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2021年7月30日 (金)

大井浩明ピアノリサイタル

2020年8月27日 (木)

大井浩明ピアノリサイタル――エチュードを囘って Recital Fortepianowy Hiroaki OOI - O Etiudach

大井浩明ピアノリサイタル――エチュードを囘って
Recital Fortepianowy Hiroaki OOI - O Etiudach

https://ooipiano.exblog.jp/31555401/

松山庵 (芦屋市西山町20-1) 阪急神戸線「芦屋川」駅徒歩3分
4000円(全自由席)
お問い合わせ tototarari@aol.com (松山庵)〔要予約〕
後援  一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(PTNA)

2020年9月12日(土)/13日(日)15時開演(14時45分開場)
□F.F.ショパン(1810-1849)
●3つの新しい練習曲 B.130 (1839)  7分
 I. Andantino - II. Allegretto - III. Allegretto
●12の練習曲Op.10 (1829/32)  30分
  I. - II. - III.「別れの曲」 - IV. - V.「黒鍵」 - VI. - VII. - VIII. - IX. - X. - XI. - XII.「革命」
●12の練習曲Op.25 (1832/36)  30分
  I.「エオリアンハープ」 - II. - III. - IV. - V. - VI. - VII. - VIII. - IX.「蝶々」 - X. - XI.「木枯らし」 - XII.「大洋」
---
●ピアノソナタ第2番Op.35《葬送》(1837/39)  24分
 I. Grave /agitato - II. Scherzo - III. Marche, Lento - IV. Finale, Presto
●ピアノソナタ第3番Op.58 (1844)  25分
 I. Allegro maestoso - II. Scherzo, Molto vivace - III. Largo - IV. Finale, Presto non tanto

上記の演奏会に寄せた拙文を掲げる。

えてうどは かなしきかな────山村雅治

1

えてうどは かなしきかな
いとをはじく ゆびのちからの
ひといろにあらず なないろの
ひかりのいろを つむぎだす
わざは どこまで きわめれば

わざのわかれは てふてふの
はばたきのごと うたになる
ひととの わかれは せつなくも
こがらしのふく くろい いと
ひとのよをかえる ちからとは

うみにひろがる みなものしずけさ
くろも しろも 
くろだけさえも うたいだす
にじがかかれば やまいはとおのき
しょぱんも りすとも あるかんも

ピアノの演奏を習得するには技巧の練習が必要だ。ピアノだけでなく楽器はすべて固有の音の出しかたがあり、直接楽器に触れる体の部位が楽器と一体になることが求められる。演奏者の音楽が楽器を通して十全に鳴り響かなければならない。ピアノの場合は指で鍵を打つ。単音だけでは音楽にならないから10本の指を使って和音を鳴らしたり、歌うように奏でたり、指を速く回したりする。ピアノ演奏の技術は多様にして多彩をきわめる。
 練習曲は演奏技巧を習得するための楽曲だ。一般には「技巧修得のための練習曲」は教育用の練習曲とされる。ハノンなどはそうだろう。またそれらとはちがい「演奏会用練習曲」があるとされる。ショパンやリストの練習曲は演奏会場で弾かれて聴衆の息を呑ませ感動させる。
 バッハはどうか。バルトークはどうか。純然たる技巧の練習曲とおぼしき楽曲が人を感動させる場合があり「教育用」と「演奏会用」の決然たる区別はできないだろう。リストが師事したカール・ツェルニーは偉大な音楽家だった。日本で初めて西洋音楽の列伝を書いた大田黒元雄は『バッハよりシェーンベルヒ』(音楽と文学社 1915/大正4年)でツェルニーに2頁を割いている。ベートーヴェン、ヴェーバー、ツェルニーと続く。次はシューベルト。

<チェルニー Czerny

 世には多くの洋琴練習曲がある。けれどもチェルニー程此の方面に優れた作品を書いた人は居ない。同時に彼ぐらひ其の後進の洋琴家を悩ました人も居ない。
 此のカール、チェルニー(Karl Czerny)は千七百九十一年ウィンナに生れた。彼は先づ其の父から洋琴を習ひ、次いで千八百年から三年間ベートーヴェンに師事する幸福を得た。かうして練習につとめた彼はやがて、ウィンナで一流の洋琴教授として知られる様に成つた。
 彼は多くの練習曲の外に、多くの歌劇や聖楽を洋琴用にアレンジした。彼の作品の数は千にも及ぶが、其の中最も有名なものに、Die Schule der Gelaeufigkeit. Die Schule das Legato und Staccato 等がある。
 彼の練習曲は彼以後の殆どすべての名洋琴家に用ゐられ、リストやタルべャグ等の大家も皆喜んで此れを試みた。嘗てレシェティツキイがリストに会った時、既に年老いた此の大家が猶驚くべき技巧を保って居たのに驚いて、其の理由を尋ねたところが、リストは毎日半時間以上づつチェルニーを弾いて居る為めだと答へたといふ話がある。
 チェルニーは其の一生をウィンナに過し、千八百五十七年其地に逝った。
 彼の偉業は華々しいものではなかつたが、最も有意義な充実したものであつたと云ふ事が出来るであらう。> (引用者注釈。洋琴はピアノ。タルべャグはジギスモント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812-1871)。ツェルニーを一流の作曲家と認めた日本人がいて、この文を書いた)。

 ツェルニーはベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストおよびレシェティツキの師。ベートーヴェンは「ピアノ演奏法という著作をどうしても編みたいが、時間の余裕がない」と語っていた。その願望は練習曲集や理論書の著者であるツェルニーやクレメンティやクラーマーに受け継がれていくことになった。大田黒元雄の記述によればリストはもっとも忠実なツェルニーのピアノ奏法の継承者だった。


2

 リストは、ショパンが亡くなってから誰よりも早く彼の伝記を書いた。2年後の1851年のことだ。
<ショパン! 霊妙にして調和に満ちた天才! 優れた人々を追憶するだけで我々の心は深く感動する。彼を知っていたことは、何という幸福であろう!>という熱烈な讃辞にはじまる。リストとショパンは陽と陰、水と油ほどの芸術の個性をもっていた。惹かれあい、反発しあいの若い時代を共有した。リストのショパンへの讃辞は続く。

<ショパンはピアノ音楽の世界に閉じこもって一歩も出なかった。
一見不毛のピアノ音楽の原野に、かくも豊穣な花を咲かせたショパンは、何と熱烈な創造的天才であろう!>。

<彼の音楽が持つこの陰鬱な側面は、彼の優美に彩られた詩的半面ほどよく理解されず、人の注意も惹かなかった。彼は彼を苦しめる隠れた心の顫動を人に窺い知られることを、許そうとはしなかったのである>。

<ショパンは次のように語った。「私は演奏会には向いていない。大衆が恐ろしいのです。好奇心以外に何物もあらわしていない彼らの顔を見ると神経が麻痺してきます」。彼は公衆の賞讃を自ら拒否することによって、心の傷手に触れられないですむと考えていた。彼を理解する人はほとんどいなかったのである。ショパンは、楽壇の第一線に立っていながら、当時の音楽家の中で、一番演奏会を開かなかった人であった>。

 おそらくは同時代の音楽家のなかでリストひとりがショパンの音楽を理解していた。とくにマズルカやポロネーズについて。

<マズルカを踊っている時とか、また騎士が踊り終わっても婦人のそばを離れずにいる休憩時間とかに人々の心に生ずる、数々の変化にみちた情緒の織物に、ショパンは陰影や光にとんだ和音を織り込んだのである。マズルカのすべての節奏は、ポーランドの貴婦人の耳には失った恋情の木霊のように、また愛の告白の優しい囁きのように響くのである。群に交じって差し向かいに長い間踊っている間に、どんな思いがけぬ愛の絆が二人の間に結ばれたことだろうか>。

 リストはここではショパンの和声や音楽の心について書いた。ピアノ奏法の技法については一言も触れてはいない。批評は印象批評だけではもの足りない。和声についても「陰影や光にとんだ」だけではものたりない。構造にまで踏みこんだ作曲技法やショパン生前のピアノ奏法の技術批評をしてほしかった。リストはやがて社交界をむなしく思い、孤独な音楽家として生きることになる。技術が社交界を喜ばせていたのだとしたら、技術はむなしいと感じていたのだろうか。リストはやがて無調の音楽を生みだすのだが。


 ショパンはしかし、リストに出会ったとき、リストと同じようにピアノ奏法をより熟達させる技術のことも、音楽を深めていくことと同じく深く考えていた。天才の二人は強烈な親近感を覚えただろうし、個性がちがうのだから「ここは反発」ということもあっただろう。あたりまえのことであって、ひとりが大好きな音楽が、もうひとりが大嫌いということもある。彼らはまず社会に生きる人間としての性格がちがっていた。リストは、稀代のヴィルトゥオーゾとしてヨーロッパじゅうをかけまわり、名声をほしいままにした。ショパンはあれほどの才能をもちながら、大衆を避け、小さなコミュニティの中だけで繊細な音楽を追求し続けた。

 ショパンにピアノ演奏を習った弟子のひとりはエチュード作品10-1についてこう言っている。「この曲を朝のうちに非常にゆっくりと練習するよう、ショパンは私に勧めてくれました。『このエチュードは役に立ちますよ。私の言う通りに勉強したら、手も広がるし、音階や和音を弾くときもヴァイオリンの弓で弾くような効果が得られるでしょう。ただ残念なことに、たいがいの人はそういうことを学びもせず、逆に忘れてしまうのです』と彼は言うのです。このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合は、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすれば良かったのです」。(『弟子から見たショパン』ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル著 米谷治郎/中島弘二訳 音楽之友社刊)。

 エチュードのみならず全作品にピアノ奏法の習熟への課題があった。ショパンは機会を通じて「技法の練習の種類」「楽器に要求される性能」「練習の仕方と時間」「姿勢と手の位置」「手首と手の柔軟性、指の自在な動き」「タッチの習熟、耳の訓練、アタックの多様性、レガート奏法の重要性」「指の個性と独立性」、そして「運指法の原理としての、音の均等性と手の静止」などについての技術をつねに考えていた。

 ショパンは生まれてからの20年をすごしたワルシャワから、もっと大きな音楽の世界を知ろうとした。ウィーンへ行ってみたがそこは彼が生きる場所ではなかった。パリこそが彼の音楽が大きく花開く都会だった。1830年11月2日にワルシャワを旅立ち、11月23日にウィーンに到着。11月29日にはワルシャワでロシアへの「11月蜂起」が起こる。前年の好評はポーランド人のショパンに掌をかえした。しかしウィーンでショパンは「ワルツ」を書きはじめた。1831年7月20日にショパンはパリへ向かった。途上のシュトゥットガルトで「ワルシャワ蜂起敗北」を知る。この慟哭がエチュード作品10-12「革命」を生みだす力にもなった。

  1830年はヨーロッパ文化の歴史において「ロマン主義」が大きく羽ばたいた年だった。とくにパリにおいて。ユゴーの演劇「エルナーニ」上演は守旧の古典派とあたらしい時代をこじあけようとするロマン派の戦いの一夜だった。2月25日のことだ。ユゴーは芸術の自由を主張した。そしてフランスに7月革命が起こる。7月27日から29日にかけてフランスで起こった市民革命である。これにより1815年の王政復古で復活したブルボン朝は再び打倒された。栄光の三日間が芸術家たちに惹きおこした力は測り知れない。演劇、文学、音楽、美術などすべての分野に力は及び、古典の旧秩序をのりこえて「芸術の自由」はそれまで信じられていた「世界の秩序」からではなく「個人の心の自由」から創造された。


4

 リストの「ショパン伝」には、次のような美しい思いでも記されている。

<私たち3人だけだった。ショパンは長いあいだピアノを弾いた。そしてパリでもっとも卓越した女性のひとりだったサンドも、ますます敬虔な瞑想が忍び込んでくるのを感じていた・・・・・・。
 彼女は知らずしらずのうちに心を集中させる敬虔な感情が、どこからくるのかを彼にたずねた・・・・・・。そして、未知の灰を手の込んだ細工の雪花石膏アラバスタのすばらしい壷の中に閉じ込めるように、彼がその作品のなかに閉じ込めている常ならぬ感情を、なんと名づけたらよいのかをたずねた・・・・・・。

 麗しい瞼を濡らしているその美しい涙に負けたのか、ふだんは内心の遺骨はすべて作品という輝かしい遺骨箱に納めるだけにして、それについては語ることをせぬショパンだったが、この時ばかりは珍しく真剣な面持ちで、自分の心の憂愁の色濃い悲しみが、彼女にそのまま伝わったのだと答えた。

  と言うのは、たとえかりそめに明るさを装うことはあっても、彼は精神の土壌を形作っていると言ってよいある感情からけっして抜け出ることはなく、そしてその感情は、彼自身の母国語によってしか表現できず、他のどんな言葉も、耳がその音に渇いているとでもいうように彼がしばしば繰り返す 『ザル』というポーランド語と同じものを表すことはできない、この『ザル』という語はあらゆる感情の尺度を含んでいるのであり、あの厳しい根から実った、あるいは祝福されさるいは毒された果実ともいうべき、悔恨から憎しみにいたるまでの、強烈な感情を含むのである――と言った、 実際、『ザル』は、あるいは銀色に、あるいは熱っぽく、ショパンの作品の束全体を、つねに一つの反射光で彩っているのだ。>

『ザル』(ZAL/ジャル)は、運命を受けいれた諦めを含んだ悔恨、望郷の心をあらわすポーランド語。

  「永遠に家を忘れるためにこの国を離れ、死ぬために出発するような気がする」―。
外国へ旅立とうとするショパンの不安は、侵略を受けつづける祖国ポーランドの苦悩とともにあった。花束のような華麗な音楽のかげに、祖国独立への情熱と亡命者の悲しみを忍ばせ、やり場のない怒りを大砲のように炸裂させた。死ぬために出発するような気がすると書いた手紙は、彼が祖国ポーランドを離れる直前の悩みを、親友にあてて書き綴ったものだ。

 僕は表面的にはあかるくしている。とくに僕の「仲間内」ではね(仲間というのは、ポーランド人のことだ)。でも、内面では、いつもなにかに苦しめられている。予感、不安、夢――あるいは不眠――、憂鬱、無関心――生への欲望、そしてつぎの瞬間には死への欲望。心地よい平和のような、麻痺してぼんやりするような、でもときどき、はっきりした思い出がよみがえって、不安になる。すっぱいような、苦いような、塩辛いような、気持ちが恐ろしくごちゃまぜになって、ひどく混乱する。 (1831年12月25日)

 ショパンは「エチュード ホ長調 作品10-3」を弾く弟子、グートマンに「私の一生で、これほど美しい歌を作ったことはありません」と語った。そしてある日、グートマンがこのエチュードを弾いていると、先生は両手を組んで上げ、「ああ、わが祖国よ!」と叫んだのである。

2017年9月 8日 (金)

≪声の幽韻≫松平頼則から奈良ゆみへの書簡 95

松平頼則氏に関しての奈良ゆみさんの所蔵する手稿など 78
「松平頼則氏から奈良ゆみさんへ送られた手紙Fax」  第77


1989年11月4日



Ma chérie !  Mlle Yumi

 今日は何と嬉しい日でしょう! 思いがけずにMlle Yumi
の手紙が来るなんて! しかも疲れていらっしゃるのに!
長い手紙! 素敵な内容!
 私の方は淋しさをまぎらす爲に「桂」の伴奏をPiano version
にしてPhotocopisteに送り思いがけず早く仕上って2日
に家に届けてくれるといって来たのに その日になってTaxi
がつかまらないから3日になるといって来ました。
 暦を見ると3日(祭)土・日は郵便局が休み。だから月曜
(現時点で明後日)でなければ発送出来ません。フメンは机の横
で眠っています。結局この手紙と同時に着くでしょう。


(編者注/Ma chérie !  Mlle Yumi !は、最愛の人!ゆみ嬢!。 Piano versionは、ピアノ版。Photocopisteはコピー業者。後年には「コピーセンター」と書かれた。Taxiは、タクシー。フメンは譜面)。



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 9月10月そして11月もスケジュールが一杯なのは精神的
にも肉体的にも疲れるのは当然ですが Parisでこのような
状況にいるMlle Yumiはほんとうに大したものです。
 Mlle Yumiの成功の爲なら私はどんな辛棒でも
しようと決心しているのです。2ヶ月の手紙なしのことなど!
 Fontecの原稿にも「スケジュールに追われ快く疲勞し
忽ちフェニックスの様に彼女は生き生きとなる」と書き
ました。よく夢を見ることも それは表現と演劇性
との結合の原型である」とも。


(編者注/Parisは、パリ。FontecはCDのレーベル名。1989年11月25日に発売された『奈良ゆみ/サティのうた』奈良ゆみ(S)ジェフ・コーエン(P)FOCD3256 のために松平氏は文を書いた)。

 毎日毎日cassetteを聴きます。そして聴けば聴くほど
Mlle Yumiが恋しくなります。それの繰り返えし
Tendrementの歌詞そのまゝの病状です!
始めは全体を一つのMasseとして聴いていました。
今は細かく一曲一曲をきいています。
そこで気がついた事は(何と怠慢!)Mlle Yumiの1粒
1粒の音に対するsoin。


(編者注/cassetteは、カセットテープ。Tendrementは、サティの歌曲「愛をこめて」。CDの最終曲として収められている。Masseは、かたまり。Soinは、配慮)。



Img_4258


 私が無名でヨーロッパのFestivalに出た頃のことを
思い出します。その頃のS.I.M.CのFestivalは現在の
ように政治政略や物質的なからみもなく 実力対
実力の文字通りの真剣勝負でした。日本は芸術家を
生かしも殺しもしません。ヨーロッパでは生きるか死ぬか
です。当時の有名なヨーロッパの作曲家達に対して
私は一音一音をそれこそ命がけで書きました。
会場で下らない作品を出した作曲家は翌日から
誰も握手もしません。完全な黙殺体刑です。
いわば劍の下をくぐって来ました。
私はそれをMlle Yumiの演奏の中に感じます。
ひしひしと、そしてmes affections respectueuses 
が分離してaffectionsとrespectsという2つの
要素でMlle Yumiを愛しているわけです。


(編者注/S.I.M.Cは、Socit Internationale de la Musique Contemporaine (SIMC) 国際現代音楽協会。Festivalは、同協会主催の現代音楽祭。 mes affections respectueusesは、私の尊敬する愛情)。

 Mlle Yumiの疲労のひどいのも私は心配しています。
けれどもFontecの原稿に 快く疲れ と書いたのはよく戰った
という満足感を表現したかったからです。だから忽ちFenixの
ように生きかえるのです。
 Trois mélodies sans parolesやTrois mélodies de 1886
これ等は恍惚境へ私を誘います。夢のような美聲!
 Allons-y chochotte,  La diva de l’Empire,  La grenouille
Américaine,  Je te veux, そして un diner a l’Elysee   etc etc
に示された高度なtechniquesとinterprétations .
特にun dinerは音楽に於ける数少ない風刺の美学に属する
もので要求される表現の幅は広いのです。それを見事に
征服しているMlle Yumi ! 独りでBravo ! と拍手を送って
います。


(編者注/Fenixは、不死鳥。以下、サティの歌曲の題が列挙される。「言葉のない3つの歌曲」「1866年の3つの歌曲」「いいとも、ショショット」「エンパイア劇場の歌姫」「アメリカ人の娼婦」「あんたがほしいの」、そして「エリゼ宮の晩餐会」などなど。techniquesとinterprétationsは、技術と表現。Bravo ! は、ブラヴォー !)。


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 私自身は未だ作曲能力もあり、Mlle Yumiに対しても
前述のTendrementのような気持も持ってる つもり ですが
最近 細川氏の先生のKlaus HuberがTokyoに来て
Concertをやった時、私は帰りの車をつかまえるのが大変
だらうと思っていきませんでしたが 彼が頼暁をつかまえ
「お前のおやじはもう大変な年寄りだが未だ生きてるか?」といった
のだそうです。彼とはずゐ分古い馴染みです。彼があの
Barbeを生やさなかった頃から。
 も一つ上野学園の秘書から学園創立85周年に
先生も功せき者の1人として(私は何も功せきなんかない)
表しょう したいけどお1人でいらっしゃれますか?というのです。
(勿論2つとも善意の言葉ですが それが一層!)


(編者注/細川氏は、作曲家の細川俊夫氏(1955- )。Klaus Huberは、作曲家のクラウス・フーバー氏(1924- )。頼暁は、ご子息の作曲家・松平頼暁氏(1931- )。Barbeは、ひげ)。

それ故 今日のMlle Yumiの手紙は2重にも3重にも私は嬉しい!
私に生きている歡びを実感させ、Mlle Yumiの心の一部にでも
私が存在している らしい ことを知り、私の作品によるsoirée
のことにも觸れられ、そして28日の演奏のことも、そして
最後の行 “永遠の森の中でうたう小鳥になりたい……
で 私は誰にも見せない涙にくれています。
とにかく早く会いたい! いろいろのことあれもこれも......話したい!

Je vous embrasse de tout mon cœur,
Et je vous envoie mille baisers.
       Toujour votre
       Yoritsuné

これから又cassetteをききます。
“かえるの気持遊び”って何でしょう? 今度きかせて。


Img_4260


(編者注/soiréeは夜。Je vous embrasse de tout mon cœur, Et je vous envoie mille baisers. Toujour votre Yoritsuné は、私は心のすべてであなたを抱擁します。そして私はあなたに千のキスを送ります。あなたの頼則)。

2017年1月21日 (土)

≪声の幽韻≫松平頼則から奈良ゆみへの書簡 94

松平頼則氏に関しての奈良ゆみさんの所蔵する手稿など 77
「松平頼則氏から奈良ゆみさんへ送られた手紙Fax」  第76


<1989年10月31日>


Ma chérie !  Mlle Yumi !
 とうとう10月も終りました。毎日Posteをのぞき乍ら…。
Mlle Yumiの手紙が来ないのは きっとスケジュールが一杯
だと思い、それは私がいつも願っているMlle Yumiの
Succèsに直結しているものと思ってあきらめています。
 でも現実にはとても淋しい。
優れた芸術家のMlle Yumiと魅力あふれる生身の
Mlle Yumiとの2人のYumiを好きになった私の
運命の当然の結果でしょう!
 しかしParisとTokyoとはあまりにも遠い。
ことに音楽的に貧しいTokyoに住む身には!

(編者注/Ma chérie !  Mlle Yumi ! は、最愛の人!ゆみ嬢!。Poste は郵便ポスト。Succèsは、成功)。


Narayumi_satie


 Fontecからの原稿の注文は内容:奈良ゆみの歌唱
キャラクター等についてご自由にお書き下さい。2~3枚
というものでした。Mlle Yumiの氣に入ったように
(或は充分に目的を果たしているか?)書けたかどうか とても
心配です。
 Fontecからcassetteを(原稿を送ってから後に)送って
来ました。聴いてみて書き足りないことが一杯あります。
Je vous demande pardon !


(編者注/Fontecはレコード・CD会社のフォンテック。Cassetteはカセットテープ。Je vous demande pardon ! は、ごめんなさい!)。


これらのSatieの歌曲のMlle Yumiの演奏を聴いて
いると 私は眞珠の粒の連なっている見事なネックレス
を思い出します。どの眞珠も燦然と輝いています。
作曲家を悩ます音域(高、中、低)のどれも美しい。
特にun diner à l’Elysée はMlle Yumiの演戯が
目に浮び思はず笑って了い(それは生理的な快感を伴って)
Trois mélodies de 1886の美しい歌唱では 思はず
涙が出てきます。(自分の曲のcassetteだって こんなに何辺も
聴いたことはありません)


(編者注/1989年11月25日に発売されたCD『奈良ゆみ/サティのうた』
奈良ゆみ(S)ジェフ・コーエン(P)FOCD3256/フォンテック。 un diner à l’Elyséeは、エリゼ宮の晩餐会。Trois mélodies de 1886は、1886年の3つの歌曲<天使たち、エレジー、シルヴィ>)。


Img_0

 Mlle Yumiの美しい声と表現と解釈には今更賛美する
のも愚かですが、でも美しいものは美しい!
 全く素晴らしい人が出て来たものです。聴覚に豪華な
饗宴を楽しみ乍ら 視覚ではPianoの上のPortraitsを飽かず
見ています。この間 12月16日のチラシを見ました。
Debussyで又Mlle Yumiへの傾倒は倍加するでしょう!
 楽しみよりもむしろ何處まで美の沼に溺れていくのか
私自身がこわいのです。
 でも12月にはお目にかかれますね!後1ヶ月!


Img_0_1

ところで10月は(心はとてもDebussyのsentimantaleな会話の中の
風景のように索漠としていましたが)とにかくそれでも
‟桂“のPiano伴奏によるversionsを作りました。
Mlle Yumiに演奏してもらえる機会がもしかあるかも
しれないと思って。夢の又その夢!...。
昨日終った所です。今日copysteに送りました。
(いつか音友版のFl,clavecin,Harpe,Guitar et Perc.を
お送りしたかと思いますが)
Copy 出来次第お送りします。
内容は12音技法によるもの(建築家の説に影響されて)
催馬楽風なもの(山城) 謡曲風なもの、筝曲風なもの
(松琴亭)などが配置されています。

(編者注/フランス語版の作品目録では、Katsura 1957-67 Voix et flûte, clavecin, harpe, guitare et percussionsとKatsura 1989)。



11月28日の ‟二星“が心配です。
演奏ではなく 作品そのものが。
Piano伴奏にするのが不可能なもの2、3曲を
除いて私の歌曲は殆どお手許にあります。


(編者注/Rôéï “Jiséï” 1966 (Deux étoiles de Véga) Voix et 11 instruments (fl, hb, fouet, marimba, vibra, hp, pno, 4vn) と、Jiséï (Deux Etoiles) 1989 
Soprano (jouant perc) et piano)。


Matsudaira


ではお目にかかれるのを楽しみに、心から!
Debussy et Satieを聴くのをたのしみに、
そして もし時間その他(Mlle Yumiの)が許せば
私の作品(Thème et variations <Aki>)と(Piccolo + Perc)
を聴いていたゞけるかもしれないことをたのしみに。


(編者注/Thème et Variations 1983。原曲はD’après Thème et Variations pour piano et orchestre, 1951。盤渉調越天楽によるピアノのための主題と変奏。Akiは、ピアニストの高橋アキ氏。(Piccolo + Perc)は、Netori bonguen et Nyuchô 1986 Piccolo ou flûte et percussions。フルートと打楽器のための「音取、品玄、入調」)。



Je vous embrasse de tout mon cœur,
J’espère fortement votre beau succès
et je vous envoie mille baisers.
Toujours votre tout dévoué
Yoritsuné


(編者注/私は心のすべてであなたを抱擁します。私は強くあなたの偉大な成功を願っています。私はあなたに千のキスを送ります。 常にあなたの献身的な 頼則)。


(ではまた、次回更新時に)。

2016年8月 7日 (日)

もうひとりのwith Diaghilev賛

ディアギレフと三人の作曲家たち
<ストラヴィンスキーをめぐって> もうひとりのwith Diaghilev賛

Мы за все твои сироты Беззащитные, Ах да мы тебя-то Просим, молим со сле зами, Со горучими.

 われらは皆みなし児、よるべなきみなし児。ああ、われらは汝に願う、祈る、涙とともに、熱い涙とともに。     (ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭合唱より)


Tdiaghilev



1


 稀代の興行師・ディアギレフという呼び名にはいささかの抵抗がある。彼は興行師にはちがいないけれども、バレエ・リュスの公演を打つ年ごとに「あたらしい」ものを展開した興行師としては、彼はいつも金がなかった。公演に資金を出してくれるロシアの王族や貴族たちに絶えず無心していた。その名の通りの「興行師」なら、濡れ手に粟のぼろ儲けをしなければならない。しかし、かつて彼は一度も儲けたためしがなく、無一文のうちに生を閉じた。金があったのは生涯でただ一度、生後3ヶ月で亡くなった母の遺産を受け継いだときであり、一部を使えるようになった1891年からの学生時代であり、それも乳母を養い、義弟たちを育てるために費やさなければならなかった。

  1895年の夏、翌年から美術批評を書き、芸術に関わる仕事を始めることになる、まだ23歳だった彼は義母に手紙を書いている。そこには醒めた自己分析がある。「まず、僕は大ペテン師です。ただし天才的な。第二に、強力な誘惑者です。第三に、度胸があります。第四に、かなり理屈っぽいですが、主義主張はほとんどありません。第五に、才能はないみたいです。でも、僕は真の天職を見つけました。芸術家のパトロンになることです。いろいろ恵まれています。無いのは金だけです。Mais ça viendra (でも、いずれはいってくるでしょう)」。

  バレエ・リュスを率いることになったのちも、この楽天性は生涯かわらなかった。セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)は「生活、そんなものは家来にまかせておけ」という芸術家の気質を生涯もっていた。そして、いつも金がない興行師であるよりも、「偉大な総合芸術の企画者・制作者」だった。


 バレエ・リュスのパリでの公演は1909年にはじまり、ディアギレフが没する1929年まで続いた。ディアギレフの熱い旋風が巻き込んでいった美術家は、初期のバクストやブノワから、やがてアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アンドレ・ドラン、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、モーリス・ユトリロ、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、マリー・ローランサン、ココ・シャネルら、当時の絵画とファッションの前衛たちの名が並ぶ。

  また、作曲家・編曲家にはチャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディン、チェレプニン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフらロシアの作曲家のほか、ドビュッシー、ラヴェル、アーン、シュミット、フォーレ、サティらフランスの作曲家、ドイツの作曲家の音楽ではリヒャルト・シュトラウス、スペインのファリャも音楽を書いた。ディアギレフはシェーンベルクにもバレエ音楽を委嘱しようとしたが、これは果たせなかった。Diaghilev: A Life 1st Edition by Sjeng Scheijen Oxford University Press; 1 edition (September 1, 2010) 『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房刊を参照)。


  バレエの振付は、まず古典バレエを基礎にしたフォーキン。そしてニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)が「牧神の午後への前奏曲」で革命を起こした。ニジンスキーが去ってから加入したレオニード・マシーンは団の解散後「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」で活躍し、ジョージ・バランシンも同じくモンテカルロで活動。その後アメリカに渡りバレエ学校を設立し、現在の「ニューヨーク・シティ・バレエ団」を設立した。彼らのほかにも活動の場所をアジアに定めたダンサーたちもいる。上海バレエ・リュスには、やがて小牧正英が参加し、プリンシパルとして踊った。

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 ディアギレフと彼に関わった芸術家たちとの関係のありかたはさまざまだった。

  ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)の生理は、バレエ曲の新作を依頼した初対面のディアギレフを受け付けなかった。1909年7月、楽譜出版社のデュランに宛てて、手紙を書いている。「頼まれているバレエ曲が書けない。大体、18世紀イタリアを舞台にしたバレエをロシア人ダンサーが踊るなんて、ばかげているとしか思えない」。「ディアギレフはフランス語がよくできないので、会話はどこかぎくしゃくしたものになった」。また1912年、『遊戯』の制作過程でも「ニジンスキーと彼の子守り(ディアギレフ)がやってきた。すでに書いた部分を聞かせてくれと頼まれたが、断った。野蛮人どもが私の感性を嗅ぎ回るのは不愉快だ」。その名作をディアギレフの「数小節延ばした方がいい」という助言を受け入れて「格段に華麗に」仕上げることができても、なおドビュッシーは最後までロシア人への不信感を捨てなかった。ディアギレフのことを「石をも躍らせる恐ろしいが魅力ある男」といった彼でさえ。また、ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)は『ダフニスとクロエ』をようやくのこと上演したあと、『ラ・ヴァルス』を書いたがディアギレフにバレエ作品としての上演を却下されて、その後は関係が悪化した。


  ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)は残った。1910年の『火の鳥』から、ディアギレフが没してバレエ・リュスが終焉を迎える前年の1928年の『アポロ』まで、作品を書き続けた。それだけでなく、バランシンのバレエ団のために『カルタ遊び』(1937)、『アゴン』(1957)を書き続けた。

  1909年、バレエ・リュスを旗揚げしたあと、ディアギレフの最大の課題は、新しいロシアのバレエを創りあげることだった。ロシアの歴史、民話や伝説を題材にしての作品。アレクサンドル・アファナシエフの民話集をもとにした『火の鳥』の台本を、デイアギレフ、フォーキンらでつくりあげた台本を得て、まずリャードフに依頼したが、仕事が進まないのですぐに諦めた。イーゴリ・ストラヴィンスキーを思い出した。1909年春に、ペテルブルクの音楽院で管弦楽曲『花火』を、バレエ・リュスの振付師、主役ダンサーだったフォーキンとともに聴いて、彼を認めた。ディアギレフは深い感銘を受けた。「新しく、独創的だ。あの音づかいは大衆を驚愕させるだろう」と語っている。

  数年前からその名を知り、父・フョードル・ストラヴィンスキーはマリインスキー劇場のバス歌手であり、ディアギレフはその劇場につとめていたので親しみもあったのだろう。まもなく、イーゴリのもとにディアギレフの使いが訪れた。


  1910年6月25日 パリ、オペラ座『火の鳥』

  音楽/ストラヴィンスキー指揮/ピエルネ

  美術(装置・衣装)/ゴロヴィン、バクスト 

  振付/フォーキン 

  出演/カルサヴィナ、フィキーナ、フォーキン、ブルガコフ

 パリでの2回目のバレエ・リュスの演目は『謝肉祭』(シューマン)、『ジゼル』(アダン)、『シェエラザード』(リムスキー=コルサコフ)、『オリエンタル』(ロシアと北欧の音楽)に、誇らしい新作としてストラヴィンスキーの『火の鳥』が上演された。話題作はニジンスキーが踊り、バクストの美術が賞賛された『シェエラザード』だった。『火の鳥』の音楽は当時、「メロディがない。まったく音楽に聞こえない」と失笑する人もいたし、稽古中のダンサーたちには、ストラヴィンスキーが「ピアノを弾いているというよりは、壊している」ように見えた。しかし、初演時の観衆には熱狂的に迎えられ、ゴロヴィンの美術も当時のロシアの舞台美術の頂点といわれた。バレエにおいても音楽においても、バレエ・リュスは前衛芸術の世界に属していることが認められた。

  ドビュッシーも賞賛した。「完璧ではありませんが、いくつかの点ではひじょうに優れています。少なくとも、ダンスのおとなしい奴隷にはなっていません。ときどき、まったく聞いたことのないリズムの組み合わせが聞こえます。フランスのダンサーたちは、こんな音楽に合わせて踊るのは拒むでしょう。なるほどディアギレフは偉大な男であり、ニジンスキーは彼の預言者です」。やはり楽譜商デュランへの手紙で。

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  1911年6月13日 パリ、シャトレ座『ペトルーシュカ』

  音楽/ストラヴィンスキー指揮/モントゥー 

  美術/ブノワ

  振付/フォーキン

  出演/カルサヴィナ、ニジンスキー、フォーキン、オルロフ、チェケッテ

     ィ、ショラール


 1911年1月、ニジンスキーが帝室マリインスキー劇場を解雇され、バレエ・リュスは夏休みだけではなく一年中公演できる体制になった。すでにパリだけではなく、前年にはベルリンで、この年はモンテカルロとロンドンでも開催。4月19日のモンテカルロ公演ではニジンスキーが初めての主役を『薔薇の精』(ウェーバーの音楽「舞踏への勧誘」)で踊り喝采を博した。これはニジンスキーに「その並外れた跳躍力を披露する機会をたっぷり与える」ために構想された作品で、以後、看板作品のひとつになった。

  5月からはローマ公演。6月の『ペトルーシュカ』の稽古も同時に進められていく。しかし、振付師フォーキンは、リズムが複雑でなかなか振付ができない。ストラヴィンスキーも朝から晩までピアノの前に座り作曲を続けている。指揮者のモントゥーは「他には誰もいなかった」という理由で選ばれたのだが「その曲と作曲家にすっかり魅了されていた」。

  本番の日が来た。ニジンスキーは、いよいよ大作の主役になって『ペトルーシュカ』を踊った。フォーキンの振付の源泉はスタニスラフスキー模倣的演劇技法であり、脇役の一人ひとりに至るまでの略歴を書き「役になりきり人物を生き返らせろ」と指示した。人形芝居小屋の人形ペトルーシュカ、バレリーナ、ムーア人が、小屋の主である老魔術師に生命を吹き込まれる。ペトルーシュカのバレリーナへの恋心、男盛りのムーア人はむき出しの男性性をもってバレリーナの目を奪う。ペトルーシュカの嫉妬。ムーア人は邪魔者のペトルーシュカを追い回し、ついに刀で斬り殺す。魔術師は彼を修理しようとするが、とつぜん芝居小屋の上にペトルーシュカの幽霊が現われる。魔術師にむかってこぶしを振り上げると魔術師は逃げ出してしまった。ニジンスキーに与えられた振付にはほとんど跳躍はなく、自分の役者としての才能だけが頼りだった。そして見事に成功した。



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  1913年5月29日 パリ、シャンゼリゼ劇場『春の祭典』

  音楽/ストラヴィンスキー指揮/モントゥー

  振付/ニジンスキー

  美術/レーリッヒ

  出演/ピルツ


『火の鳥』を書いているさなかに、ストラヴィンスキーは幻を見た。

 「サンクトペテルブルクで『火の鳥』の最後のページを仕上げていた頃のある日、束の間の幻をみた。私は他のことで頭がいっぱいだったので、その幻の出現には仰天した。空想の中で、私は荘厳な異教の儀式をみた。輪になって座った老賢者たちが、若い娘が死ぬまで踊るのをみていた。春の神を喜ばせるために、彼らは娘を生贄にしていたのだ」。(『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳)。引用元の書物には同じ内容の言葉に続いて「『春の祭典』の主題だった」。と付け加えられる。(Chroniques de ma vie by Igor Stravinsky , Éditions Denoël et Steele, 1935 。邦訳は『私の人生の年代記』イーゴリ・ストラヴィンスキー著 笠羽映子訳。スヘイエンはこの書をスティーヴン・ウォルシュが書いたとしている)。

  この幻を、彼はニコライ・レーリヒとともに新しいバレエ作品として構想しはじめた。ディアギレフも夢中になった。『ペトルーシュカ』から2年を経て、1913年に初演の日を迎えた。指揮者のモントゥーは、曲の完成(1912.11.17)後にディアギレフに呼ばれ、ストラヴィンスキーがピアノで弾くのを聴いた。

  「古いアップライト・ピアノはがたがた揺れ続けていた」「このままでは彼は爆発するか、失神してしまうだろう」「私自身も猛烈な頭痛がした」「この気の狂ったロシア人の曲なんか音楽じゃない」「とにかく部屋を逃げ出して、どこか静かな場所へ行き、痛む頭を休ませたかった。そのとき団長が私のほうを振り返って、にっこり笑った。『これは大傑作だ、モントゥー君、この曲は音楽に一大革命を起こし、君を有名にするだろう。だって君が指揮するんだからね』。むろん、私は指揮をした」。(『ディアギレフ』前掲書)。

  初演の夜に起きたのは、まさしく暴動だった。ストラヴィンスキーは回想する。

  「前奏曲の冒頭で、早くも嘲笑が起きた。私はむかついて席を立った。最初はまばらだった示威行為がしだいに客席全体に広がり、それが反対の示威行為を誘い、瞬く間に劇場全体が怒号に包まれた。公演の間じゅう、私は舞台袖のニジンスキーの横にいた。彼は椅子の上に仁王立ちになって、「16、17、18」と叫んでいた。ダンサーには独特の拍子の取り方があるのだ。当然ながら、あわれなダンサーたちは、客席からの騒音と、自分たちの足踏みの音で、何も聞こえないのだった」。「公演の後、私たちは興奮し、怒り、憤慨し、そして幸福だった。ディアギレフ、ニジンスキーとレストランに行った。ディアギレフの感想はただ、『私の狙い通りだ』」。


 音楽について、ドビュッシーはすでに『ペトルーシュカ』について「この作品は、いわば音の魔法に満ちています。人形の魂が魔法の呪文で人間になるという神秘的な変容。それを理解しているのは、これまでのところ、きみだけです。きっときみはこれから『ペトルーシュカ』よりも偉大な作品を書くでしょうが、これはすでに金字塔です」と賛辞を送っていた。『春の祭典』についても「ラロワ邸でいっしょにきみの『春の祭典』を弾いたことを今でもよく覚えています。あのときの思い出は美しい悪夢のように頭にこびりついています。あのときに受けた衝撃をなんとか甦らせようとするのですが、なかなかできません」。

  『春の祭典』は、同時代の音楽家に深刻な影響を与えた点で『トリスタンとイゾルデ』以降の最も重大な事件だった。


  振付はニジンスキー。彼の振付作品として『牧神の午後への前奏曲』『遊戯』に続いての三作目になった。『牧神』を成功させた後もニジンスキーはマラルメの詩を読んでいなかったし、詩人の名前も知らなかった。『春の祭典』を振り付けるときにも、総譜を読めず楽器も演奏できないニジンスキーに、ストラヴィンスキーは「まず彼に音楽の初歩、つまり音価、拍子、テンポ、リズム以下もろもろの手ほどきから始めなければならなかった。稽古は難渋をきわめた。主役は妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツが代役となった。ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の振付は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかった。

  完成した作品は前2作と同じく、古典的なバレエとはまったく異なるものだった。いくつもの群舞の独自の動きが全体として不調和な舞台を創る。これは古典的なバレエを期待した人は戸惑う。作曲者にさえ理解を超えるものだった。

  1909年以来、バレエ・リュスとニジンスキーに魅了されていたハリー・ケスラー(ドイツの外交官で国際的に有名な芸術愛好家)は、この作品に圧倒された。「突然、まったく新しい光景が出現した。これまで一度も見たことのないような、心を鷲づかみにし、納得させる光景が。芸術における新しい野蛮性と、反芸術性とが、一度にやってきたのだ。すべての形式は破壊され、その混沌から新しい形式が突然に出現する」。

  ニジンスキーの振付には『牧神』とちがってエロティックな身振りはなかった。透けない生地の衣装もダンサーの体を覆い、肌も体の線も見せない。そして、ダンサーたちは舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がる。

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 上演後の8月15日、一座は座長ディアギレフだけをのこしてブエノス・アイレスに出航する。到着後の9月10日、ディアギレフへの嫌悪が頂点に達していたニジンスキーはバレリーナのロモラ・ド・プルスキーと結婚式を挙げた。この知らせを聞いたディアギレフは激怒する。同性愛者の男性は、若い青年の愛人が異性とつきあうことを許さない。道を女性とともに歩くこと、仲よさげに女性と喋ることすら許せない。いつも、いつまでも自分の「女」として仕えなければならない。ニジンスキーは掟を踏みにじったのだ。彼は即座にバレエ・リュスからの解雇を決断。その後、ニジンスキーは自分のバレエ団を結成して公演するが、当然のことながらディアギレフのマネジメントの能力はなく、惨憺たる失敗に終わった。バレエ・リュスには興行上の理由で1916年の北米ツアーで復帰して、ニジンスキーは『ティル・オイレンシュピーゲル』(リヒャルト・シュトラウス/音楽)に振付をして、踊った。シュトラウスはバレエ・リュスの作品として『ヨゼフの伝説』を1914年5月17日に初演) の振付をし、上演。しかし、すでに彼の精神は病魔に襲われはじめていた。自ら書きつけた舞踏譜は『牧神の午後への前奏曲』の一作だけだった。


  ニジンスキーは現代バレエを切り拓いた先駆者だった。のみならず、彼の古典バレエの約束を打ち破る踊りは、現代日本の「舞踏」にまで及んでいる。舞踏家、笠井叡は「ニジンスキーも『牧神の午後』以降は完全に舞踏です」と発言している。(『土方巽の舞踏』慶應義塾大学出版会刊)。そして「Butō」の研究家、アリクス・ド・モランは、土方巽の『疱瘡譚』を語るなかでニジンスキーにも触れている。「ニジンスキーの課題は、調和のとれた動きに基いたクラシックの語彙と手を切ることであった。ニジンスキーは足を内に向ける姿勢によって不具の醜くなった身体性を浮上させ、グロテスクの印を焼き付けることに成功したのだ」。(横山義志訳 同書)。



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 ニジンスキーを失った1914年の新作は、5月17日のリヒャルト・シュトラウスの音楽によるバレエ『ヨゼフの伝説』と、ストラヴィンスキーのオペラ『ナイチンゲール』(夜鶯)だった。ディアギレフがニジンスキーに代わる主役を踊る男性バレエ・ダンサーとして新しく加入させたのは、やはり同性愛の愛人にしたレオニード・マシーンだった。

  シュトラウスの新作はさほど評判を呼ばず、一座の命運はオペラにかかった。リムスキー=コルサコフの『金鶏』をオペラ・バレエとしてフォーキンが振り付けた作品が、もうひとつのオペラだった。

  舞踊劇の形をとった『ナイチンゲール』(夜鶯)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話にもとづくオペラ・バレエ。曲の一部は『火の鳥』以前に書かれ、残りは『春の祭典』以後に書いた。ストラヴィンスキーは作風の変化が速い。少し長い曲なので、繋ぎ目がわかってしまう。しかし、素晴らしい部分の繊細な音色感は美しく、フランス音楽(もちろんドビュッシーとラヴェル)から得た成果が聴きとれる。

  この年1914年に始まった第一次大戦は1918年まで終結せず、バレエ・リュスを構成していた人たちは、これまで通りには芸術活動ができにくくなる。また、ロシア革命が1917年に起きる。ディアギレフらは故国に帰ることができなくなった。


 この間、ストラヴィンスキーのバレエ・リュス上演作は、1915年の『花火』。これは旧作を舞台作品に仕上げたもの。それだけだった。『ナイチンゲール』のバレエ改作版、『ナイチンゲールの歌』(夜鶯の歌)は、1916年に企画されて、公演が実現したのは1920年だった。アンリ・マティスが美術を担当した。振付はマシーン。音楽は20分程度に圧縮したもので、東洋の音階が魅力的だ。ストラヴィンスキーは1959年に来日し、この曲を演奏した。曲に自信があったのだろう。原作の童話は中国の皇帝の御殿と庭園が舞台になり、訪れる人が夜鶯(さよなきどり、ともいう)の声を賞賛し、皇帝も聞いて感動した。ある日、日本の皇帝から細工物の夜鶯が贈られる。宝石で飾られた夜鶯はいつも同じ節で美しい鳴き声を奏で、いつしか本物の夜鶯はいなくなってしまう……


  バレエ作品『プルチネルラ』も1920年の初演。ピカソが美術を受け持った。伝ペルゴレージの手稿や印刷譜からの18曲をストラヴィンスキーが編曲した。もう1913年ははるか昔に過ぎ去り、作風の変容は、編曲時1919年のストラヴィンスキーを先駆者ではなくしてしまっていた。この頃から1950年までの作風を、それまでの「原始主義」にかわる「新古典主義」と名付けられ、それ以後、若い友人で彼の仕事の協力者だったロバート・クラフトの示唆によってシェーンベルクの「十二音技法」を採り入れて、さらに「セリー主義」へと歩みを進めた。クラフトは書いている。「1952年3月8日。彼は遠回しにシェーンベルクの七重奏曲(作品29)に触れ、それが彼に強烈な印象を与えたという。40年ものあいだシェーンベルクを『実験的』『理論的』『時代遅れ』と片付けてきたので、シェーンベルクの音楽が実質的には自分自身の音楽よりもより豊かであるという認識に、衝撃を受けている」。(Stravinsky: Chronicle of a Friendship by Robrt Craft, Vanderbilt Univ. Pr. 1994 邦訳は『ストラヴィンスキー 友情の日々』ロバート・クラフト著 小藤隆志訳 青土社刊)。



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 バレエ・リュスの歩みを振り返ってみよう。1915年はリムスキー=コルサコフの旧作『雪娘』。1916年はフォーレの『ラス・メニナス』、そして、ンジンスキーの最後の『ティル』。1917年にはストラヴィンスキーの旧作『花火』。そしてディアギレフが最後に見出した若い才能、イーゴル・マルケヴィッチが評価してやまなかったサティの『バラード』。1918年に

  1921年、プロコフィエフの『道化師』が初演。ファリャ編曲による『クァドロ・フラメンコ』とともに。1922年はストラヴィンスキーの2作品。ニジンスカが踊ったバレエ『狐』とオペラ『マヴラ』。

  1923年6月23日に上演された新作バレエ・カンタータ『結婚』は、歌手を伴った作品で、これはしかし、往年の創造力が舞い戻ってきたかのような傑作のひとつになった。それもそのはずだ。構想は1912年には芽生えていて、1914年に着手された。1915年にはディアギレフに2場までの音楽を聴いてもらっていた。振付はソ連を亡命して1年足らずのブロニスラヴァ・ニジンスカ。美術と衣装はナターリヤ・ゴンチャローワ、指揮はエルネスト・アンセルメ。

  翌1924年は多くの作品が上演されたが、新しいものはミヨーの『青列車』。この舞台で新しく前年に入団したセルジュ・リファールが踊った。幕をピカソが描き、衣装はココ・シャネルだ。1925年は振付家にバランシンが入り、リエーティ作曲の『バラボー』が上演されるなど。1926年にはニジンスカとバランシンの振付作品。サティ作曲・ミヨー編曲の「びっくり箱」も。1927年には、ストラヴィンスキーが復帰する。オペラ『オイディプス王』。サティの『メルキュール』、プロコフィエフの『鋼鉄の歩み』、ともにマシーンの振付で上演された。1928年、ストラヴィンスキーの『ミューズを導くアポロ』。1929年5月21日、プロコフィエフの『放蕩息子』をバレエ・リュスとしての最後の上演を果たした後、8月19日にディアギレフはベニスで生涯を閉じた。看取ったのは看護していたセルジュ・リファール、そして16日、晩年の忠実な秘書だったボリス・コフノが駆けつける。二人ともディアギレフが愛した青年だった。18日にはミシア・セールとココ・シャネルも最後の病床に間に合った。



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 ディアギレフが8月12日、病床で口ずさんだのは『トリスタン』と『悲愴交響曲』の一節だった。ストラヴィンスキーは8月21日に知らせを聞いて愕然とした。ここ数か月の冷えた関係に胸がかきむしられた。26日になってから、ようやくヌーヴェリに手紙を書いた。「手紙を書くのは辛いのです。沈黙したままでいたいと思います。それでも手紙を書けば、愛するセリョジャを突然に失って私が感じている鋭い痛みが、あなたにもわかってもらえるでしょう」……。ストラヴィンスキーの妻、ヴェラは「年齢とアメリカがストラヴィンスキーの性格を変える以前、あの人はディアギレフにしか心を開きませんでしたわ。そして留意した批評は、ディアギレフのものだけでした」と言った。((『ストラヴィンスキー 友情の日々』ロバート・クラフト著 小藤隆志訳 青土社刊)。


  ストラヴィンスキーにも世に別れを告げる時が来る。1971年3月31日、クラフトは「ラズモフスキー四重奏曲」と「悲愴交響曲」のレコードをかけ、ストラヴィンスキーは「チャイコフスキーの最高の音楽だ」と言って喜んだ。4月4日、重い病床の枕もとでクラフトは「悲愴交響曲」の最終楽章を流した。それがストラヴィンスキーが聴いただろう最後の音楽になった。4月6日に巨星は墜ちた。 


Да здравствует ! уж как на небе солнцу красному, Слава ! cлава !

 万歳! 空にはすでにかくも赤き太陽! 栄えあれ! 栄えあれ!

(ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』冒頭合唱より)

2016年7月18日 (月)

奈良ゆみ ソプラノリサイタル 「月明かりの幻想」 2016.8.30 その3

8月30日の<奈良ゆみ ソプラノリサイタル>
で歌われる松平頼則「いにしへの日は」(2001) に関する
当ブログの記事を紹介します。


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<2001年2月12日>から

3e Mvtが書けるかどうか現時点では
わかりません。
詩を待っています。
(編者注/3e Mvtは、「ピアノ協奏曲第3番」の第3楽章。詩は、後の書簡に出てくる奈良ゆみ氏が選んだ詩。<2001年5月28日>に出てくる三好達治『いにしへの日は』が選ばれた。

<2001年2月21日>から
Poémeはこれから考えます。
 私にとって新しいGenreなので。
とても美しい!


<2001年3月17日>から
丁度 Faxを書こうとしていた所です。
三好達治の詩 どうでしょうか?
 お気に入ったか?  或はダメか?
心配しています。

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<2001年4月1日>から

 私に果たして5月があるだろうか?
夜毎の排尿前のいたみはひどくなりました。
“死ぬかと思った”と私が泌尿科のdocteurにいったら
笑っています。痛み止めの薬をくれましたが
全然効果はありません。

 Mr.Takejimaのいうには数字的に見て
危険な状況ではないから(糖尿病の状態は
必ず数字的に現れる)排尿の時の痛みは
ガマンしろということだろうと。

 三好達治の詩 途中までで止っています。
これは完成させます。
 では又

(編者注/三好達治の詩 は、奈良ゆみ氏から送られた三好達治の詩『いにしへの日は』に曲をつける )。

Yumiの歯 心配しています。
でも 生きることに対する強いOptimisme
明るい自信は大したものです。
天与の恵み(めぐみ)があるのですね。
才能、考え方、そして美しく生れた肉体。
Je t’aime et je t’adore !!
Toujours ton
Yoritsuné

(編者注/奈良ゆみ氏はこの頃、歯痛に苦しんでいた。以前にもにも自らの不調にもかかわらず、そのことを気遣う言葉があった。
Optimismeは楽観性。楽天性。
Je t’aime et je t’adore !! Toujours tonYoritsuné は、
私はあなたを愛し、私はあなたを崇拝する !! いつも あなたの頼則)。


Aaa


<2001年5月28日>

Chère Yumi
調子がよくないので、三好達治の詩
清書せずに草稿で送りました。
読みにくいでしょう。
今日Print- centerに清書してもらって
送ります。
気付いた点はリズムの構成です。
3が重点です。そしてその加え算の9も。
                5          4
例えば ♪♪♪♪♪|♪♪♩| = 9
        いにしへの 日は

♪♪♪|♪♪♪|♩♪| = 9
ながき  は る ひを

その他
Je t’aime
Ton Yoritsuné

(編者注/Chère Yumiは、かわいいゆみ。
Print- centerは、プリントセンター。
Je t’aime Ton Yoritsunéは、愛しています。あなたの頼則。


Tatsuji


三好達治1900-1964は日本を代表する詩人のひとり。CD『声の幽韻 松平頼則作品集Ⅲ ALM / ALCDに94に収められている《いにしへの日は》2001が該当曲。奈良ゆみ氏の解説を引用する。
「この無伴奏の声の為の曲は奈良ゆみが詩を選び、2001年の5月に作曲された。今までになかった(古今集、南部民謡など初期の作品以来)一シラブルに一音をつけるという書き方で、その後、同年8月には同じ書法で『百人一首』が書き上げられた。
『また新しい書法を見つけたよ!』(松平頼則のメモより)」(奈良ゆみ)

いにしへの日は   三好達治
いにしへの日はなつかしや
すがの根のながき春日を
野にいでてげんげつませし
ははそはの母もその子も
そこばくの夢をゆめみし
ひとの世の暮るるにはやく
もろともにけふの日はかく
つつましく膝をならべて
あともなき夢のうつつを
うつうつとかたるにあかぬ
春の日をひと日旅ゆき
ゆくりなき汽車のまどべゆ
そこここにもゆるげんげ田
くれなゐのいろをあはれと
眼にむかへことにはいへど
もろともにいざおりたちて
その花をつままくときは
とことはにすぎさりにけり
ははそはのははもそのこも
はるののにあそぶあそびを
ふたたびはせず)。



(編者注/それではまた、次回更新時に)。



2016年7月 5日 (火)

神の道化スカルボ讃

■大井浩明 連続ピアノリサイタル in 芦屋 2016
LES PRÉDÉCESSEURS 先駆者たち
7/16(土) ラヴェル全ピアノ曲+小林純生新作初演  午後6時開演(午後5時半開場)
全自由席 前売り/¥2,500 当日/¥3,000   3回通しパスポート \7000
この演奏会のために一文を献じた。

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ディアギレフと三人の作曲家たち
<ラヴェルをめぐって> 神の道化スカルボ讃


Oh ! que de fois je l'ai entendu et vu, Scarbo, lorsqu’à minuit la lune brille dans le ciel comme un écu d’argent sur une bannière d’azur semée d’abeilles d’or !
ああ! 幾度私は奴の声を聞き、奴を見たことか、スカルボを! 黄金の蜂を散りばめた紺青の旗の上に、月が銀の楯のように輝く真夜中に!
(ベルトラン 『夜のガスパール』から〈スカルボ〉 及川茂訳)
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 バレエ・リュスの総帥、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)は彼の芸術活動をバレエ公演から始めたわけではなかった。芸術に広範な興味を抱き、音楽を学ぶ法学生だった1897年2月、ペテルブルグのシュティーグリッツ美術館で「イギリス・ドイツ水彩画展」を開催したのが最初に手がけた催しだった。ロシア以外の美術を紹介した展覧会としては、史上もっとも重要なものだった。その後、彼は美術を展示するために奔走するが、すでに18歳のペテルブルグ大学入学後に、のちにバレエ・リュスの美術を担当することになるレオン・バクスト、アレクサンドル・ブノワらと親しくなっていた。
翌1898年、雑誌『芸術世界』を発行。彼は理念を述べる。「この雑誌はわが国の芸術界に、そして国民の間に、革命をもたらすでしょう」。「芸術に対するわれわれの姿勢のすべては、独立と自由という前提の上に立っている」。「われわれの出発点は、唯一自由な存在である人間そのものなのである」。
 そして民族主義高揚運動については、「民族主義的芸術家になりたいという願望ほど破壊的なものが他にあろうか。唯一可能な民族主義とは血の中にある無意識的民族主義であり」、「われわれは神々のように自由でなければならない」、「われわれは美の中に調和の偉大な正当性を、個人の中にその最も高尚な具現を探し求めなくてはならない」。
その後、28歳の1900年、ディアギレフは「帝室劇場運営特任要員」に任命され「帝室劇場年鑑」の編集に携わる。そして浮沈の激しい2年間が過ぎ、1902年12月20日、ペテルブルグで開かれた「現代音楽の夕べ」第1回が開催された。若いピアニストとしてストラヴィンスキーが出演し、この音楽会の活動を通じて当時のロシアにドビュッシー、ラヴェル、シュトラウス、マーラー、シェーンベルクらの音楽が紹介されたのだ。
 ディアギレフは止まらない。1905年1月22日、ペテルブルグで「血の日曜日」事件が起こった翌年、1906年10月、34歳の彼はパリのサロン・ドートンヌでロシア美術展を開催。さらに1907年5月にはパリ・オペラ座で5回のロシア音楽演奏会を開催し、シャリアピンを出演させた。そして1908年5月19日、国際的なバス歌手だったシャリアピンを主役に迎えたムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」を、パリ・オペラ座で公演。この年の秋、ディアギレフはニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)と親しくなった。
 バレエ・リュスの旗揚げは1909年。収支はともかく公演は大成功だった。ディアギレフのプロデュース、フォーキンの振付、踊り手のニジンスキー、美術のブノワ、バクストらの「あらゆる細部に注ぎ込んだ愛情と真摯さと献身的努力」が讃えられた。終わるやいなや、デァギレフは次のシーズンの準備に取りかかる。彼は決断をした。第一に、毎年かならず新作を複数上演する。第二は、ロシア人以外の、おもにフランス人の画家や音楽家の才能を採り入れること。
 ディアギレフは、音楽家では、48歳のドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)。そして34歳だったラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)に近づいた。そのとき依頼したバレエ音楽はドビュッシーには『マスクとベルガマスク』と呼ばれるもの、ラヴェルには『ダフニスとクロエ』であり、ドビュッシーはその曲をついに完成させることがなかった。ラヴェルの方も完成させるまでには時間がかかった。
 1910年のめざましい初演作品は、ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)の「火の鳥」だけに終った。カルサヴィナとフォーキンが踊り、ニジンスキーは「シェエラザード」「ジゼル」「謝肉祭」「オリエンタル」など他のすべての演目に出演。「牧神の午後への前奏曲」の振付に取りかかり始めた。 1911年のシーズンの初演作は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」。ニジンスキーはこの年、初めて主演を踊った。短篇「薔薇の精」と併せて。

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 ラヴェルの「ダフニスとクロエ」は、翌1912年6月8日になってようやく上演されることになる。
 劇場はパリ・シャトレ座。指揮はピエール・モントゥー。
ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)。フォーキン(振付)、レオン・バクスト(美術・衣装)。ヴァーツラフ・ニジンスキー(ダフニス)、タマーラ・カルサヴィナ(クロエ)ほか。
しかし、この年の最大の話題の中心はニジンスキーが振付けて主演したドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』だった。わずか10分ほどのこの作品を完成させるためには大変な回数の稽古が必要だったために、フォーキンが振り付けた50分ほどの大作の完成が遅れに遅れたのだ。初演の後、フォーキンはディアギレフを「私のバレエには無関心だ」と批判する。ニジンスキーは「僕かフォーキンか、どちらかが出て行かなくてはならないだろう」と洩らした。フォーキンが辞任した。
『ダフニスとクロエ』は、にもかかわらず、ラヴェルが残した音楽のなかで最も親しまれている作品の一つになった。原作は2世紀末から3世紀初頭にかけてロンゴスが古代ギリシア語で書いた作品。少年・少女の恋物語が、恋敵とのいさかい、海賊の襲撃、ポリス間の戦争などの逸話をからめて、詩情豊かに描かれている。フォーキンは1904年からこの作品をバレエにすることを考えていた。1909年6月にはラヴェルと台本についての打ち合せが始められた。ラヴェルは遅筆だった。その間、ロシア語とギリシャ語両方に詳しい友人に訊ねている。「またガニュメデスの同胞にかんする問題なのだが、僕はパン(牧神)の笛の名前を忘れてしまった」と。おもしろいのはダフニスを、美少年ゆえに神に誘拐されたガニュメデスの仲間にしていることだ。ガニュメデスは「同性愛者」と同義であり、主役を踊るニジンスキーとディアギレフの性的関係はよく知られていた。
さらに原作をフランス語訳で読んだラヴェルは、バレエには登場しない怪異なサテュロスにダフニスが結婚を申し込まれるという、いかにも同性愛そのものの挿話があったことを知った。サテュロスは、ギリシャ神話に登場する半人半獣の自然の精霊。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシャの牧羊神パンとしばしば同一視された。「自然の豊穣の化身、欲情の塊」として表わされる。その名前の由来を男根に求める説がある。
レスボス島。一群の羊飼いたち。ダフニスとドルコンはクロエの接吻を争うダンスを踊る。勝ったダフニスは報酬を受け、喜びに失神する。すると海賊が島を襲い、クロエはさらわれる。ダフニスは打ちひしがれるがニンフ像が祭壇からおりてきて、巨大な岩へみちびく。岩は牧神に姿を変える。ダフニスは牧神にひれ伏す。クロエをさらった海賊たちは彼女を踊らせる。とつぜん牧神があらわれ、畏れた海賊たちは逃げさる。最終の場面では、ダフニスとクロエが牧神とシランクスの愛を讃えて踊り、高揚した「全員の踊り」に締めくくられる。
バレエ作品としての《ダフニスとクロエ》初演は、延期になったために2回しかおこなわれず、一般の評判こそ《牧神》に奪われたが、ストラヴィンスキーは「フランス音楽で最もすてきな作品の一つ」と評した。踊り手で評価を得たのは置いた羊飼い役のエンリコ・チェケッティのみ。稽古の回数もままならなかったフォーキンは初演前にディアギレフを糾弾していた。「私は彼とニジンスキーの関係をはっきりと申し上げよう。このバレエ団は、洗練された芸術から倒錯したセックスに変質してしまったのだ」と。稽古の段階から振付師フォーキンとの確執があったニジンスキーは、ダフニスに「牧神」をからかう振付をされるなどの嫌がらせを受けていた。以後、ニジンスキーはダフニスを踊ることはなかった。
この舞台上のバレエ団はフォーキン派とディアギレフ=ニジンスキー派に分裂するおそれがあった。誰もがヒステリックになっていた。ピエール・モントゥーの指揮は、しかし冷静であり、オーケストラの楽員の誰もがラヴェルのもっとも偉大な作品だと理解していたという。ラヴェルは感情をあらわにしない。ただうっとりとしているようにしか見えなかった。「ラヴェルはニジンスキーの舞踏と、ドビュッシーの《牧神の午後》のスコアを賞賛し、ディアギレフがこの公演に好意的であることにも嫉妬しようとしなかった。彼は常々、もしも死ぬときが来たらドビュッシーの音楽を聴きたいと言っていた」。
ラヴェルはニジンスキーの「牧神」の踊りを理解していたのだ。

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『ダフニスとクロエ』について「ラヴェルを終生夢中にさせたパン神的(パニック)なテーマを立脚点としたバレエ」であると、ベンジャミン・イヴリーは指摘する。<パン神>は<牧神>と同義であり、牧羊神、半獣神とも訳されている。パンは羊飼いと羊の群れを監視する神で、サテュロスと同じく四足獣のような臀部と脚部、山羊のような角をもつ。
イヴリーは「牧神(パン)という概念は、ラヴェルの作品において、若書きの《古風なメヌエット》から《ダフニスとクロエ》を経て、以後も継承されていく」と書いた。「芸術における古代ギリシアのイメージは、デカダンスの世代にとって、性の自由を含む理想郷(アルカディア)伝説の復活を意味していた。理想郷では、牧神が音楽を通じて激烈な性衝動を表現した。古代ギリシアでは男性の同性愛行為を意味するのに『牧神を讃える』という表現を使い、牧神的(パニック)な愛は、恐慌的(パニック)な恐怖と同様、激烈で、急激で、予期しがたかった」。「神話的伝承が深く浸透したラヴェルの作品は、しばしば牧神的(パニック)な理想が具象化されている」。(Maurice Ravel : A Life Hardcover – August 1, 2000
by Benjamin Ivry Welcome Rain Publishers  『モーリス・ラヴェル ある生涯』ベンジャミン・イヴリー著 石原俊 訳 アルファベータ刊)。
「牧神的」(パニック)な音楽の始まりだった『古風なメヌエット』1895は、ラヴェルの作品目録では『愛に死せる女王のバラード』(ピアノ独奏曲)、『グロテスクなセレナード』(ピアノ独奏曲。その名の通りグロテスクで、悲劇と喜劇が混ざり合った、恋人の役を不器用にこなす人物が描かれるという。ラヴェルの自画像か。シャブリエの影響があると作曲者は言っている)、『暗く果てない眠り』(ヴェルレーヌ詩によるバスのための歌曲)に次いで4番目に挙げられるが、記念すべき初めての出版作品だった。典雅に見えて、内部にはエロスが踊っている。牧神の舞踏の地面に打ちつけるリズム。
そして『鏡』1904/5は《蛾》《悲しげな鳥たち》《海原の小舟》《道化師の朝の歌(Alborada del gracioso)」、そして《鐘の谷》の5曲からなる。
牧神が踊るのは第4曲《道化師の朝の歌》だ。この訳語についての異論を読んだことがある。「道化師」ではなくて「放蕩者」と訳すべきだと。夜を徹して遊びはてたあげくの放蕩者の朝帰りの歌なのだ、と。その異論は現在に至るまで一般には浸透しなかった。道化師って?アルレッキーノのこと? じつは高校生の頃、そんな疑問を抱いていた。アルルカン、ピエロがその服装のまま、朝の街を歩くの? なるほど「放蕩者」かあ、と一人住まいを始めた大学生になって新宿で夜遊びし、夜明かしして朝帰りしてからひとりごちた。
 しかし、異論はやはり異論だった。Graciosoはスペインの17世紀の芝居のキャラクターで「道化師」に他ならなかった。「彼は糞尿愛好的、好色的、反女性的」「で、粗雑にして反英雄的な風刺をおこなうのによく利用される」。「彼はたいてい召使いで」「あらゆる猥褻行為を許されたおどけ者たる道化師は、」「多くの場合において自らを半陰半陽者、同性愛者、去勢男子などと宣言し、エロティシズムを茶番化する」。
《道化師の朝の歌》の中で、「ラヴェルは自らを道化師とも、また恋愛物語(ロマンス)の反英雄とも見立て、さらには、鏡に映る逆像の異性愛を眺める外部の傍観者として描いたのだった」。(前掲書)。

 道化。この言葉はニジンスキーも書いた。
 ニジンスキーは「私は神の道化だから、冗談が好きだ」と文字に刻みつけた。(『ニジンスキーの手記』鈴木晶訳 新書館)。「私は言いたい、愛のあるところが道化の本来の場所だ。愛のない道化は神ではない。神は道化である。私は神である」。
 ニジンスキーはいつも「人間ではない」役を踊って喝采を博してきた。バレエ・リュス初期の『アルミードの館』、『クレオパトラ』『シェエラザード』での奴隷は、人間以下の存在として。このころディアギレフの友人ヌーヴェリは『シェエラザード』でもニジンスキーは奴隷を踊ることになったことについて、「彼はいつも奴隷じゃないか。ねえ、セリョージャ、そろそろ解放してやったらどうだい」と皮肉を飛ばしている。『薔薇の精』では妖精。この作品では両性具有性がきわだつ。『青神』では神。『牧神の午後への前奏曲』では牧神。振付は革命だった。そして、次に主役を踊るだろう『ペトルーシュカ』は人形なのだ。もっといえば、魔術師である人形一座の座長の奴隷。ニジンスキーは、舞台を離れてもディアギレフの奴隷であるといえた。だから舞台では実人生をこえて、さらに人間を離れた凄まじい存在になった。
 フォーキンは言う。ニジンスキーには「男っぽさが欠けていて」「その特徴ゆえに黒人の奴隷の役にはぴったりだった。原始的な野蛮人みたいだった」。「半分人間で、半分は猫科の獣になったかのように、音を立てずに大きく跳躍したかと思うと、今度は種馬に」なった。
 ブノワは言う。「半分は猫で半分は蛇だ。悪魔のようにすばしこく、女性的だが、背筋が寒くなるような恐ろしさを秘めている」。
 ヴォドワイエは言う。「彼はぎらぎら光り、のたくっていた。爬虫類のように」。
 ブロニスラヴァ・ニジンスカは言う。「最初は蛇、次いで豹になった」。(『ニジンスキー 神の道化 鈴木晶 新書館』。


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 ラヴェルもまた「人間以外」の存在を書かせれば、そこにラヴェル自身が現われた。完成させるまでに時間はかかったが、最高に楽しく仕上がったのはオペラ『子供と魔法』1924だろう。ファンタジー・リリックと作曲家が名付けたオペラとバレエを融合させた、彼の独創が輝くおとぎ話だ。主役は子供。ほかに母親、王女、羊飼いの娘、お姫様、数を数える小さな老人、羊飼いの男が出てくる、あとは雌猫、安楽椅子、火、ナイチンゲール、こうもり、ふくろう、、うぐいす、雨蛙、中国の茶器、カップ、とんぼ、ソファー、大時計、雄猫、木などが声を出して歌うのだ。
 ピアノ連弾で聴ける曲にもある。管弦楽曲に編曲された『マ・メール・ロワ』1908/9だ。英語で歌われてきた伝承童謡「マザー・グース」(がちょう婆さん)の仏語訳。《眠れる森の美女のパヴァーヌ》、《親指小僧》、《パゴダの女王レドロネット》、《美女と野獣の対話》、《妖精の園》の5曲からなる。原作はシャルル・ペロー、ドロノワ夫人とルプランス・ド・ボーモン夫人。
おとぎ話には、しばしば生々しい大人の感情がこめられている。人間以外の場所にしか生きられない悲しさを、たとえばハンス・クリスティアン・アンデルセンは童話の姿で表現した。「かたわもの」や「みにくいあひるの子」がそうだが、《おやゆび小僧》《美女と野獣の対話》のラヴェルも同じことをしている。とても小さな体に生まれついたおやゆび小僧は、親に捨てられて森の中で迷ってしまう。心のやさしさを知り、野獣の醜さを受け入れる姫だが、それだけでは足りない。なによりも性的な魅力は欠けたままだ。ここに肉体に魔術がかかり、グリッサンドで野獣から美貌の王子への変身が遂げられる。
 『マ・メール・ロワ』は、のちに管弦楽に編曲され、新たに書き加えられた部分とともにバレエ音楽として上演された。テアトル・デザール(芸術劇場)の支配人、ジャック・ルーシェ(Jacques Rouché)からの依頼により、1911年から翌1912年初頭にかけて編曲。初演は1912年1月28日、ラヴェル自身の台本、ジャンヌ・ユガール夫人の振付、ガブリエル・グロヴレーズの指揮による。
 1916年になってから、9月にディアギレフは『マ・メール・ロワ』を舞台にかける意欲を示した。しかしラヴェルの楽譜を専属で出版するデュランが反対した。ロシアバレエ団、「彼らに攻撃された作品は異常に輝きますが、その輝きは放火の輝きです」。「このささやかな幻想は、アジア的豪奢のなかで燃えさかるというよりも、むしろより尊敬される、息の長い、もっと地味な運命をたどるべきなのです」。
 
 1914年に着手し、1917年に完成した『クープランの墓』は、ピアノ独奏曲としての最後の大作になった。《プレリュード》《フーガ》《フォルラーヌ》《リゴードン》《メヌエット》《トッカータ》の6曲からなる。1919年に4つの曲が管弦楽に編曲され1920年初演。同年にバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)によって「フォルラーヌ」、「メヌエット」、「リゴードン」の3曲がバレエ化され、11月8日にシャンゼリゼ劇場で初演された(指揮:デジレ=エミール・アンゲルブレシュト)。バレエ版は好評であり、1923年にはラヴェルが100回目の公演を指揮した。
 ディアギレフは1913年の夏、『春の祭典』初演後の頃にはニジンスキーとの関係を終えていた。8月15日、バレエ・リュス一座はブエノス・アイレスに向けて出発した。ディアギレフ不在の旅先で、ニジンスキーはロモラ・ド・プルスキーと結婚した。激怒したディアギレフはニジンスキーを解雇した。ニジンスキーは自分の一座を立ち上げなければならなくなった。かつての仲間は除名を恐れてその一座に加わらない。しかし、ラヴェルは救いの手を差しのべた。1914年3月のロンドン公演のためにシューマン『謝肉祭』とショパン『シルフィード』のオーケストレーションを大急ぎで改訂した。
そんなことを根に持っていたのかどうかは判らない。1920年になって、ラヴェルは『ラ・ヴァルス』の2台ピアノ版をディアギレフに聞かせた。ディアギレフはその場で、バレエ・リュスの舞台にのせることを却下した。「名曲ではあるが、これはバレエの真似事だ。バレエそのものではない」と。しかし『ラ・ヴァルス』は他のバレエ一座によって上演される。1928年10月の時点ではアントワープの劇場とイダ・ルビンシュタインの舞踊団が、そして後代の1951年、ジョージ・バランシン振付によって偉大なバレエ作品になった。
『ボレロ』の場合もそうだ。初めからバレエ曲として、イダ・ルビンシュタインが委嘱した。初演は1928年11月22日にパリ・オペラ座において、ワルテル・ストララム(フランス語版)(Walther Straram)の指揮、イダ・ルビンシュタインのバレエ団(振付:ブロニスラヴァ・ニジンスカ)によって行なわれた。ディアギレフはこの公演を見て、1928年11月23日付のセルジュ・リファール宛の手紙に「ラヴェルの曲も、単調なリズムが延々14分も続く」と、こきおろしている。
 ディアギレフが関わらなかったバレエ曲としては、『ダフニスとクロエ』初演の年、1912年に『高雅で感傷的なワルツ』が、ロシアのバレリーナ、ナターシャ・トルハノフからの依頼を受けて、バレエ『アデライード、または花言葉』のための音楽として作られた。初演は同年4月22日にシャトレ座において、ナターシャ・トルハノフのバレエ団、作曲家本人が指揮するラムルー管弦楽団によって行われた。


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 ラヴェルがディアギレフに会ったのは、バレエ・リュスが初めてパリ公演にやってきた1909年のことだった。「ディアギレフ以前」のラヴェルの作品には、『鏡』もそうだったが、多感なモーリス少年の資質が包み隠されることなく表現されている。愛読書はリラダンの『未来のイヴ』、ユイスマンスの『さかしま』、そしてボードレールの仏語訳『エドガー・アラン・ポー全集』だ。ラヴェルは12歳のときに、ピアニストのリカルド・ヴィニェスとめぐりあい、アロイジウス・ベルトランの『夜のガスパール』を借りた。その頃のラヴェルをヴィニェスはこう書いている。「前髪をたらしたフィレンツェの小姓がしゃちほこばっているみたいな子供で……優美でほっそりとした繊細なバスク顔が、狭い肩と細い首の上にのっていた」。

 『夜のガスパール』1908は3曲からなる。
《オンディーヌ》。人間の男に恋をした水の精オンディーヌが、結婚をして湖の王になってくれと愛を告白する。男がそれを断るとオンディーヌはくやしがってしばらく泣くが、やがて大声で笑い、激しい雨の中を消え去る。
《絞首台》。葬送の鐘。遅く重いテンポは変更されないが、それとは裏腹に拍子はめまぐるしく変化を重ねる(鐘の音に交じって聞こえてくるのは、風か、死者のすすり泣きか、頭蓋骨から血のしたたる髪をむしっている黄金虫か……)。死は不可避だ。
《スカルボ》。自由に飛び回る悪鬼スカルボ。不吉な和音と炸裂する走句。まがまがしい跳躍の舞踏。ついに悪のエロティックな勝利。
 ラヴェルは1908年7月、イダ・ゴデブスカへの手紙の中で書いている。「終わりかたが悪魔じみているのは、『彼』が作者であることからして当然です」。
 
 Mais bientôt son corps bleuissait, diaphane comme la cire d’une bougie, son visage
blêmissait comme la cire d’un lumignon, — et soudain il s’éteignait.
 しかしまもなく奴の身体は蝋燭の蝋のように青ざめ透きとおり、その顔は燃え残りの炎のように青白く、――そして突然消え失せた。
 
 (ベルトラン 『夜のガスパール』から〈スカルボ〉 及川茂訳)


2016年6月30日 (木)

奈良ゆみ ソプラノリサイタル 「月明かりの幻想」 2016.8.30 その2

8月30日の<奈良ゆみ ソプラノリサイタル>
冒頭に歌われる「朧月夜」に関する
当ブログの記事を紹介します。


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<日付なし>

(CDへの原稿など。セピアと銀。
 源氏物語についての原稿)
いづれにせよ、3 源氏物語は小説的な終末はない。
どこで終わってもよいと思うけれど、一応紫の死で終末としてある。
(編者注/『セピアと銀』はCD『松平頼則作品集Ⅱ/奈良ゆみ』(ALM RECORDS ALCD48 1999.5.30)の解説書に収められた松平頼則氏の文のタイトル。副題は「『南部民謡』と『古今集』について」。

音と色彩について面白いことを書いている。「増4度あるいは短7度はセピアを感じるし、長7度あるいは短9度は銀を感じるし、イ長調は春を、ト長調は水を、ホ長調は花の咲いた畠を感じる。従って、ドビュッシーの作品はセピアで、ラヴェルの作品は銀なのである」。このCDでは『曲目解説』も松平氏が書いていて、冒頭の『朧月夜』(1992-93)の3曲、「朧月夜に」「木枯らしの」「心から」についての解説文がある。

そこで紹介されている先行のCD『松平頼則作品集Ⅰ/奈良ゆみ』ALM RECORDS ALCD39 (1992.6.25)には『ソプラノ、笙、フルート、箏のための「源氏物語による3つのアリア」』(1990)と『ソプラノとピアノのための「二星」(朗詠)』(1967、改稿1989)が収められている。松平氏はこのCD解説書にも『楽曲解説』を書き、もう一文『奈良ゆみ讃』を寄せている。

『奈良ゆみ讃』
彼女が歌う時、作曲家が五線に書けなかった色彩や光や虹や香りや、そしてそれだけでなく遠い国々や千年以上も経った時までも喚起し、人びとを魅了する。
人びとはその体験や記憶や幻想の再現を希望する。
ここに今、彼女の傑れた演奏の録音されたCDが現れ、何度でもそして何時でも聴くことの出来る歓びがある。        
松平頼則

(編者注/日付なしの書簡だが、当該CD発行の1999年の6月以前のものだろう)。

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<1996年3月27日>

Chère Yumi
Faxありがとう。前回のFaxはあそこで紙が切れて、別の紙をつなぐのに手間どっている間に―休止―あんな形になったのでしょう。何も書いてありません。

(編者注/Chère Yumiは、かわいいゆみ。
松平頼則氏から送られる奈良ゆみ氏へのFax書簡は、1日に1枚を1回とは限らなかった。書きたいことが溢れてくれば、複数枚を複数回という日もあった。速筆なので判読に苦しむ字句もあり、今回も奈良ゆみ氏に複数箇所についてお手間取らせることになった。感謝申し上げる)。

ヒコーキ会社に今日改めてきき直したら、ヨーロッパ便は1st Classのお客さんが少ないので、会社によってしばしば1st Classのない便があるとのこと。ローカル線のヒコーキみたいのではなく、機体は1st Classのあるのと仝じだとのこと。私達のはオーストリア航空だそうです。
conférence準備のための資料漁りをしている度に、いろいろ私のスジョーがわかって来ました。

(編者注/ヒコーキは、飛行機。1st Classは、飛行機のファースト・クラス。仝じは、同じ。スジョーは、素性。Conférenceは、講議。
1996年5月6日から17日にかけて、松平頼則氏は、
Hochschule für Musik und darstellende Kunst „Mozarteum“  POETIK
(「モーツァルテウム」音楽と舞台芸術のための大学『ポエティーク〈詩学〉』)という音楽講座のため、オーストリアのザルツブルク、モーツァルテウムに招かれた。
奈良ゆみ氏も同行し『朧月夜』(1992)、『3つのオルドル』(1994)、『源氏物語による3つのアリア』(1992)を歌った。

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5月 6日 プレス・コンファレンス(記者会見)
5月 7日 公開練習
5月 8日 公開練習 松平頼則講演「私の作曲について」
     ゲネラル・プローベ コンサート
5月 9日 公開練習 ゲネラル・プローベ コンサート
5月10日 公開練習 コンサート
5月13日 松平頼則講演「雅楽と現代音楽」
5月14日 松平頼則講演「私の音楽 Ⅰ」
5月15日 松平頼則講演「私の音楽 Ⅱ」
5月17日 松平頼則講演「雅楽と私の音楽」。

演奏された曲は、奈良ゆみ氏が歌った3曲の他に器楽作品が3曲。
5月8日のコンサート・プログラム
松平頼則/『源氏物語による3つのアリア』(1992)
『朧月夜』(1992)、『3つのオルドル』(1994)
5月9日のコンサート・プログラム
L.Nussbichler作品
M.Feldman(フェルドマン)作品
松平頼則/『序』(1988)、『ソロ・ピアノのための雅楽による3つの即興曲』
     『雅楽の主題による10楽器のためのラプソディ』(1983)
5月10日のコンサート・プログラム
M.Trippolt(UA)作品  Nack-Pyo Jeon(UA)作品
M.Feldman(フェルドマン)作品
松平頼則/『雅楽の主題による10楽器のためのラプソディ』(1983)
 『序』(1988)  
これらの曲の中で『ソロ・ピアノのための雅楽による3つの即興曲』の作曲年代だけ特定できない。仏語による詳細な作品目録にも載せられていないからだ。推測すれば、1987年の「2台のピアノのための雅楽の旋法による6つの即興曲」の「1台のピアノのための」編曲版ではないか。記録されたCDに収められているのは『朧月夜』『3つのオルドル』、そして『ラプソディ』の3曲のみだ)。


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2016年6月26日 (日)

奈良ゆみ ソプラノリサイタル 「月明かりの幻想」 2016.8.30


8月末で閉館する芦屋の山村サロンで、奈良ゆみさんが歌います。
プログラムは松平頼則とシェーンベルク。
またとないプログラムです。

奈良ゆみ ソプラノリサイタル
「月明かりの幻想」
松平頼則 &  アルノルト・シェーンベルク 
 
奈良ゆみ(ソプラノ)  谷口敦子(ピアノ)

8月30日(火)
19:00開演(18:30開場)
全自由席 ¥5,000  (前売り券 ¥4,500)

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松平頼則 Yoritsuné Matsudaïra (1907-2001)
朧月夜に「源氏物語」 より、 紫式部 1992
(ソプラノ・ソロ)
 
アルノルト・シェーンベルク Arnold Schoenberg (1874-1951)
月に憑かれたピエロ  (1912)
詩:A・ジロー/O・E・ハルトレーベン
(エルヴィン・シュタインによるピアノ伴奏版 )
 
松平頼則 
いにしへの日は2001  (ソプラノ・ソロ)
     詩:三好達治
「古今集」より1939-45
     君ならで、秋風に、はつかりの、川の瀬に
ラ・グラース(七月の詩)1991
     詩:松平頼則
 
アルノルト・シェーンベルク Arnold Schoenberg
「ブレットル・リーダー(キャバレー・ソングス)」より( 1901)
     ガラテア、ギガーレット、控えめな愛人、警告、
     理想郷の鏡からのアリア


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お知らせまで。
次回は松平作品についての当ブログからの記事を掲載予定。

2016年6月 1日 (水)

不在の牧神のための頌歌

6月18日(土) 午後6時開演(午後5時半開場)

全自由席 前売り/¥2,500 当日/¥3,000
3回通しパスポート \7000
 
大井浩明 連続ピアノリサイタル in 芦屋 2016
LES PRÉDÉCESSEURS 先駆者たち


第一回公演
橋本晋哉(1971-):ピアノ独奏のための《ゆたにたゆたに》(2016、委嘱新作初演)
クロード・ドビュッシー(1862-1918):
2つのアラベスク、スティリー風タランテラ、ベルガマスク組曲
ピアノのために、版画、仮面、喜びの島、映像第1集、同第2集、
子供の領分、舞踊詩「遊戯」(作曲者による独奏版/日本初演)、
12のエチュード集

このコンサートのためにエッセイを書いた。連続ピアノリサイタルで採り上げられるのは、まずドビュッシーであり、7月16日(土)午後6時開演のラヴェル、8月20日(土)のストラヴィンスキーと続く。彼ら3人の作曲家たちはディアギレフとバレエ・リュスの時代を生きた。3人ともその舞台のための作品を書いているのだ。初回のエッセイには同バレエ団の無二のダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーのことを書いた。

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ディアギレフと三人の作曲家たち
<ドビュッシーをめぐって> 不在の牧神のための頌歌


Je tiens la reine !         われは女神を抱く。
…O sûr châtiment...          おお 重き罪科……
(マラルメ『半獣神の午後』から 鈴木信太郎訳)  
 
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ニジンスキーは悲しい。彼の手記を読みはじめると冒頭の「人々は、ニジンスキーが悪いことをして気狂いの真似をしているといっている」から鷲掴みにされ、「私はニーチェが好きだ。彼ならば私を理解しただろう」を経て「私は神である、私は神なのだ。神なのだ。……」に至ると、訳もなく涙があふれだした。口絵に見る彼の姿が映された写真も、舞台衣装であれ日常の服装であれ、どれもたまらなく悲しい。
1971年初版の『ニジンスキーの手記』(市川雅訳。現代思潮社刊)を手にしたとき、私は18歳だった。頭の中には『ツァラトゥストラ』のニーチェの言葉と、『地獄の季節』のランボオの詩だけが渦巻いていた。ニジンスキーとニーチェは精神に変調をきたした。超越は尋常ならざる代償を伴う。習慣と常識に覆われた日常の表皮は分厚く、飛翔すればたちまち空気が薄くなってしまう。そして、ランボオとニジンスキーはともに年長の男性と交わり「感覚の錯乱」を体験した。行為において性別が破壊され、日常に規範も意味もなくなった。母音に色が見えたランボオは「酔いどれ船」に乗り詩を旅した。存在とは何かを、もはや問わない。存在そのものになったとき、人間が人間でなくなる。神になり気が狂う。脱け出すことができたランボオは21歳で筆を折り商人になった。ニジンスキーの手記は1818年から1819年にかけて、舞台から降りざるを得なくなった失意と絶望のなかで書かれた。いや、書かれたというよりは、言葉の槌で刻み付けられ、生命の火花が飛び散るようだ。29歳の1919年に幻覚がはじまり、以後60歳の1950年に死を迎えるまで、30年間を狂気のままに生きていた。
ニジンスキーの「手記」の完全版なるものが世に出されたのは後年のこと。私の読んだ「手記」は1936年に未亡人のロモラ・ニジンスキーが出したもので、彼女が1978年に世を去ったのちに1995年、「無削除版」の仏語訳が突如出版された。ロモラが出したものは「抜粋版」で、「完全版」は1998年に邦訳された。(『ニジンスキーの手記 完全版』 ヴァーツラフ・ニジンスキー著 鈴木晶訳 新書館刊。英訳は The Diary of Vaslav Nijinsky  by Vaslav Nijinsky (Author), Joan Acocella (Editor)  University of Illinois Press; Unexpurgated ed. Edition)。
ロモラが編んだ「抜粋版」には「完全版」に記されていた、性に関することや卑猥な表現が削られていた。ロモラへの悪口、フレンケル医師に関する記述もなかった。ニジンスキーが書き刻んだ言葉の全貌には再び圧倒された。全体は『セルゲイ・ディアギレフへの手紙 男に』で結ばれる。「男から男に ヴァーツラフ・ニジンスキー」が最後の一行だった。別れてもなお、心身を喪失しつつあってもなお、ニジンスキーはディアギレフへ言葉を書かなければならなかった。ディアギレフは「残酷な神」のようにニジンスキーを支配し続けたのか。

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ニジンスキーが踊る姿は記録されていない。しかし、現代のパリのバレエの関係者たちが総力を挙げて「バレエ・リュス 100年」に当時の舞台を蘇らせた映像がある。2010年2月19日(金) NHK教育テレビ「芸術劇場」で放映されたものだ。作品と人名の表記は当時のNHKにしたがう。
パリ・オペラ座バレエ『バレエ・リュス・プログラム』
・バレエ「ばらの精」Le Spectre de la Rose (1911初演)
 振付:ミハイル・フォーキン
 音楽:ウェーバー作曲/ベルリオーズ編曲
 美術:レオン・バクスト
 主演:マチアス・エイマン、イザベル・シアラヴォラ
・バレエ「牧神の午後」L'Apres du Midi d'un Faune  (1912初演)
 振付:ワツラフ・ニジンスキー
 音楽:クロード・ドビュッシー
 美術:レオン・バクスト
 主演:ニコラ・ル・リッシュ、エミリー・コゼット
・バレエ「三角帽子」Le Tricone  (1919初演)
 振付:レオニード・マシーン
 音楽:マヌエル・デ・ファリャ
 美術:パブロ・ピカソ
 主演:ジョゼ・マルティネズ、マリ・アニエス・ジロ
・バレエ「ペトルーシカ」Petroushka  (1911初演)
 振付:ミハイル・フォーキン
 音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー
 美術:アレクサンドル・ブノワ
 主演:バンジャマン・ペッシュ、クレールマリ・オスタ、ヤン・ブリダール、ステファン・ファヴォラン
<出演>パリ・オペラ座バレエ団
<指揮>ヴェロ・パーン
<管弦楽>パリ・オペラ座管弦楽団
<収録>2009年12月 パリ・オペラ座 ガルニエ宮

 100年祭に選ばれたプログラムは「三角帽子」のほかは、すべてニジンスキーが踊ったものだ。なかでも「牧神の午後への前奏曲」は彼の振付師としての第一作。もちろん主役の牧神として踊った。ディアギレフの発案だった。美術はバクストで、彼とニジンスキーはギリシアのレリーフに心酔していた。バレエ・リュスは、いままで人が見たことがない作品を創造しなければならない。はたして1912年5月29日の初演後、熱狂した喝采と野次と怒号が同時に耳をつんざいた。もちろんドビュッシーの音楽に対してではない。ニジンスキーの振付と踊りに対しての反応だった。終わりの部分でニジンスキーはニンフから奪ったヴェールの上に腹ばいになって腰を上下に動かし、性行為を暗示していたのだ。
 翌朝の新聞で「フィガロ」紙はガストン・カルメット編集長が、あしざまにこきおろす。――あれは美しい田園詩でも、深遠な意味をもった作品でもない。あの好色な牧神のエロティックな動きは猥褻かつ下品で、その身振りは露骨で淫らである。――
 絶賛したのは「ル・マタン」紙だ。――ニジンスキーの最近の役柄のなかで、これほど傑出したものは他にない。もはや跳躍はなく(…)、彼の肉体はその内の精神を余すことなく表現している。(…)クライマックスで、彼はニンフから奪ったヴェールの上にうずくまり、接吻し、抱きしめ、熱情的な忘我に至る。この衝動ほど印象的なものがあろうか。――
 この絶賛は彫刻家オーギュスト・ロダンの署名記事だったが、ロダンは一行も書かなかった。そのことが問題になった後でも、ロダンは「記事の一言一句も」取り下げるつもりはないと言い切った。(このあたりはDiaghilev: A Life 1st Edition by Sjeng Scheijen Oxford University Press; 1 edition (September 1, 2010) 『ディアギレフ』シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房刊を参照している)。

真っ二つに割れた評価のなかで、2回目の公演が5月31日に開かれた。「牧神はヴェールのなかに股を挿入することはなく、跪いたまま終わる。この改訂版がは喝采と『アンコール』の声に迎えられる」。(前掲書)。
2009年のパリ・オペラ座公演での「牧神」は、ニコラ・ル・リッシュが踊った。細身とはいえない筋肉質な体系はニジンスキーを髣髴とさせた。秀逸なバクストの美術を背にして、舞踊家の能力を誇らしげに展示する跳躍は封じられ、この上なく優雅にダンサーたちが横切っていく。初演の振付が再現された。あれから100年の歳月が経ちなんの違和感もなく、すばらしいものを見た。この作品こそが旧来のバレエに対する革命だった。バレエ・リュスの新しい時代がここに始まったのだ。


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ヴァーツラフ・ニジンスキー(Vaslav Nijinsky 1890-1950)は、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev 1872-1929)が創設したロシア・バレエ団(バレエ・リュス Ballets Russes 1909-1929)でヨーロッパを震撼させた男性バレエ・ダンサーだ。
ディアギレフはリムスキー=コルサコフに「作曲の才能がない」と指摘され、芸術家になることをあきらめた青年だった。彼の才能は芸術を紹介することに向けられ、1897年、手始めに帝政ロシア国内で絵の展覧会を企画した。以降6回の展覧会を経て、1905年にサンクトペテルブルクのタヴリーダ宮殿で開かれた「ロシア歴史肖像画展」を開き、それが最後の彼の国内での活動になった。1905年は「血の日曜日」「ロシア第一革命」の年だ。日露戦争の戦況もかんばしくない。「西欧にロシア芸術を紹介する」ことに舵を切ったのは、そこにしか行く道がなかったからだ。
1906年、パリのプチ・パレでロシア画家の展覧会を成功させたのを皮切りに、1907年にはパリ・オペラ座で5日間にわたるロシア音楽の演奏会を開いた。ラフマニノフ、スクリャービン、リムスキー=コルサコフ、グラズノフらが自作を演奏し、シャリアピンがボロディンの『イーゴリ公』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』のアリアを歌った。さらにはニキシュがチャイコフスキーを指揮した。これで大成功しないわけがない。歩みは続く。翌1908年、シャリアピンを主役にパリ・オペラ座で『ボリス・ゴドゥノフ』を全幕上演。大成功だ。
1909年。彼の興業に、オペラに加えてようやくバレエが発案される。しかし企画段階のさなかにディアギレフの最大の資金援助者だったヴラジーミル大公が亡くなった。海外で成功すれば国内では誹謗中傷に巻き込まれる。帝室からの援助はない。帝室劇場の道具を貸し出してもらえない。リハーサル会場さえ使うことができなくなった。莫大な経費がかかるオペラをあきらめてバレエだけにした。
成果はパリ・シャトレ座、1909年5月19日に開かれた「セゾン・リュス」(ロシアの季節)は、
『アルミードの館』(音楽:チェレプニン)
『韃靼人の踊り』(音楽:ボロディン)
『レ・シルフィード』(音楽:ショパン作曲/ストラヴィンスキー、グラズノフ、タネーエフ、リャードフ、ソコロフ編曲)
『クレオパトラ』(ロシア音楽メドレー:アレンスキー、タネーエフ、ムソルグスキー、チェレプニン、グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ)
『饗宴』(ロシア・バレエ音楽メドレー:グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー)
これらの作品が演目に上がった。振付師ミハイル・フォーキン、ダンサーにアンナ・パヴロワやヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサヴィナらがいて、これを事実上の「バレエ・リュス」旗揚げと見なすこともできるだろう。ディアギレフの舞台へのニジンスキーのデビュー公演でもあった。
 ニジンスキーはディアギレフに出会う前からバレエ界では知られていた。17歳の頃、彼を採り上げた最初の批評から「静止しているような跳躍」が絶賛され「稀に見る天才」が出現したと書かれている。ディアギレフに近かった批評家、ワレリアン・スヴェトロフは「彼のダンスの芸術的な特質は並外れているが、同時に、天才的な役者であることを示した」、と。
『ディアギレフ』(シェング・スヘイエン著 鈴木晶訳 みすず書房)にはダンサーとパトロンについての記述がある。要約して引用する。
――1907年、17歳当時、ニジンスキーにはパーヴェル・リヴォフ公爵という後援者がいた。当時、男性女性にかかわらず、バレエ・ダンサーがパトロンの「世話になる」ことはきわめて自然で、パトロンは、性的関係と引き換えに、ダンサーたちを経済的に援助し、上流階級に紹介した。暗黙の階級制があり、しばしば仲介業者を通じて、最も優れた、あるいは最も美しいダンサーは最も裕福なパトロンに囲われた。――
1907年から1908年にかけての冬に、ディアギレフはニジンスキー、リヴォフと青年時代からの友であるヌーヴェリと三度食卓を囲んでいる。ニジンスキーの方がディアギレフに熱心だったという。そして1908年秋、彼ら二人は親密になった。以後5年にわたり、ディアギレフのバレエ団はニジンスキーを軸に恐ろしいほどの勢いで回転していく。
1909年の公演を見たハリー・ケスラー公爵は、ホフマンスタールに手紙を書いた。ニジンスキーは蝶のようだが、同時に男らしさや若さの象徴でもある。バレリーナも劣らず美しいが、彼が登場すれば霞んでしまう、と。そして翌日再び
――これほど美しく、これほど洗練され、劇場で上演されてきたありとあらゆるものをはるかに超越した「模倣芸術」がこの世にあるとは、夢にも思いませんでした。不思議ですが、本当です。女性たちも、ニジンスキーと何人かの男たち、というより少年たちも、生きた若い神と女神として、もっと高い、より美しい別世界から降りてきたようでした。私たちはまさに新しい芸術の誕生を目撃しているのです。――(前掲書)。
このときまでに用いられた音楽は、まだ新しい響きがする音楽はなかった。翌1910年、『火の鳥』でストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky 1882 -1971)がバレエ・リュスにデビューするまでは。


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ディアギレフは1909年公演が終わると、翌年以降の方向について二つの決定をした。ひとつは毎年必ず新作を複数上演すること。もうひとつは、ロシア人以外の才能を発掘することで、フランス人の作曲家のクロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1862 -1918)とモーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel 1875-1937)に近づいていった。
ドビュッシーは、バレエ・リュスの1910年6月23日のパリ・オペラ座公演の『火の鳥』初演を見ていた。作曲はイーゴリ・ストラヴィンスキーというロシアの若い作曲家。ニジンスキーは主役ではなく「金の奴隷」を踊っていた。ドビュッシーはジャック・デュランに書き送っている。――『火の鳥』は完璧ではありませんが、いくつかの点ではひじょうに優れています。少なくとも、ダンスのおとなしい奴隷にはなっていません。(…)なるほどディアギレフは偉大な男であり、ニジンスキーは彼の預言者です。――
1911年6月13日、パリ・シャトレ座で『ペトルーシュカ』が初演された。ニジンスキーが主役を踊った。ドビュッシーはロベール・ゴデに書いた。――ストラヴィンスキーは、色彩とリズムに関して本能的な才能をもっています。子供っぽいと同時に、野性的です。それでいて、全体の構成はじつに繊細です。――
その後、ストラヴィンスキーから『ペトルーシュカ』の楽譜を贈られたドビュッシーは「どうもありがとう」と礼状を書く。――この作品は、いわば音の魔法に満ちています。人形の魂が魔法の呪文で人間になるという神秘的な変容。(…)きっときみはこれから『ペトルーシュカ』よりも偉大な作品を書くでしょうが、これはすでに金字塔です。――
ドビュッシーはこれらのバレエ・リュスとニジンスキーの踊りを見たあと、1912年5月29日の自作『牧神の午後への前奏曲』のニジンスキー振付デビュー作にして主役を踊る舞台を目の当たりにする。
1911年10月26日、ディアギレフからこの曲をバレエに使いたいと打診を受け、ドビュッシーは許可した。10分あまりの作品の振付の稽古の数は100回を超えたという。
ドビュッシーは、しかしニジンスキーの振付を批判した。――ニジンスキーが私の作品にどのような類の振付を考えたか、私にはまったく想像もつきませんでした。悪い予感がしていたのは本当です。(…)舞台の上で、ニンフや牧神たちが、まるで操り人形ででもあるかのように、あるいはむしろダンボール製の人形ででもあるかのように、しかも、つねに横向きで、いかつく、角ばって、また古風かつグロテスクに様式化された身振りで動くのを見て感じた恐怖については、お話するのをあきらめますよ!――
「カーブした旋律線に溢れ、揺れ動く、揺りかごのような動きの音楽」と、ニジンスキーの振付が「耐え難い不調和」だと嘆く。(Claude Debussy: Biographie Critique by Francois Lesure , Klincksieck 『伝記 クロード・ドビュッシー』フランソワ・ルシュール著 笠羽映子訳 音楽之友社刊)。
一方、ニジンスキーはニジンスキーで、この音楽が必ずしも彼の理想のものではなかったという資料もある。色彩を評価しつつも「自分の構想した動きのためには、あまりにもぼんやりとし、あまりにも甘美だ」と考えていて、「耳障りなところがないという点を除いて、あらゆる点で満足していたのだ」。(前掲書)。


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このように作曲家と振付・舞踊家は互いに違和を感じあっていた。にもかかわらず、ドビュッシーはバレエ作品『遊戯』の契約をディアギレフと1912年6月8日に結んだ。テーマは当時の「未来派」というべきか、1920年の近未来に設定され、飛行機あるいは飛行船ツェッペリンが空に浮かぶという背景に、登場人物はテニスウェアを着た三人の踊り手だけ、というのが草案だった。

ニジンスキーは「手記」のなかで書いている。
――私がこのバレエを作った当時、私はディアギレフとの「生活」の感化を受けていた(…)。『牧神』は私であり、『遊戯』はディアギレフが夢想した生活である。彼は恋人として二人の少年を所有していたかったのだ。彼はよくそう話したが、私は拒否した。ディアギレフは同時に二人の少年と寝たかった。そして、少年達に愛撫してもらいたかった。バレエの中では、二人の少女が二人の少年のかわりをしていて、若者はディアギレフである。三人の男の恋愛関係は舞台上では表現できないので、役柄を変えた。私はこの邪悪な愛の着想を嫌悪していたが、観客にも嫌悪してもらいたかった。だが、私はこのバレエを完成し得なかったのだ。ドビュッシーもまた、この物語を好んでいなかった(…)――(『ニジンスキーの手記』市川雅訳 現代思潮社刊)。
『遊戯』の初演は1913年5月15日、パリ・シャンゼリゼ劇場。失敗だった。ただし、不成功はバレエに関してのことであり、音楽に関してではない。ディアギレフは『遊戯』をドビュッシーの最高傑作のひとつであると認めていた。ニジンスキーはバクストが作った衣装を着けたが「黒いベルベットで縁取られ、緑のズボン吊りのついた、白いショートパンツ」は、かなり女性的だった。ディアギレフは三人の男女ができるだけ同一に見えるような化粧をすることと、男であるニジンスキーが女性ダンサーしかしない爪先立ちで踊ることを要求した。性別の認識をぼかす、ということだ。これもまた、100年後の現代を先取りしたものだったといえる。
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先取りといえば、当時のバレエ界では男性ダンサーが主役を務めるのはニジンスキーが初めてだった。近年ではモーリス・ベジャールが率いた20世紀バレエ団がその伝統を受け継いでいた。また1910年、ニジンスキーは帝室マリインスキー劇場から解雇されたが、その理由は『ジゼル』(音楽:アダン)を踊るのに6月18日にディアギレフのバレエ団でのパリ公演で使った衣装を着けたからだ。それまでの伝統的な衣装は上着が長く、膝あたりまでが隠された。美術家ブノワが作った衣装はタイツが肌にぴったりで、上着はベルト付きの短いチュニック。腰回りの体の線がはっきりと見えた。この衣装が「猥褻」という理由で帝室劇場から解雇され、めでたくニジンスキーはディアギレフ・バレエ団のダンサーに専念できることになった。現代の男性バレエ・ダンサーの舞台衣装の「常識」はニジンスキーが切り拓いたものだった。

--Non, mais l'âme
De paroles vacante et ce corps alourdi
Tard succombent au fier silence de midi :
Sans plus il faut dormir en l'oubli du blasphème,
Sur le sable altéré gisant et comme j'aime
Ouvrir ma bouche à l'astre efficace des vins !
Couple, adieu ; je vais voir l'ombre que tu devins.
いな、されど
言葉の空なる霊も 重く疲れし肉体も、
真昼の驕れる深閑に 終に 打負け臥転ぶ。
そのまま寐ねよ 冒瀆の癡言を忘れ、喉は乾き、
真砂の上に仆れ伏して、葡萄の美酒にあらかたの
あまづたふ日に、口をひらくは われのこよなき逸楽ぞ。
さらばよ、水波女、移り変りしなが幻影をわれは眺めむ。
(マラルメ『半獣神の午後』から 鈴木信太郎訳)
 
 

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