、なんて意味だい?」が連発されていたに違いありません。ということは、彼の頭の中では「翻訳」と語彙と語の組み立ての分析、そして自ら関西弁を書いてみる、という作業があったでしょう。

彼以後の関西弁圏出身以外の作家の書く関西弁はどこかおかしい。例外は中井英夫の『虚無への供物』に出る大阪弁ですが、これは精確。それについては後書きで記されているように歌人・塚本邦雄の指導を得た、ということです。(東京の作曲家・三善晃さんに合唱曲『小さな目』というものがありますが、その中の一曲に「そんなことあらへん」という歌詞がある。三善さんの曲は「あらへん」の「あ」にアクセントが付いてておかしいんですよ。)

阪神淡路大震災後、小田実さんと僕は震災被災者に公的援助を求める運動のために、国会議員や内閣法制局や地元から全国の市民に向けてのことばを無数に書きました。「神戸」(西宮の小田さん、芦屋の僕を含めての「神戸」です)の被災者の言葉を伝えるためのことばの創造には、やはり「翻訳」という作業が必要でした。被災が甚大だった神戸市長田区のことばは僕の通ってた灘区のことばともまた違います。彼らの言葉を国会へ伝えるために用いた語彙と、全国の市民に向けての文書に使った語彙とは少しまた違ったものになったかも知れません。

フランシスコ・サヴィエル(前項でザビエルと表記していました。Xavierはサヴィエルと書くことにします。1506-52)は日本人ヤジロウを伴って、1549年8月15日鹿児島に上陸しました。バスク王国城主の子として生まれ、パリ留学時にイグナティウス・デ・ロヨラと知り合いイエズス会創立7名中最年少の参加者になりました。1541年リスボンを出発してインドのゴアへ。そして1546年、マラッカで日本人ヤジロウに出会い日本伝道を決意することになったのです。

しかし、どうして日本人がそんな時代にそんな場所にいたの?
サヴィエルの書簡からまとめます。「わたし」はサヴィエル。
「ポルトガルの商人たちは日本が熱心にキリスト教を受け入れる見込みがあるという。なぜなら日本人は学ぶことの非常に好きな国民であるからだ。この商人たちに付き添われてアンヘロ(アンジェロ、ともヤジロウは呼ばれました。アンジロウとも)に会った。彼は鹿児島でわたしのことを聞きここまで、彼ら商人たちの船に乗って来ていた。アンヘロはわたしに告白したかった。青年時代に犯した重大な罪(殺人、との説あり。引用者注)に対して、神からの赦しを与えられる方法を求めたのだ。」

「アンヘロは我らの信仰のことを聞きたいという熱望をもって来た。彼はかなりのポルトガル語を話すので、わたし達は互いに了解することができた。彼はわたしの講義に来て信仰箇条のすべてを自分の国語で書きとめた。彼はわたしに無数の質問を浴びせた。何でも知り尽くさずにはおかないという強い欲望をもっている。わたしは彼が同じ船に乗ることをおおいに希望した。」

ヤジロウは1548年、パウロ・デ・サンタフェという洗礼名を授けられた日本人最初のキリスト教徒になりました。
彼は粉骨砕身の努力をもってサヴィエルの布教を助けます。すでにゴアに滞在中「マタイによる福音書」の注解和訳を終えていました。『サン-マテウスのエワンゼリヨ』。しかし現在はその片鱗さえ見ることができません。僕が学生の頃にその筋の人(どの筋や)のお話を聞いたところによれば、最初期の聖書の翻訳では「神の愛」の「愛」の訳語にさえ四苦八苦したそうな。なんせ日本語にあらへんさかいな。アガペーやで。エロスとちゃうのんやで。それで辿りついたんが「お大切」ちゅう言葉やん。「神のお大切」ゆうてんがな。

それがヤジロウのことだったかどうかは分かりません。ただ、ヤジロウが「デウス(神)」を「大日」と訳せば日本人には分かるから、とサヴィエルに進言したことが後になって師匠を困らせることになりました。「大日を拝みなさい」と呼びかけると僧侶たちは仏教の一派だと思いこんでしまって、歓迎しました。あれ?
他にもパアデレを「僧」。パライゾを「浄土」。「キリシタンの御法」(みのり)」。「仏法」。これらのテヘ!の失敗には後年の海老沢有道博士も「仏教語を媒介としてキリスト教教理を伝えなければならないことは、いわば宿命的な条件であったから、当時としては止むをえないと言わなければならないだろう」と温かい眼差しを注いで下さってます。万歳、ヤジロウ!

翻訳とは、かくのごときもの。
さて今。どんなに僻地、どんなに地の果てにいても、文芸はネットを通じて全世界に発信できる時代になりました。しかし、まだ過渡期。旧時代から続いてる文芸の中心は東京にあり、紙媒体で全国に発信しようと思えば日販、トーハンの取次口座をもつ出版社から本を出すか、それが容易にできなければ雑誌に投稿するほかありません。東京に通じることばで書かなければ編集者に理解できず、賞の審査をする人たちにも理解できないからです。
そこで「言文一致」の母体である日頃喋ってる母国語を翻訳する、という作業が求められます。関西弁を母国語とするならば谷崎の逆作業。

現在は見るところ標準語は絶滅。誰もよそいきのことばで書いてません。よそいきでなくみんなにわかるのは「共通語」です。その共通語がネットの言葉で形成されつつあり不断に進化しています。日本語がんばれ。まだ成熟が足りない。千数百年の年季を経た京・大阪のことばの上に東京のことばが乗っかって、まだ百年余りです。まだまだ、新しい「口語」の文体は生まれたばかりです。

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