大井浩明ピアノリサイタル――エチュードを囘って
Recital Fortepianowy Hiroaki OOI - O Etiudach
https://ooipiano.exblog.jp/31555401/
松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
後援 一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)
2020年9月12日(土)/13日(日)15時開演(14時45分開場)
□F.F.ショパン(1810-1849)
●3つの新しい練習曲 B.130 (1839) 7分
I. Andantino - II. Allegretto - III. Allegretto
●12の練習曲Op.10 (1829/32) 30分
I. - II. - III.「別れの曲」 - IV. - V.「黒鍵」 - VI. - VII. - VIII. - IX. - X. - XI. - XII.「革命」
●12の練習曲Op.25 (1832/36) 30分
I.「エオリアンハープ」 - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.「蝶々」 - X. - XI.「木枯らし」 - XII.「大洋」
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●ピアノソナタ第2番Op.35《葬送》(1837/39) 24分
I. Grave /agitato - II. Scherzo - III. Marche, Lento - IV. Finale, Presto
●ピアノソナタ第3番Op.58 (1844) 25分
I. Allegro maestoso - II. Scherzo, Molto vivace - III. Largo - IV. Finale, Presto non tanto
上記の演奏会に寄せた拙文を掲げる。
えてうどは かなしきかな────山村雅治
1
えてうどは かなしきかな
いとをはじく ゆびのちからの
ひといろにあらず なないろの
ひかりのいろを つむぎだす
わざは どこまで きわめれば
わざのわかれは てふてふの
はばたきのごと うたになる
ひととの わかれは せつなくも
こがらしのふく くろい いと
ひとのよをかえる ちからとは
うみにひろがる みなものしずけさ
くろも しろも
くろだけさえも うたいだす
にじがかかれば やまいはとおのき
しょぱんも りすとも あるかんも
ピアノの演奏を習得するには技巧の練習が必要だ。ピアノだけでなく楽器はすべて固有の音の出しかたがあり、直接楽器に触れる体の部位が楽器と一体になることが求められる。演奏者の音楽が楽器を通して十全に鳴り響かなければならない。ピアノの場合は指で鍵を打つ。単音だけでは音楽にならないから10本の指を使って和音を鳴らしたり、歌うように奏でたり、指を速く回したりする。ピアノ演奏の技術は多様にして多彩をきわめる。
練習曲は演奏技巧を習得するための楽曲だ。一般には「技巧修得のための練習曲」は教育用の練習曲とされる。ハノンなどはそうだろう。またそれらとはちがい「演奏会用練習曲」があるとされる。ショパンやリストの練習曲は演奏会場で弾かれて聴衆の息を呑ませ感動させる。
バッハはどうか。バルトークはどうか。純然たる技巧の練習曲とおぼしき楽曲が人を感動させる場合があり「教育用」と「演奏会用」の決然たる区別はできないだろう。リストが師事したカール・ツェルニーは偉大な音楽家だった。日本で初めて西洋音楽の列伝を書いた大田黒元雄は『バッハよりシェーンベルヒ』(音楽と文学社 1915/大正4年)でツェルニーに2頁を割いている。ベートーヴェン、ヴェーバー、ツェルニーと続く。次はシューベルト。
<チェルニー Czerny
世には多くの洋琴練習曲がある。けれどもチェルニー程此の方面に優れた作品を書いた人は居ない。同時に彼ぐらひ其の後進の洋琴家を悩ました人も居ない。
此のカール、チェルニー(Karl Czerny)は千七百九十一年ウィンナに生れた。彼は先づ其の父から洋琴を習ひ、次いで千八百年から三年間ベートーヴェンに師事する幸福を得た。かうして練習につとめた彼はやがて、ウィンナで一流の洋琴教授として知られる様に成つた。
彼は多くの練習曲の外に、多くの歌劇や聖楽を洋琴用にアレンジした。彼の作品の数は千にも及ぶが、其の中最も有名なものに、Die Schule der Gelaeufigkeit. Die Schule das Legato und Staccato 等がある。
彼の練習曲は彼以後の殆どすべての名洋琴家に用ゐられ、リストやタルべャグ等の大家も皆喜んで此れを試みた。嘗てレシェティツキイがリストに会った時、既に年老いた此の大家が猶驚くべき技巧を保って居たのに驚いて、其の理由を尋ねたところが、リストは毎日半時間以上づつチェルニーを弾いて居る為めだと答へたといふ話がある。
チェルニーは其の一生をウィンナに過し、千八百五十七年其地に逝った。
彼の偉業は華々しいものではなかつたが、最も有意義な充実したものであつたと云ふ事が出来るであらう。> (引用者注釈。洋琴はピアノ。タルべャグはジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812-1871)。ツェルニーを一流の作曲家と認めた日本人がいて、この文を書いた)。
ツェルニーはベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストおよびレシェティツキの師。ベートーヴェンは「ピアノ演奏法という著作をどうしても編みたいが、時間の余裕がない」と語っていた。その願望は練習曲集や理論書の著者であるツェルニーやクレメンティやクラーマーに受け継がれていくことになった。大田黒元雄の記述によればリストはもっとも忠実なツェルニーのピアノ奏法の継承者だった。
2
リストは、ショパンが亡くなってから誰よりも早く彼の伝記を書いた。2年後の1851年のことだ。
<ショパン! 霊妙にして調和に満ちた天才! 優れた人々を追憶するだけで我々の心は深く感動する。彼を知っていたことは、何という幸福であろう!>という熱烈な讃辞にはじまる。リストとショパンは陽と陰、水と油ほどの芸術の個性をもっていた。惹かれあい、反発しあいの若い時代を共有した。リストのショパンへの讃辞は続く。
<ショパンはピアノ音楽の世界に閉じこもって一歩も出なかった。
一見不毛のピアノ音楽の原野に、かくも豊穣な花を咲かせたショパンは、何と熱烈な創造的天才であろう!>。
<彼の音楽が持つこの陰鬱な側面は、彼の優美に彩られた詩的半面ほどよく理解されず、人の注意も惹かなかった。彼は彼を苦しめる隠れた心の顫動を人に窺い知られることを、許そうとはしなかったのである>。
<ショパンは次のように語った。「私は演奏会には向いていない。大衆が恐ろしいのです。好奇心以外に何物もあらわしていない彼らの顔を見ると神経が麻痺してきます」。彼は公衆の賞讃を自ら拒否することによって、心の傷手に触れられないですむと考えていた。彼を理解する人はほとんどいなかったのである。ショパンは、楽壇の第一線に立っていながら、当時の音楽家の中で、一番演奏会を開かなかった人であった>。
おそらくは同時代の音楽家のなかでリストひとりがショパンの音楽を理解していた。とくにマズルカやポロネーズについて。
<マズルカを踊っている時とか、また騎士が踊り終わっても婦人のそばを離れずにいる休憩時間とかに人々の心に生ずる、数々の変化にみちた情緒の織物に、ショパンは陰影や光にとんだ和音を織り込んだのである。マズルカのすべての節奏は、ポーランドの貴婦人の耳には失った恋情の木霊のように、また愛の告白の優しい囁きのように響くのである。群に交じって差し向かいに長い間踊っている間に、どんな思いがけぬ愛の絆が二人の間に結ばれたことだろうか>。
リストはここではショパンの和声や音楽の心について書いた。ピアノ奏法の技法については一言も触れてはいない。批評は印象批評だけではもの足りない。和声についても「陰影や光にとんだ」だけではものたりない。構造にまで踏みこんだ作曲技法やショパン生前のピアノ奏法の技術批評をしてほしかった。リストはやがて社交界をむなしく思い、孤独な音楽家として生きることになる。技術が社交界を喜ばせていたのだとしたら、技術はむなしいと感じていたのだろうか。リストはやがて無調の音楽を生みだすのだが。
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ショパンはしかし、リストに出会ったとき、リストと同じようにピアノ奏法をより熟達させる技術のことも、音楽を深めていくことと同じく深く考えていた。天才の二人は強烈な親近感を覚えただろうし、個性がちがうのだから「ここは反発」ということもあっただろう。あたりまえのことであって、ひとりが大好きな音楽が、もうひとりが大嫌いということもある。彼らはまず社会に生きる人間としての性格がちがっていた。リストは、稀代のヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパじゅうをかけまわり、名声をほしいままにした。ショパンはあれほどの才能をもちながら、大衆を避け、小さなコミュニティの中だけで繊細な音楽を追求し続けた。
ショパンにピアノ演奏を習った弟子のひとりはエチュード作品10-1についてこう言っている。「この曲を朝のうちに非常にゆっくりと練習するよう、ショパンは私に勧めてくれました。『このエチュードは役に立ちますよ。私の言う通りに勉強したら、手も広がるし、音階や和音を弾くときもヴァイオリンの弓で弾くような効果が得られるでしょう。ただ残念なことに、たいがいの人はそういうことを学びもせず、逆に忘れてしまうのです』と彼は言うのです。このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合は、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすれば良かったのです」。(『弟子から見たショパン』ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米谷治郎/中島弘二訳 音楽之友社刊)。
エチュードのみならず全作品にピアノ奏法の習熟への課題があった。ショパンは機会を通じて「技法の練習の種類」「楽器に要求される性能」「練習の仕方と時間」「姿勢と手の位置」「手首と手の柔軟性、指の自在な動き」「タッチの習熟、耳の訓練、アタックの多様性、レガート奏法の重要性」「指の個性と独立性」、そして「運指法の原理としての、音の均等性と手の静止」などについての技術をつねに考えていた。
ショパンは生まれてからの20年をすごしたワルシャワから、もっと大きな音楽の世界を知ろうとした。ウィーンへ行ってみたがそこは彼が生きる場所ではなかった。パリこそが彼の音楽が大きく花開く都会だった。1830年11月2日にワルシャワを旅立ち、11月23日にウィーンに到着。11月29日にはワルシャワでロシアへの「11月蜂起」が起こる。前年の好評はポーランド人のショパンに掌をかえした。しかしウィーンでショパンは「ワルツ」を書きはじめた。1831年7月20日にショパンはパリへ向かった。途上のシュトゥットガルトで「ワルシャワ蜂起敗北」を知る。この慟哭がエチュード作品10-12「革命」を生みだす力にもなった。
1830年はヨーロッパ文化の歴史において「ロマン主義」が大きく羽ばたいた年だった。とくにパリにおいて。ユゴーの演劇「エルナーニ」上演は守旧の古典派とあたらしい時代をこじあけようとするロマン派の戦いの一夜だった。2月25日のことだ。ユゴーは芸術の自由を主張した。そしてフランスに7月革命が起こる。7月27日から29日にかけてフランスで起こった市民革命である。これにより1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。栄光の三日間が芸術家たちに惹きおこした力は測り知れない。演劇、文学、音楽、美術などすべての分野に力は及び、古典の旧秩序をのりこえて「芸術の自由」はそれまで信じられていた「世界の秩序」からではなく「個人の心の自由」から創造された。
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リストの「ショパン伝」には、次のような美しい思いでも記されている。
<私たち3人だけだった。ショパンは長いあいだピアノを弾いた。そしてパリでもっとも卓越した女性のひとりだったサンドも、ますます敬虔な瞑想が忍び込んでくるのを感じていた・・・・・・。
彼女は知らずしらずのうちに心を集中させる敬虔な感情が、どこからくるのかを彼にたずねた・・・・・・。そして、未知の灰を手の込んだ細工の雪花石膏アラバスタのすばらしい壷の中に閉じ込めるように、彼がその作品のなかに閉じ込めている常ならぬ感情を、なんと名づけたらよいのかをたずねた・・・・・・。
麗しい瞼を濡らしているその美しい涙に負けたのか、ふだんは内心の遺骨はすべて作品という輝かしい遺骨箱に納めるだけにして、それについては語ることをせぬショパンだったが、この時ばかりは珍しく真剣な面持ちで、自分の心の憂愁の色濃い悲しみが、彼女にそのまま伝わったのだと答えた。
と言うのは、たとえかりそめに明るさを装うことはあっても、彼は精神の土壌を形作っていると言ってよいある感情からけっして抜け出ることはなく、そしてその感情は、彼自身の母国語によってしか表現できず、他のどんな言葉も、耳がその音に渇いているとでもいうように彼がしばしば繰り返す 『ザル』というポーランド語と同じものを表すことはできない、この『ザル』という語はあらゆる感情の尺度を含んでいるのであり、あの厳しい根から実った、あるいは祝福されさるいは毒された果実ともいうべき、悔恨から憎しみにいたるまでの、強烈な感情を含むのである――と言った、 実際、『ザル』は、あるいは銀色に、あるいは熱っぽく、ショパンの作品の束全体を、つねに一つの反射光で彩っているのだ。>
『ザル』(ZAL/ジャル)は、運命を受けいれた諦めを含んだ悔恨、望郷の心をあらわすポーランド語。
「永遠に家を忘れるためにこの国を離れ、死ぬために出発するような気がする」―。
外国へ旅立とうとするショパンの不安は、侵略を受けつづける祖国ポーランドの苦悩とともにあった。花束のような華麗な音楽のかげに、祖国独立への情熱と亡命者の悲しみを忍ばせ、やり場のない怒りを大砲のように炸裂させた。死ぬために出発するような気がすると書いた手紙は、彼が祖国ポーランドを離れる直前の悩みを、親友にあてて書き綴ったものだ。
僕は表面的にはあかるくしている。とくに僕の「仲間内」ではね(仲間というのは、ポーランド人のことだ)。でも、内面では、いつもなにかに苦しめられている。予感、不安、夢――あるいは不眠――、憂鬱、無関心――生への欲望、そしてつぎの瞬間には死への欲望。心地よい平和のような、麻痺してぼんやりするような、でもときどき、はっきりした思い出がよみがえって、不安になる。すっぱいような、苦いような、塩辛いような、気持ちが恐ろしくごちゃまぜになって、ひどく混乱する。 (1831年12月25日)
ショパンは「エチュード ホ長調 作品10-3」を弾く弟子、グートマンに「私の一生で、これほど美しい歌を作ったことはありません」と語った。そしてある日、グートマンがこのエチュードを弾いていると、先生は両手を組んで上げ、「ああ、わが祖国よ!」と叫んだのである。
Мы за все твои сироты Беззащитные, Ах да мы тебя-то Просим, молим со сле зами, Со горучими.
われらは皆みなし児、よるべなきみなし児。ああ、われらは汝に願う、祈る、涙とともに、熱い涙とともに。 (ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭合唱より)
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稀代の興行師・ディアギレフという呼び名にはいささかの抵抗がある。彼は興行師にはちがいないけれども、バレエ・リュスの公演を打つ年ごとに「あたらしい」ものを展開した興行師としては、彼はいつも金がなかった。公演に資金を出してくれるロシアの王族や貴族たちに絶えず無心していた。その名の通りの「興行師」なら、濡れ手に粟のぼろ儲けをしなければならない。しかし、かつて彼は一度も儲けたためしがなく、無一文のうちに生を閉じた。金があったのは生涯でただ一度、生後3ヶ月で亡くなった母の遺産を受け継いだときであり、一部を使えるようになった1891年からの学生時代であり、それも乳母を養い、義弟たちを育てるために費やさなければならなかった。
1895年の夏、翌年から美術批評を書き、芸術に関わる仕事を始めることになる、まだ23歳だった彼は義母に手紙を書いている。そこには醒めた自己分析がある。「まず、僕は大ペテン師です。ただし天才的な。第二に、強力な誘惑者です。第三に、度胸があります。第四に、かなり理屈っぽいですが、主義主張はほとんどありません。第五に、才能はないみたいです。でも、僕は真の天職を見つけました。芸術家のパトロンになることです。いろいろ恵まれています。無いのは金だけです。Mais ça viendra (でも、いずれはいってくるでしょう)」。
バレエ・リュスを率いることになったのちも、この楽天性は生涯かわらなかった。セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)は「生活、そんなものは家来にまかせておけ」という芸術家の気質を生涯もっていた。そして、いつも金がない興行師であるよりも、「偉大な総合芸術の企画者・制作者」だった。
バレエ・リュスのパリでの公演は1909年にはじまり、ディアギレフが没する1929年まで続いた。ディアギレフの熱い旋風が巻き込んでいった美術家は、初期のバクストやブノワから、やがてアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アンドレ・ドラン、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、モーリス・ユトリロ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、マリー・ローランサン、ココ・シャネルら、当時の絵画とファッションの前衛たちの名が並ぶ。
また、作曲家・編曲家にはチャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、チェレプニン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフらロシアの作曲家のほか、ドビュッシー、ラヴェル、アーン、シュミット、フォーレ、サティらフランスの作曲家、ドイツの作曲家の音楽ではリヒャルト・シュトラウス、スペインのファリャも音楽を書いた。ディアギレフはシェーンベルクにもバレエ音楽を委嘱しようとしたが、これは果たせなかった。Diaghilev: A Life 1st Edition by Sjeng Scheijen Oxford University Press; 1 edition (September 1, 2010) 『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房刊を参照)。
バレエの振付は、まず古典バレエを基礎にしたフォーキン。そしてニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)が「牧神の午後への前奏曲」で革命を起こした。ニジンスキーが去ってから加入したレオニード・マシーンは団の解散後「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」で活躍し、ジョージ・バランシンも同じくモンテカルロで活動。その後アメリカに渡りバレエ学校を設立し、現在の「ニューヨーク・シティ・バレエ団」を設立した。彼らのほかにも活動の場所をアジアに定めたダンサーたちもいる。上海バレエ・リュスには、やがて小牧正英が参加し、プリンシパルとして踊った。
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ディアギレフと彼に関わった芸術家たちとの関係のありかたはさまざまだった。
ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)の生理は、バレエ曲の新作を依頼した初対面のディアギレフを受け付けなかった。1909年7月、楽譜出版社のデュランに宛てて、手紙を書いている。「頼まれているバレエ曲が書けない。大体、18世紀イタリアを舞台にしたバレエをロシア人ダンサーが踊るなんて、ばかげているとしか思えない」。「ディアギレフはフランス語がよくできないので、会話はどこかぎくしゃくしたものになった」。また1912年、『遊戯』の制作過程でも「ニジンスキーと彼の子守り(ディアギレフ)がやってきた。すでに書いた部分を聞かせてくれと頼まれたが、断った。野蛮人どもが私の感性を嗅ぎ回るのは不愉快だ」。その名作をディアギレフの「数小節延ばした方がいい」という助言を受け入れて「格段に華麗に」仕上げることができても、なおドビュッシーは最後までロシア人への不信感を捨てなかった。ディアギレフのことを「石をも躍らせる恐ろしいが魅力ある男」といった彼でさえ。また、ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)は『ダフニスとクロエ』をようやくのこと上演したあと、『ラ・ヴァルス』を書いたがディアギレフにバレエ作品としての上演を却下されて、その後は関係が悪化した。
ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)は残った。1910年の『火の鳥』から、ディアギレフが没してバレエ・リュスが終焉を迎える前年の1928年の『アポロ』まで、作品を書き続けた。それだけでなく、バランシンのバレエ団のために『カルタ遊び』(1937)、『アゴン』(1957)を書き続けた。
1909年、バレエ・リュスを旗揚げしたあと、ディアギレフの最大の課題は、新しいロシアのバレエを創りあげることだった。ロシアの歴史、民話や伝説を題材にしての作品。アレクサンドル・アファナシエフの民話集をもとにした『火の鳥』の台本を、デイアギレフ、フォーキンらでつくりあげた台本を得て、まずリャードフに依頼したが、仕事が進まないのですぐに諦めた。イーゴリ・ストラヴィンスキーを思い出した。1909年春に、ペテルブルクの音楽院で管弦楽曲『花火』を、バレエ・リュスの振付師、主役ダンサーだったフォーキンとともに聴いて、彼を認めた。ディアギレフは深い感銘を受けた。「新しく、独創的だ。あの音づかいは大衆を驚愕させるだろう」と語っている。
数年前からその名を知り、父・フョードル・ストラヴィンスキーはマリインスキー劇場のバス歌手であり、ディアギレフはその劇場につとめていたので親しみもあったのだろう。まもなく、イーゴリのもとにディアギレフの使いが訪れた。
1910年6月25日 パリ、オペラ座『火の鳥』
音楽/ストラヴィンスキー指揮/ピエルネ
美術(装置・衣装)/ゴロヴィン、バクスト
振付/フォーキン
出演/カルサヴィナ、フィキーナ、フォーキン、ブルガコフ
パリでの2回目のバレエ・リュスの演目は『謝肉祭』(シューマン)、『ジゼル』(アダン)、『シェエラザード』(リムスキー=コルサコフ)、『オリエンタル』(ロシアと北欧の音楽)に、誇らしい新作としてストラヴィンスキーの『火の鳥』が上演された。話題作はニジンスキーが踊り、バクストの美術が賞賛された『シェエラザード』だった。『火の鳥』の音楽は当時、「メロディがない。まったく音楽に聞こえない」と失笑する人もいたし、稽古中のダンサーたちには、ストラヴィンスキーが「ピアノを弾いているというよりは、壊している」ように見えた。しかし、初演時の観衆には熱狂的に迎えられ、ゴロヴィンの美術も当時のロシアの舞台美術の頂点といわれた。バレエにおいても音楽においても、バレエ・リュスは前衛芸術の世界に属していることが認められた。
ドビュッシーも賞賛した。「完璧ではありませんが、いくつかの点ではひじょうに優れています。少なくとも、ダンスのおとなしい奴隷にはなっていません。ときどき、まったく聞いたことのないリズムの組み合わせが聞こえます。フランスのダンサーたちは、こんな音楽に合わせて踊るのは拒むでしょう。なるほどディアギレフは偉大な男であり、ニジンスキーは彼の預言者です」。やはり楽譜商デュランへの手紙で。
3
1911年6月13日 パリ、シャトレ座『ペトルーシュカ』
音楽/ストラヴィンスキー指揮/モントゥー
美術/ブノワ
振付/フォーキン
出演/カルサヴィナ、ニジンスキー、フォーキン、オルロフ、チェケッテ
ィ、ショラール
1911年1月、ニジンスキーが帝室マリインスキー劇場を解雇され、バレエ・リュスは夏休みだけではなく一年中公演できる体制になった。すでにパリだけではなく、前年にはベルリンで、この年はモンテカルロとロンドンでも開催。4月19日のモンテカルロ公演ではニジンスキーが初めての主役を『薔薇の精』(ウェーバーの音楽「舞踏への勧誘」)で踊り喝采を博した。これはニジンスキーに「その並外れた跳躍力を披露する機会をたっぷり与える」ために構想された作品で、以後、看板作品のひとつになった。
5月からはローマ公演。6月の『ペトルーシュカ』の稽古も同時に進められていく。しかし、振付師フォーキンは、リズムが複雑でなかなか振付ができない。ストラヴィンスキーも朝から晩までピアノの前に座り作曲を続けている。指揮者のモントゥーは「他には誰もいなかった」という理由で選ばれたのだが「その曲と作曲家にすっかり魅了されていた」。
本番の日が来た。ニジンスキーは、いよいよ大作の主役になって『ペトルーシュカ』を踊った。フォーキンの振付の源泉はスタニスラフスキー模倣的演劇技法であり、脇役の一人ひとりに至るまでの略歴を書き「役になりきり人物を生き返らせろ」と指示した。人形芝居小屋の人形ペトルーシュカ、バレリーナ、ムーア人が、小屋の主である老魔術師に生命を吹き込まれる。ペトルーシュカのバレリーナへの恋心、男盛りのムーア人はむき出しの男性性をもってバレリーナの目を奪う。ペトルーシュカの嫉妬。ムーア人は邪魔者のペトルーシュカを追い回し、ついに刀で斬り殺す。魔術師は彼を修理しようとするが、とつぜん芝居小屋の上にペトルーシュカの幽霊が現われる。魔術師にむかってこぶしを振り上げると魔術師は逃げ出してしまった。ニジンスキーに与えられた振付にはほとんど跳躍はなく、自分の役者としての才能だけが頼りだった。そして見事に成功した。
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1913年5月29日 パリ、シャンゼリゼ劇場『春の祭典』
音楽/ストラヴィンスキー指揮/モントゥー
振付/ニジンスキー
美術/レーリッヒ
出演/ピルツ
『火の鳥』を書いているさなかに、ストラヴィンスキーは幻を見た。
「サンクトペテルブルクで『火の鳥』の最後のページを仕上げていた頃のある日、束の間の幻をみた。私は他のことで頭がいっぱいだったので、その幻の出現には仰天した。空想の中で、私は荘厳な異教の儀式をみた。輪になって座った老賢者たちが、若い娘が死ぬまで踊るのをみていた。春の神を喜ばせるために、彼らは娘を生贄にしていたのだ」。(『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳)。引用元の書物には同じ内容の言葉に続いて「『春の祭典』の主題だった」。と付け加えられる。(Chroniques de ma vie by Igor Stravinsky , Éditions Denoël et Steele, 1935 。邦訳は『私の人生の年代記』イーゴリ・ストラヴィンスキー著 笠羽映子訳。スヘイエンはこの書をスティーヴン・ウォルシュが書いたとしている)。
この幻を、彼はニコライ・レーリヒとともに新しいバレエ作品として構想しはじめた。ディアギレフも夢中になった。『ペトルーシュカ』から2年を経て、1913年に初演の日を迎えた。指揮者のモントゥーは、曲の完成(1912.11.17)後にディアギレフに呼ばれ、ストラヴィンスキーがピアノで弾くのを聴いた。
「古いアップライト・ピアノはがたがた揺れ続けていた」「このままでは彼は爆発するか、失神してしまうだろう」「私自身も猛烈な頭痛がした」「この気の狂ったロシア人の曲なんか音楽じゃない」「とにかく部屋を逃げ出して、どこか静かな場所へ行き、痛む頭を休ませたかった。そのとき団長が私のほうを振り返って、にっこり笑った。『これは大傑作だ、モントゥー君、この曲は音楽に一大革命を起こし、君を有名にするだろう。だって君が指揮するんだからね』。むろん、私は指揮をした」。(『ディアギレフ』前掲書)。
初演の夜に起きたのは、まさしく暴動だった。ストラヴィンスキーは回想する。
「前奏曲の冒頭で、早くも嘲笑が起きた。私はむかついて席を立った。最初はまばらだった示威行為がしだいに客席全体に広がり、それが反対の示威行為を誘い、瞬く間に劇場全体が怒号に包まれた。公演の間じゅう、私は舞台袖のニジンスキーの横にいた。彼は椅子の上に仁王立ちになって、「16、17、18」と叫んでいた。ダンサーには独特の拍子の取り方があるのだ。当然ながら、あわれなダンサーたちは、客席からの騒音と、自分たちの足踏みの音で、何も聞こえないのだった」。「公演の後、私たちは興奮し、怒り、憤慨し、そして幸福だった。ディアギレフ、ニジンスキーとレストランに行った。ディアギレフの感想はただ、『私の狙い通りだ』」。
音楽について、ドビュッシーはすでに『ペトルーシュカ』について「この作品は、いわば音の魔法に満ちています。人形の魂が魔法の呪文で人間になるという神秘的な変容。それを理解しているのは、これまでのところ、きみだけです。きっときみはこれから『ペトルーシュカ』よりも偉大な作品を書くでしょうが、これはすでに金字塔です」と賛辞を送っていた。『春の祭典』についても「ラロワ邸でいっしょにきみの『春の祭典』を弾いたことを今でもよく覚えています。あのときの思い出は美しい悪夢のように頭にこびりついています。あのときに受けた衝撃をなんとか甦らせようとするのですが、なかなかできません」。
『春の祭典』は、同時代の音楽家に深刻な影響を与えた点で『トリスタンとイゾルデ』以降の最も重大な事件だった。
振付はニジンスキー。彼の振付作品として『牧神の午後への前奏曲』『遊戯』に続いての三作目になった。『牧神』を成功させた後もニジンスキーはマラルメの詩を読んでいなかったし、詩人の名前も知らなかった。『春の祭典』を振り付けるときにも、総譜を読めず楽器も演奏できないニジンスキーに、ストラヴィンスキーは「まず彼に音楽の初歩、つまり音価、拍子、テンポ、リズム以下もろもろの手ほどきから始めなければならなかった。稽古は難渋をきわめた。主役は妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツが代役となった。ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の振付は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかった。
完成した作品は前2作と同じく、古典的なバレエとはまったく異なるものだった。いくつもの群舞の独自の動きが全体として不調和な舞台を創る。これは古典的なバレエを期待した人は戸惑う。作曲者にさえ理解を超えるものだった。
1909年以来、バレエ・リュスとニジンスキーに魅了されていたハリー・ケスラー(ドイツの外交官で国際的に有名な芸術愛好家)は、この作品に圧倒された。「突然、まったく新しい光景が出現した。これまで一度も見たことのないような、心を鷲づかみにし、納得させる光景が。芸術における新しい野蛮性と、反芸術性とが、一度にやってきたのだ。すべての形式は破壊され、その混沌から新しい形式が突然に出現する」。
ニジンスキーの振付には『牧神』とちがってエロティックな身振りはなかった。透けない生地の衣装もダンサーの体を覆い、肌も体の線も見せない。そして、ダンサーたちは舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がる。
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上演後の8月15日、一座は座長ディアギレフだけをのこしてブエノス・アイレスに出航する。到着後の9月10日、ディアギレフへの嫌悪が頂点に達していたニジンスキーはバレリーナのロモラ・ド・プルスキーと結婚式を挙げた。この知らせを聞いたディアギレフは激怒する。同性愛者の男性は、若い青年の愛人が異性とつきあうことを許さない。道を女性とともに歩くこと、仲よさげに女性と喋ることすら許せない。いつも、いつまでも自分の「女」として仕えなければならない。ニジンスキーは掟を踏みにじったのだ。彼は即座にバレエ・リュスからの解雇を決断。その後、ニジンスキーは自分のバレエ団を結成して公演するが、当然のことながらディアギレフのマネジメントの能力はなく、惨憺たる失敗に終わった。バレエ・リュスには興行上の理由で1916年の北米ツアーで復帰して、ニジンスキーは『ティル・オイレンシュピーゲル』(リヒャルト・シュトラウス/音楽)に振付をして、踊った。シュトラウスはバレエ・リュスの作品として『ヨゼフの伝説』を1914年5月17日に初演) の振付をし、上演。しかし、すでに彼の精神は病魔に襲われはじめていた。自ら書きつけた舞踏譜は『牧神の午後への前奏曲』の一作だけだった。
ニジンスキーは現代バレエを切り拓いた先駆者だった。のみならず、彼の古典バレエの約束を打ち破る踊りは、現代日本の「舞踏」にまで及んでいる。舞踏家、笠井叡は「ニジンスキーも『牧神の午後』以降は完全に舞踏です」と発言している。(『土方巽の舞踏』慶應義塾大学出版会刊)。そして「Butō」の研究家、アリクス・ド・モランは、土方巽の『疱瘡譚』を語るなかでニジンスキーにも触れている。「ニジンスキーの課題は、調和のとれた動きに基いたクラシックの語彙と手を切ることであった。ニジンスキーは足を内に向ける姿勢によって不具の醜くなった身体性を浮上させ、グロテスクの印を焼き付けることに成功したのだ」。(横山義志訳 同書)。
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ニジンスキーを失った1914年の新作は、5月17日のリヒャルト・シュトラウスの音楽によるバレエ『ヨゼフの伝説』と、ストラヴィンスキーのオペラ『ナイチンゲール』(夜鶯)だった。ディアギレフがニジンスキーに代わる主役を踊る男性バレエ・ダンサーとして新しく加入させたのは、やはり同性愛の愛人にしたレオニード・マシーンだった。
シュトラウスの新作はさほど評判を呼ばず、一座の命運はオペラにかかった。リムスキー=コルサコフの『金鶏』をオペラ・バレエとしてフォーキンが振り付けた作品が、もうひとつのオペラだった。
舞踊劇の形をとった『ナイチンゲール』(夜鶯)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話にもとづくオペラ・バレエ。曲の一部は『火の鳥』以前に書かれ、残りは『春の祭典』以後に書いた。ストラヴィンスキーは作風の変化が速い。少し長い曲なので、繋ぎ目がわかってしまう。しかし、素晴らしい部分の繊細な音色感は美しく、フランス音楽(もちろんドビュッシーとラヴェル)から得た成果が聴きとれる。
この年1914年に始まった第一次大戦は1918年まで終結せず、バレエ・リュスを構成していた人たちは、これまで通りには芸術活動ができにくくなる。また、ロシア革命が1917年に起きる。ディアギレフらは故国に帰ることができなくなった。
この間、ストラヴィンスキーのバレエ・リュス上演作は、1915年の『花火』。これは旧作を舞台作品に仕上げたもの。それだけだった。『ナイチンゲール』のバレエ改作版、『ナイチンゲールの歌』(夜鶯の歌)は、1916年に企画されて、公演が実現したのは1920年だった。アンリ・マティスが美術を担当した。振付はマシーン。音楽は20分程度に圧縮したもので、東洋の音階が魅力的だ。ストラヴィンスキーは1959年に来日し、この曲を演奏した。曲に自信があったのだろう。原作の童話は中国の皇帝の御殿と庭園が舞台になり、訪れる人が夜鶯(さよなきどり、ともいう)の声を賞賛し、皇帝も聞いて感動した。ある日、日本の皇帝から細工物の夜鶯が贈られる。宝石で飾られた夜鶯はいつも同じ節で美しい鳴き声を奏で、いつしか本物の夜鶯はいなくなってしまう……
バレエ作品『プルチネルラ』も1920年の初演。ピカソが美術を受け持った。伝ペルゴレージの手稿や印刷譜からの18曲をストラヴィンスキーが編曲した。もう1913年ははるか昔に過ぎ去り、作風の変容は、編曲時1919年のストラヴィンスキーを先駆者ではなくしてしまっていた。この頃から1950年までの作風を、それまでの「原始主義」にかわる「新古典主義」と名付けられ、それ以後、若い友人で彼の仕事の協力者だったロバート・クラフトの示唆によってシェーンベルクの「十二音技法」を採り入れて、さらに「セリー主義」へと歩みを進めた。クラフトは書いている。「1952年3月8日。彼は遠回しにシェーンベルクの七重奏曲(作品29)に触れ、それが彼に強烈な印象を与えたという。40年ものあいだシェーンベルクを『実験的』『理論的』『時代遅れ』と片付けてきたので、シェーンベルクの音楽が実質的には自分自身の音楽よりもより豊かであるという認識に、衝撃を受けている」。(Stravinsky: Chronicle of a Friendship by Robrt Craft, Vanderbilt Univ. Pr. 1994 邦訳は『ストラヴィンスキー 友情の日々』ロバート・クラフト著 小藤隆志訳 青土社刊)。
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バレエ・リュスの歩みを振り返ってみよう。1915年はリムスキー=コルサコフの旧作『雪娘』。1916年はフォーレの『ラス・メニナス』、そして、ンジンスキーの最後の『ティル』。1917年にはストラヴィンスキーの旧作『花火』。そしてディアギレフが最後に見出した若い才能、イーゴル・マルケヴィッチが評価してやまなかったサティの『バラード』。1918年に
1921年、プロコフィエフの『道化師』が初演。ファリャ編曲による『クァドロ・フラメンコ』とともに。1922年はストラヴィンスキーの2作品。ニジンスカが踊ったバレエ『狐』とオペラ『マヴラ』。
1923年6月23日に上演された新作バレエ・カンタータ『結婚』は、歌手を伴った作品で、これはしかし、往年の創造力が舞い戻ってきたかのような傑作のひとつになった。それもそのはずだ。構想は1912年には芽生えていて、1914年に着手された。1915年にはディアギレフに2場までの音楽を聴いてもらっていた。振付はソ連を亡命して1年足らずのブロニスラヴァ・ニジンスカ。美術と衣装はナターリヤ・ゴンチャローワ、指揮はエルネスト・アンセルメ。
翌1924年は多くの作品が上演されたが、新しいものはミヨーの『青列車』。この舞台で新しく前年に入団したセルジュ・リファールが踊った。幕をピカソが描き、衣装はココ・シャネルだ。1925年は振付家にバランシンが入り、リエーティ作曲の『バラボー』が上演されるなど。1926年にはニジンスカとバランシンの振付作品。サティ作曲・ミヨー編曲の「びっくり箱」も。1927年には、ストラヴィンスキーが復帰する。オペラ『オイディプス王』。サティの『メルキュール』、プロコフィエフの『鋼鉄の歩み』、ともにマシーンの振付で上演された。1928年、ストラヴィンスキーの『ミューズを導くアポロ』。1929年5月21日、プロコフィエフの『放蕩息子』をバレエ・リュスとしての最後の上演を果たした後、8月19日にディアギレフはベニスで生涯を閉じた。看取ったのは看護していたセルジュ・リファール、そして16日、晩年の忠実な秘書だったボリス・コフノが駆けつける。二人ともディアギレフが愛した青年だった。18日にはミシア・セールとココ・シャネルも最後の病床に間に合った。
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ディアギレフが8月12日、病床で口ずさんだのは『トリスタン』と『悲愴交響曲』の一節だった。ストラヴィンスキーは8月21日に知らせを聞いて愕然とした。ここ数か月の冷えた関係に胸がかきむしられた。26日になってから、ようやくヌーヴェリに手紙を書いた。「手紙を書くのは辛いのです。沈黙したままでいたいと思います。それでも手紙を書けば、愛するセリョジャを突然に失って私が感じている鋭い痛みが、あなたにもわかってもらえるでしょう」……。ストラヴィンスキーの妻、ヴェラは「年齢とアメリカがストラヴィンスキーの性格を変える以前、あの人はディアギレフにしか心を開きませんでしたわ。そして留意した批評は、ディアギレフのものだけでした」と言った。((『ストラヴィンスキー 友情の日々』ロバート・クラフト著 小藤隆志訳 青土社刊)。
ストラヴィンスキーにも世に別れを告げる時が来る。1971年3月31日、クラフトは「ラズモフスキー四重奏曲」と「悲愴交響曲」のレコードをかけ、ストラヴィンスキーは「チャイコフスキーの最高の音楽だ」と言って喜んだ。4月4日、重い病床の枕もとでクラフトは「悲愴交響曲」の最終楽章を流した。それがストラヴィンスキーが聴いただろう最後の音楽になった。4月6日に巨星は墜ちた。
Да здравствует ! уж как на небе солнцу красному, Слава ! cлава !
万歳! 空にはすでにかくも赤き太陽! 栄えあれ! 栄えあれ!
(ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭合唱より)
6月18日(土) 午後6時開演(午後5時半開場)
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